病棟の廊下から張り出したサンルームに、彼女はいた。
長い髪、小柄な体、大きな黒い瞳……年の頃は14,5歳というところだろうか……とても華奢な姿になってしまったみっきが、ひっそりと日溜まりの中に座っていた。
「じゃ、私は車で待っているから」
といって、鈴木麻美は引き返していった。記憶を失い、姿も変わってしまったみっきと会うのが辛いんだろう。
俺も、心中はひどく複雑だったが、大きく息をひとつ吸うと、思い切って歩き出した。
サンルームに入っていって、彼女の向かい側の椅子に腰を下ろす。
少女はパジャマの上にピンクのガウンを羽織り、膝に置いた本を読んでいた。とてもかわいらしい。かわいらしいけれど……みっきとは、似ても似つかない。
そのまま黙って見ていると、彼女のほうで目を上げ、戸惑ったように俺の顔を見つめて、やがて、おずおずと話しかけてきた。
「あの……すみません……あたしをご存じの方ですか?」
不安そうな黒い瞳が、なんだかひどく痛々しかった。
「いいえ」
と俺が答えると、彼女はホッとしたような顔をし、すぐに真っ赤になった。
「……ごめんなさい、変なこと聞いてしまって。……あたし、記憶喪失なんです。だから、あたしのことを知っている方がいらっしゃっても、あたし、思い出せなくて、それで……」
うつむいた肩の線が、ひどく細く頼りなげで、俺はまた胸が痛くなった。本当のことは、とても言えなかった。
「俺はここに入院している友だちを見舞いに来たんです。あなたとは初めてお会いしますよね」
と作り笑いで言うと、彼女は本当に安心したような表情で、また顔を上げた。
彼女の膝の上には、数学の教科書が広げられていた。俺は作り笑顔のままで尋ねた。
「勉強してたんですか? 中学校の?」
彼女はまた赤くなると、はにかむようにうなづいた。
「あたし、再来週には学校に戻れるんです。ホントはもう3年生なんだけど、1年以上休学したから、もう一度2年生になります。ずっと勉強してなかったから、こうやって教科書読んでいても、意味が全然わかんなくて……」
「教えてあげよ――あげましょうか? 俺も勉強はあまり得意じゃないけど、中学の数学くらいなら、なんとか教えられると思うな」
すると、彼女は驚いたように俺を見つめ、それから、大きくこっくりとうなづいた。
「ぜひ、お願いします! ……ええと……」
「俺は、原です」
「原さん……あたしは立川沙也香って言います。よろしくお願いします」
篠崎みゆき、というもう一つの名前は、本当に全く覚えていないようだった。
俺たち二人は、そのままサンルームで一時間ほど数学の勉強をした。図形、グラフ、連立方程式まで説明したところで、看護婦が彼女を呼びに来た。回診の時間だという。
それじゃ、と俺が立ち上がると、立原沙也香が急に俺の上着をつかんだ。まるで、俺を引き止めようとするように。
そして、そんな自分を恥じるように真っ赤になると、うつむきながら言った。
「あの……今日はありがとうございました。おかげですごくよく分かりました。……あの……また来て、勉強を教えていただけますか?」
礼儀正しい、本当に良い娘だ。
素直で、行儀が良くて、控えめで……みっきとは本当に性格が違っている。
俺は心の中に抑えようのない寂しさを感じながらも、笑顔でうなづいて見せた。
「いいですよ。来週にでも、また来ます。今度は俺が昔使った参考書も探して持ってきますから」
すると、彼女はぱぁっと嬉しそうに顔を輝かせた。
「本当ですか? きっとですよ、周一郎さん。約束ですよ」
――必ずあたしに会いに来て。約束よ。忘れないでね……。遠い日の約束が、彼女のことばに重なって聞こえてきた。
みっきはこの娘の中にいるんだ。
姿はもう見えないけれど、でも、どこかで俺を覚えていてくれているのかもしれない。
……いや、俺がそう思いたいだけなのかもしれないけれど……
俺は、そんな自分自身に苦笑いすると、立川沙也香にうなづいてみせた。
「うん、会いに来ますよ。約束します」
病院の建物を出て、鈴木麻美の待つ駐車場へと歩きながら、俺は長いため息をついた。
立川沙也香は、そのままで見れば、本当にいい娘だ。顔はかわいいし、性格もいいし、礼儀正しいし。彼女にでもしたら誰からもうらやましがられそうな、ホントにとびきりの娘だ。
だが、みっきじゃない。
俺は彼女に勉強を教えながら、必死でみっきを彼女の中に探したのだが、どこにも、片鱗さえもみっきは見つからなかった。
みっきの魂は立川沙也香にすっかり吸収されて、同化されてしまったらしい。もう、まったくの別人なんだ……
俺は立ち止まった。目頭が熱い。
みっきは、これで本当に良かったんだろうか? 全てを忘れてしまって、自分自身が誰かさえも無くしてしまって、それでも、彼女は生きることのほうを選んだ。
でも、本当にこれで良かったんだろうか……?
俺は、また長い大きなため息をついて、重くのしかかってくるものを払うように、頭を振った。
「きっとですよ、周一郎さん……かぁ……」
わざと声に出してつぶやいてみる。何か考えていなければ、今にも声を上げて泣き出しそうな気分だった。
みっきは、なかなか俺の名前を覚えなかったけど、でも、絶対に「さん」はつけなかったよなぁ。正一郎とか、誠一郎とか、竜一郎とか、ホントいろいろ呼ばれたけれど、「周一郎さん」とは一度も呼ばれなかったもんな。
みっきはホントに相当失礼なヤツだった。でも、なぁんか憎めなかったんだよなぁ……
そのとき、俺は突然あることに気がついた。
周一郎さん?
周一郎、さん……?
周一郎――
……俺……彼女に、自分の名前を教えていたっけか……?
俺は必死で立川沙也香との会話を思い返した。
……言ってない! 俺は「周一郎」という名前のほうを、彼女には教えていない!
俺は、ただ「原です」と名乗っただけだ。
でも、彼女は俺を名前で呼んだ……
「みっき!」
俺は思わず声を上げた。
やっぱりみっきだ!
どんなに姿は変わっていても、彼女はやっぱり、みっきだったんだ!!
俺は嬉しくて嬉しくて、歓声を上げて踊りだしたいくらいだった。
だが、病院に駆け戻ろうとして、俺は足を止めた。
やめておこう。彼女に「きみは本当はみっきなんだ」と言ったって、彼女は混乱して不安になるだけだ。
今はただ、彼女の中にみっきが生きていたと分かっただけでいい。
みっきは彼女の中に息づいていて、彼女と一緒に新しい人生を生き始めている。そのことが確かめられただけで、今はもう十分だ。
俺は病院の建物を見上げた。
彼女が最終的にみっきの記憶を取り戻して、俺のことを思い出せるかどうか、そこまでは分からない。同じように、彼女が立川沙也香の方の記憶を取り戻していく可能性だってある。
でも、もういい。
みっきは自分で新しい人生を選んだ。そして、また確実に自分の人生を歩き始めた。きっと、彼女の中のみっきの魂も、そんな自分に満足しているんだろう。
「ほらね、周一郎。あたしだって、ちゃあんと前向きに生きられるのよ」
そんなみっきの声が聞こえてくるような気がした。
うん、生きるといい、みっき。
俺は心の中でつぶやいた。
あんたがどんなふうに新しい命を生きていくのか、俺はしっかり見ていてやるから。
たとえ、あんたが生涯俺のことを思い出せなかったとしても、それでも、俺はずっとあんたを見守っていてやるから……。
俺は拳でぐいと涙を拭った。悲しい涙じゃない。嬉し涙だ……たぶん。
俺は頭を巡らすと、頭上の青空を見上げた。
青い青い空……薄い絹糸のような雲が空に白い筋を引いている。
こうして見上げているこの瞬間にも、空にはユーレイングしている誰かの魂が漂っているのかもしれない。
でも、俺の目にそれは見えない。俺も今、自分自身の体の中にいて、自分の人生を歩いているから。
俺は自分の両手を見つめると、ぎゅっと握りしめ、空に向かって拳を思い切り突き出した。
幽霊なんて、幽霊なんて……
「くそったれっ!!」
青い空の中から、小さく誰かの笑い声がしたような気がした。
……空耳だったのかもしれない。
―― The End ――