ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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1章 北条私立探偵事務所

 十一月十一日。昼下がり。

 事務所のデスクで、明子は便箋一枚にしたためられた短い手紙を、何度も繰り返し読んでいた。ついで、封筒の裏表もつくづくと眺める。レースを模した縁飾りのある淡い水色のレターセットに、優しく丁寧な女文字が並んでいる。

 明子の唇から呟(つぶや)きが洩れた。

「しをりさん、か……」

 短い一言だが、どこか男っぽさが漂っている。

 いや、言葉づかいだけではない。彼女の恰好も、ダークスーツにネクタイ、黒の革靴と、まるで男性そのもののようなのだ。それが、バランスのよい長身に妙にしっくりと合っている。

 応接セットでブリッジの勝負に熱中していた青年が明子の呟きを聞きつけて振り向いた。つり目だが顔の彫りの深い、なかなかの二枚目だ。

「なんだ、また依頼か?」

 と、ちょっと呆れたように言う。中背で細身。黒のトレーナーと細い綿パンツが、嫌になるほどよく似合っている。

 すると、ブリッジの相手をしていた若い女性も、つられたように顔を上げた。パーマのかかったふわふわのロングヘアーに、色白の肌、きらめく大きな瞳と、こちらもかなりの美形なのだが、童顔なので、美女というよりむしろ美少女と呼びたくなる雰囲気がある。

「しおりさんって、あの人のことね? 兄貴様と高校二年の時に同級だった――」

 と『美少女』に言われて、明子はうなずいた。

「僕の友達さ。卒業してからは一度もあってなかったけど……。六年ぶりに彼女のよこした手紙が、これなんだ」

 と水色のレターセットを近くにいた青年に手渡す。二人の男女はブリッジの勝負などそっちのけにして、頭をつき合わせながらそれを覗き込んだ。明子は椅子を彼らのほうに回すと、腕を組んで考え込んだ――。

 

 ここは宮城県仙台市の、とある雑居ビルの六階にある私立探偵事務所。

 所長は北条明子。徹底した男装と男口調の、風変わりな女探偵だ。当年とって二十五才と年齢はまだ若いが、大きな事件をいくつも解決してきた実力派で、警察にも結構顔がきく。無類の林檎(りんご)好きなので、「探偵アップル」などという仇名も頂戴している。

 そして、その探偵アップルをサポートしている助手たちが、今、手紙を読んでいる二人の男女だった。

 つり目の二枚目の名前は岡崎真一。明子の中学、高校時代の同級生で、当時は明子のライバルだったのだが、今では彼女の助手兼恋人という、とても心強い相棒になっている。仇名は、ルパンという。

 童顔の美女のほうは、明子の一つ違いの妹で、名前は北条紀子。華奢でかわいらしい見かけとは裏腹に、事務所きっての格闘家で、情報収集にも抜群の才能がある。普段は市内の喫茶店でアルバイトしているが、事務所が忙しくなると駆けつけてきてくれる頼もしい助っ人だ。彼女は、のんのと呼ばれている。

 探偵アップル、ルパン、のんの。いい年頃の男女の通称にしては子供っぽいかもしれないが、中学生の頃からずっとそう呼ばれていて、すでに本人たちの一部のようになってしまっているものなので、そのあたりのことは御容赦のほどを……。

 ちなみに、今日、紀子が事務所にいたのは、仕事が詰まっていたからではない。

 先月、市内の電気部品会社の会長が殺害された事件を解決して以来、閑古鳥が鳴いていたこの事務所にも人物調査などの依頼がたて続けに舞い込んできたので、紀子はアルバイトを休んで、ずっと事務所に出ずっぱりになっていたのだ。

 だが、それも今日の午前中には全部片づいて、三人の所員は事務所で久しぶりにのんびりとくつろいでいたのだった。

 

 真一と紀子は、所長の明子と同じような慎重さで手紙を何度も読むと、それをテーブルの上に置いた。

「なんか、しをりさんはずいぶん危ない立場にあるみたいねぇ……この内容の通りだとすると」

 と紀子が少し含むような言い方をすれば、一方の真一は、単刀直入に言ってのけた。

「がせじゃないのか? 被害妄想くさいぞ」

 明子がそれには何も答えずに、ただ促すような目をしたので、真一は、ふん、と鼻を鳴らして話を続けた。

「文章が全然とり乱してないからさ。普通、今にも殺されそうになってるんなら、文字も文も、もう少し慌ててるもんだぞ」

「誤字は一つもないし、字も綺麗よね」

 と紀子も手紙を眺めながら言う。

「それに、あたしはここがひっかかるわ――『このままでは、遠からず私は主人に殺されてしまうでしょう』――なんて言うか、妙に冷静よね。客観的。自分の命が狙われてるっていうのに」

「だいたい、今にも危ないってんなら、なんでわざわざ時間のかかる手紙を使うんだ。普通は電話だぞ。それとも、旦那が四六時中電話を盗聴していて、直接は話せないってのか?」

「書き出しの部分も、なんかちょっと芝居がかってるわよね。もちろん、こういう書き方する人だっているけど……それよりは『同級生だった橋本しをりですが』とでも書いてよこすほうが普通のような気がするわ」

 助手たちが次々に数え上げる不自然な点に、明子は、ふむ、と呟いて天井を見上げた。

「――その通りだと、僕も思う。文面は切羽詰まったようなことを言っているのに、手紙の形式は完璧、封筒の表書きだって、きちんとしている。なんだかアンバランスで妙だ……でも」

 考え込むように明子が口をつぐんだので、真一と紀子は目を丸くした。

「おいおい、まさかこいつが本物だなんて言うんじゃないだろうな」

「何かひっかかるの?」

 すると、明子は深い溜息をついた。

「これを書いたのが、しをりさんだってことさ。誰かを殺人犯に仕立てて、悲劇のヒロイン役に酔うような女性じゃなかったんだ……少なくとも六年前まではね」

「昨日の友は今日の他人」

 と真一が諺(ことわざ)をもじると、明子は小さくうなずいた。

「分かってる。人間は変わっていくものだからね……。まして、僕の知っているのは、まだ高校生だったころの彼女だ。結婚してどんなふうに変わってしまったかは分からないわけだし……」

 そう言いながらも、明子の顔から気がかりそうな色は消えなかった。

 

 紀子はちょっと首を傾げると、唇に人さし指をあてて思い出す顔つきになった。

「たしか、しをりさんが結婚したのって、高校卒業して間もなくだったわよね。兄貴様の学年では一番早いくらいで……うん、そうそう、兄貴様が探偵修行にアメリカに渡ったばかりのころのことよ。こっちの自宅に結婚式の招待状が届いていたもの」

 兄貴様、とは明子のことだった。紀子は、ボーイッシュな姉を昔から兄呼ばわりしているのだった。

「えっと、結婚相手はたしか……大きな貿易会社の社長の跡取りだったはずよ。お金持ちの上にハンサムなんで、シンデレラみたいな玉の輿(こし)だ、って学校でも話題になったもの。恋愛結婚だったって聞いてたんだけど、何があったのかしらね……」

 紀子の話を聞きながら、明子はますます考え込んでしまっていたが、やがて顔を上げると、仲間たちに言った。

「やっぱり連絡をとってみるよ。どうしても気になるんだ」

 すると、真一が肩をすくめながら言った。

「好きにしろよ。依頼を受けるも受けないも、決めるのはおまえだからな。俺たちは言われた通りに動くだけだ」

 素っ気ない口ぶりの陰に、明子に対する全面的な信頼が覗いていた。そうそう、と紀子もうなずく。

「しをりさんだって、一度きちんと調べてもらえば、それで納得できるでしょうからね。多分、旦那様が浮気かなんかしてて、少しノイローゼぎみになってるんだと思うわ」

「Thanks」

 立て続けの仕事が済んだばかりだというのに、嫌な顔ひとつせずに協力を約束してくれる仲間たちを頼もしく思いながら、明子はデスクの受話器を取り上げ、手紙の末尾に記された電話番号を押しはじめた。

 真一と紀子はブリッジの勝負を再開している。

 ――本当は、明子だってこの手紙の内容はなんだか胡散(うさん)臭いと思っているのだ。今までにも、実際に命を狙われている人からの手紙や電話を何度か受けたことがあったが、どの時にも、必ず依頼人は精神的に動揺して怯えていた。人間ならばそれが自然な反応だ。ところが、この手紙にはそんな不安が感じられない。案外、このあたりの判断は正確にできるものなのだ。

 だが……

 ――私を覚えて下さっていますか。そう信じて、この手紙を送ります――

 紀子に芝居がかっていると評されてしまった書き出しの部分が、明子を引き止めていた。なにしろ、明子の「覚えて」いる彼女は、決して嘘をついたり他人を騙したりするような女性ではなかったのだから……。

 

 長いコール音の後、ようやく電話口に人が出てきた。

「はい、佐々野でございます」

 年とった、品のよい女性の声だった。

 しをりさんのお義母さんかな、と考えながら、明子はできるだけ普通の調子で話し出した。

「あの、私は、しをりさんの高校時代の同級生で北条と申しますが、しをりさんはいらっしゃいますでしょうか……?」

 初対面の電話の相手には、明子も少しは女らしい口調を使う。いきなりいつもの男言葉で話し出すと、相手がびっくりしてしまうからだ。

 だが、それにもかかわらず、電話の向こうの相手は一瞬沈黙した。戸惑うような気配が伝わってくる。明子が、おや、と思ったとたん、老女の落ちついた声が返ってきた。

「少々お待ち下さいませ。只今お替わりいたしますので」

 そして、保留のメロディが流れだす。

 明子が心の中でちょっと首を傾げていると、ほどなく電話口にまた人が出てきた。

 今度は野太い中年の男の声だった。

「もしもし。アップルかね?」

 明子はびっくり仰天してしまって、とっさには声も出せなかった。相手からだしぬけに仇名で呼ばれたからではない。その声が、明子のよくよく知っている人物のものだったからだ。

「……太っ田(ふとった)さん……?」

「やっぱりアップルか。どうした。ニュースでも見たのかね?」

 太っ田さんこと太田正義警部は、明らかに仕事の口調で話していた。太田は宮城県警本部刑事一課――つまり、強盗や殺人といった粗暴事件を担当する課の、係長だ。

 明子の心の中を暗く冷たい影が走り抜けていった。思わず急き込んで尋ねる。

「しをりさんは――!? 彼女は僕の同級生なんです! 彼女に何かあったんですか!?」

 すると、言外に何かを宣告するような、決定的な沈黙が返ってきた。

 明子は受話器を固く握りしめた。

「…………亡くなったんですね?」

 質問の形で確認すると、電話の向こうで太田が静かにうなずく気配がした。

「今朝、自宅のベッドの中で死亡しているのが発見されたよ。死因は、シアン化ナトリウム(注:青酸の一種)の服用による中毒死。目下、自殺と他殺の両方の線で調査しとるところだ。……もっとも、今日の午後のニュースあたりでは、彼女の服毒自殺ということで、まず発表されるかもしれんがな」

 ほんの少し苦みを含んだ、皮肉っぽい太田の口調だった。明子は、死亡現場を調べた大部分の警察関係者がこれを彼女の自殺と断定したこと、そして、太田だけが他殺と睨んで調査を続けているらしいことを察した。左手に持っていた手紙を見つめると、血が滲むほど強く唇を噛みしめる──。

 が、次に口を開いて話し出したとき、明子はもう、冷静沈着な仕事の声になっていた。

「本当に自殺かどうか、徹底的に調べてください。実は今しがた、しをりさんからの手紙が届いたんです。……ええ、ご主人から命を狙われていると書いてありました。……そうです。はい。じゃ、その時に」

 明子が電話を切って振り返ると、真一と紀子はすでに上着をはおって、今すぐにも出かけられる恰好で待機していた。

「彼女の家に行けばいいんだな。住所は分かるな?」

 と真一が車のキィをちゃらつかせながら確認してくる。明子がうなずくと、とたんに紀子が真一からキィを取って出口へ歩きだした。

「先に行って、車のエンジンかけとくわ」

 と言い残して、足早に事務所を出ていく。明子と真一は事務所の戸締まりをしてから、エレベーターで駐車場へ降りていった。

 明子は終始無言のまま、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、じっと何かを見据えるような目をしていた。しをりからの手紙は、上着の胸ポケットに大切にしまいこんである。その中の一節を、明子はずっと思い返していたのだ。

 ――どうか、私たちを助けて下さい――助けて下さい――助けて――─

 ……だが……!

 

 ふと気がつくと、真一が、エレベーターの壁に寄りかかった恰好で明子を見つめていた。目が合ったとたん、真一の手が伸びてきて、ぐい、と明子の体を抱き寄せる。

「元気だせって。どのみち、あの手紙が届いた時には彼女はもう死んでいたんだ。おまえがどんなに急いだって、間に合うはずはなかったんだよ――」

 とたんに明子は涙ぐみそうになって、慌てて真一の胸の中で顔をそむけた。

「分かってる。大丈夫だよ」

 と、ぶっきらぼうに答える。

 エレベーターが一階で停まって、ドアが開いた。明子は鋭い目で外の景色を睨みつけると、足早に外へ踏み出していった。

「ふん……」

 真一は複雑な表情でその後ろ姿を見送ると、少し遅れて、自分もエレベーターを降りた。

 とにかく、彼の恋人は他人に弱みを見せたがらない意地っ張りなのだ。そんな彼女の姿は、痛々しくもあり苦々しくもある。

 十一月の空はどんよりと鈍色に光り、肌寒い風が、色の変わった街路樹の葉をざわざわと鳴らし続けていた――。

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