その日から彼女のボディーガードが始まった。
外出する時はもちろん、アパートの部屋にいる間も、俺は彼女から片時も離れずにいた。自動車、工事現場、川や池、通りすがりの人間……ありとあらゆるものに注意をはらって、彼女が事故に巻き込まれないように気を配った。部屋にいる時でも、ガスや電気、隣人やセールスマンと、気をつけなくちゃならないものはいくつもあった。
実際、人間なんて、いつどんなはずみで命を落とすか分からないのだ。自分がいつ死んでもおかしくないと思っている人間は、この世にけっこういるのかもしれない。彼女の場合、その不安がちょっと病的に強くなっただけのことで……。
俺がそばにいるだけで彼女が安心できるのなら、それもいいかな、と俺は思うようになっていた。
とはいえ、ただ彼女の後をついて歩いていては、周囲からストーカーと誤解されかねないので、俺は彼女の恋人みたいにふるまうようにしていた。彼女が買い物に行けば荷物持ちをしたし、映画館や美術館では腕を組んでお供をした。彼女がファーストフード店で働き始めてからは、バイトの時間が終わるまで、店の片隅でずっと待ち続けた。はた目には、俺たちは、さぞ熱烈な恋人同士に見えていたことだろう。
夜も一緒にいた。
初め俺としては、夜ぐらいは自分の家に帰るつもりでいたのだ。だが、夜の間に泥棒に入られたり火事になったりしたら怖い、と彼女が言うので、結局そのまま残ることにした。
はっきり言って、彼女は美人だ。その美女が全面的に俺を頼ってくるのだから、俺としても悪い気持ちはしない。しかも、俺はそれまで恋人さえいなかった独り者だ。
「恋人のような」俺たちが、本物の恋人の関係になるまで、そう時間はかからなかった――。
そうして、季節はめぐっていった。
若葉の季節から、照りつける太陽の季節へ。そして、落ち葉の季節、雪と霜の季節へと……
「ねぇ、涼(りょう)、おいしい?」
由美が俺の顔をのぞき込んで聞いてきた。
最近では彼女もすっかりうちとけて、俺を名前で呼ぶようになっていた。目の前のテーブルには、彼女が腕を振るったごちそうが並んでいる。料理の真ん中には、大きなハート型のチョコレートケーキ。――今日はバレンタインデーだ。
「もち、うまいぜ。最高だ」
お手製のフライドチキンにかぶりつきながら俺が答えると、由美の顔がぱぁっと明るくなった。
「良かったぁ。それ、自分以外の人に作ってあげるの初めてだったから、ちょっと心配だったのよ」
俺は次のチキンにのばしていた手を止めて、思わず眉をしかめてしまった。
「やっぱりまだ信じているのか。麗美と暮らしていたってこと」
最近、俺は精神医学の本など買い込んできて、由美の妄想を分析していたのだ。
専門家の意見を聞いたわけじゃないから、単なる素人判断なのだが、由美はどうやら「二重人格」のようだった。十八の時に家族を事故でなくした彼女は、淋しさのあまり、自分自身の中にもう一人の自分を作り出して、一人きりの孤独を忘れようとしたのだ。自分が同時に二人いるつじつまを合わせるために、「未来の自分が私に会いに来てくれたのだ」と理屈づけをして。
俺は、そのことを折にふれ由美に言い聞かせてきた。「麗美」が来ないのはお前の二重人格が治ってきたからで、だから、お前が一年以内に死ぬなんてこともないんだよ……と。
だが、由美は澄んだ瞳で俺を見つめ返すと、静かな声で言った。
「あなたが信じてくれないのは、しかたのないことだわ。誰だってこんな話、信じられるはずないものね……。でもね、涼、あたしは覚えているのよ。麗美がこの部屋にいて、あたしと二人で何をしたのか、何を話したのか。麗美はちゃんといたのよ。そして──」
言いかけて、由美は口をつぐみ、そのまま遠い眼になった。
俺は説得を続けようとして、思い直した。いくら言っても、由美が麗美の存在を信じている間はダメだ。彼女に麗美を忘れさせなければ……。
でも、どうやって?
バレンタインデーのディナーをはさんで、俺と由美は、それぞれの物思いにふけってしまった――。
そして、再び若葉の季節。
僕たちは由美の二十六歳の誕生日を街のレストランで祝った後、夜の公園をのんびりと歩いていた。
街灯の黄色い光が、公園の中のあちこちに黒い影を作り出している。風が少しあるが、ワインでほろ酔い加減の俺たちには、むしろ心地よい。
彼女のボディーガードの仕事も、今夜で終了だ。もっとも、最近ではボディーガードと言うより同棲中の恋人という感じで、まったく立場がないのだが。
「明日で一年なのね」
由美が俺の腕に寄り添いながら、つぶやくように言った。
俺は一瞬胸の詰まる思いがしたが、口では、ことさら明るく言ってやった。
「ほらな。大丈夫、死んだりしなかっただろう?」
すると、由美は大真面目な顔になって首を振った。
「それはあなたのおかげよ。涼が守ってくれたから、あたしは一年間無事だったんだわ」
「おかげって、俺は別に何もしてないぞ」
俺は思わず苦笑してしまった。実際、この一年間、由美の命が危なくなるようなことは、一度もなかったのだ。せいぜいが、階段で転びそうになったのを助けたとか、赤信号に気づかずに横断しようとしたのを引き留めたとか、その程度のことだ。
だが、由美はますます真面目な顔つきになって言った。
「ううん。気がつかなくても、きっとその時があったのよ。強盗が来ていたのかもしれない。でも、涼がいたから、押し入らずに逃げていったのよ」
「そうかな」
俺はまた苦笑した。まあ、そんな風に役に立っていたとでも思わなくては、ボディーガード料をもらうのは気がひけたので、一応そういうことにしておいた。
ライトアップされた噴水の周りでは、先客のアベックが幾組も寄り添いあっている。
俺たちは、何となくその仲間にはなりたくなくて、公園のほの暗い方へと足を向けていた。花壇の方から吹く風が花の香りを乗せてくる。
すると、突然由美が言った。
「あたし、今夜、一年前に行くわ」
静かだが、きっぱりした声に、決心がにじんでいた。
「一晩中、麗美を待っていたときの辛さ、今でも忘れられないのよ。一年前の自分に会って、安心させてやりたいの。あたしは死んだりしてないのよ、って。――大丈夫よ。ちょっと行って来るだけだから。すぐに戻ってくるわ」
俺の表情に気がついて、由美が笑った。
俺も一緒になって笑おうとしたが、出来なかった。
時間移動なんて、由美の夢の中だけの話だと思っているのだが、それでも、不安が黒雲のようにふくれ上がってくるのを押さえることが出来なかった。
ありえない。そんなことが現実にあるわけがない。
そう思うのに、何故こんなに心配になるのだろう……?
俺は少しの間ためらってから、思い切って上着の内ポケットに手を入れた。
小さなビロード張りの小箱を取り出して、由美の手のひらに載せてやる。
本当は明日、ボディーガードの仕事が完全に終わってから出すつもりだったんだが……。
眼を丸くする由美に、俺は言った。
「指輪だよ。婚約指輪。今までは俺がそばにいたけれど、これからは君に、俺のそばにいてほしいんだ。ずっと、いつまでも」
けっこう気障なセリフになってしまったが、それを照れくさいとか恥ずかしいとか感じている余裕はなかった。俺は由美の顔を、息を詰めるようにして見守っていた。
由美はますます眼を大きくして俺と指輪の箱を見比べ……無限にも感じられた数秒間の後、不意に笑い声を上げた。
「そうっか……そういうことだったのね」
そして、彼女はくすくすと笑い出した。笑って笑って、しまいには笑いすぎて涙さえにじませながら、俺の胸に顔をうずめてきた。
「ねぇ、涼……これだったのよ。これのせいで、麗美は来なかったんだわ……」
俺は何も言わずにそんな由美を抱き寄せた。
彼女がこう言ってくれることを期待していたのだ。
「だって、麗美は今のあたしですものね……。 あたしがあなたのプロポーズを受けたから、一年前の自分には会いに行かなかったんだわ。そういうことだったんだわ……」
なおも独り言のように言って笑い続ける由美に、俺は箱から取り出した指輪をそっとはめてやった。由美は街灯の光にそれをかざして、綺麗、とつぶやくと、俺に寄り添った。
「あなたと生きて行くわ、涼。ずっとそばにいる。いつまでも、ずっと……」
その夜、由美の肩を抱いて公園を歩きながら、俺は幸せにひたっていた。
由美の左の薬指には、エメラルドの指輪が光っている。それは、彼女が「麗美」より俺を選んでくれた証でもあった。
もう、由美が「麗美」を見ることもないだろう。これからは、俺が「麗美」の代わりになるのだから。
「涼……」
由美が軽く俺を引き留めた。俺は立ち止まると、彼女を抱きしめて唇を合わせた。
夜風が公園を渡っていく。梢から聞こえてくる若葉のささやきが耳に優しい。夜が全ての生き物たちに子守歌を歌っているようだ……。
だが、その時、俺は背後に無粋な視線を感じた。
誰かがのぞいてやがる。これだから夜の公園ってやつは……。
いまいましく思いながら振り向いてにらみつけると、植え込みの陰に立っていたのは、意外にも若い娘だった。街灯の黄色い光が、横顔を照らし出している。それは、今、俺が胸の中に抱きしめているのと同じ顔――
俺が凍り付いていると、彼女はにっこり微笑み、素早く茂みに姿を消していった。後には、木の葉が風に揺れているだけ……。
「どうしたの?」
由美が不思議そうに見上げてきた。俺は我に返ると、あわてて彼女を抱きしめ直した。
「何でもない……何でもないよ」
そう、何でもない。
あれが誰であっても、真実がどうであったとしても。
俺の「由美」がこの腕の中にさえいれば……。
木々の梢では、若葉がさわさわといつまでも風に鳴り続けていた。
――THE END――