「私が会いに来てくれないんです」
その依頼人は、事務所のソファに座るなり、そう言った。
「は?」
俺は思わず聞き返してしまった。
「私に」会いに来てくれない、というなら話は分かるが、「私が」会いに来てくれない、というのは……?
今日の依頼人は妙齢の女性。しかも美人と来ているのだから、はやらない俺の事務所には珍しい客だった。
季節にふさわしい、若葉色のワンピースを身につけ、膝の上で両手を握りしめている。別に冗談を言っている様子もないのだが……。
すると、彼女がまた繰り返した。
「私が、会いに来てくれないんです。いつもなら、もうとっくに来てくれているはずなのに」
俺は思わず頭をかいてしまった。探偵事務所なんてものを開いていると、いろいろな客がやってくるが、こんな依頼人は初めてだった。どう切り出したものか、ちょっと考え込んでから、俺はオーソドックスな質問から入ることにした。
「ええと、それではまず、あなたのお名前とお年は?」
「宮沢由美。昨日で25歳になりました。」
と美女はしっかりした声で答える。
「それで、と、会いに来てくれないというのは、どなたのことですか?」
「私自身です。今度は26歳の私が来る番だったのに、昨日一日中待っていても、とうとう来てくれなかったんです」
俺はますます困惑して頭をかいた。久しぶりに客が来たと喜んでいたのだが、この分だと、近所の精神科医を紹介した方がいいのかもしれない。
そんな気持ちが表情に出てしまったのか、美女がソファの中でうなだれた。
「やっぱり、信じていただけないですよね。こんなお話」
その様子があまりに悲しそうだったので、俺はあわてて手を振った。
「いやいや、ちょっと状況が呑み込めないだけでして……すみませんが、どういうことか詳しくお話しいただけますか?」
すると、美女が顔を上げた。涙にうるんだ瞳が、すがるように俺を見上げてくる。たとえ少し頭がおかしくなっている娘だとしても、こんな眼で見つめられてしまったら、出来るだけのことはしてやりたくなってくる。
俺が大きくうなずいてみせると、美女はようやく口を開いて、こんな話を聞かせてくれた――。
高校生になった頃から、彼女は不思議な力を使えるようになっていた。
時間移動―― 過去と今の間を往来できる能力だ。
とはいえ、SF小説のように何十年も先の過去や未来に行けるわけではなかった。
行き先は、きっかり一年前の過去だけ。それより昔に飛ぶことは出来ないし、未来に飛んでいくことも出来ない。ただ、また現実の時間に戻って来られるだけだ。しかも、過去で三日間を過ごせば、現実の方でも律儀に三日が過ぎているので、あまり長い間行きっぱなしでいると、周囲の人に心配されてしまう。
タイムトラベラーと見栄を切るには、あまりにもささやかな能力のような気がして、彼女はこの力をずっと内緒にしてきた。他人に知られて変な目で見られるのも怖かった。だから、力を使うにしても、ほんの時たま、一年前の様子をのぞきに行く程度にして、周りには決して怪しまれないように、細心の注意をはらっていた。
ところが、七年前の冬、彼女の両親と祖父母が交通事故で一度に亡くなり、彼女は天涯孤独の身になってしまった。
近くに頼れる縁者もなかったので、がらんとした家の中で、彼女はたった一人、淋しさにふるえながら暮らしていた。
すると、よく晴れた春の朝、自分と同じ顔、同じ姿の女性が突然現れて、彼女に言ったのだ。
「十九歳の誕生日おめでとう、由美。今日から私が一緒に暮らしてあげるわよ」
やってきたのは、ちょうど一年後の、二十歳になった彼女自身だった。
はじめ驚いた彼女も、すぐにこの素敵な同居のアイディアに乗り気になった。
彼女たちは家を出ると、誰も知る人のいない街にアパートを借り、双子の姉妹として生活を始めた。名前も、二人とも同じでは混乱するので、年上の方は「麗美(れみ)」、年下の方が「由美」を名乗ることにした。
何しろ、もとが同じ人間なのだから、趣味も合えば気心も知れている。
二人は本物の双子もかなわないほど仲良く一年間を過ごすと、由美が二十歳になる誕生日の朝、それぞれにまた時間の旅に出ていった。「由美」は十九歳の自分と同居するために一年前へ、「麗美」は自分の時間に戻るために一年後へと……。
すると、「麗美」の戻った部屋には、二十二歳の自分が待っていて、にっこり笑ってこう言ったのだ。
「二十一歳の誕生日おめでとう、由美。今日からは、私が一緒に暮らすのよ――」
そんなふうにして、彼女はいつも自分自身と一緒に暮らしてきた。自分が一年前の自分に会いに行ったり、一年後の自分に来てもらったりしながら。
本人たちには、それは連続した時間になるのだが、周囲の人たちには、彼女たちが一年ごとに部屋に現れるように見えるので、不在になっている期間は二人で海外旅行に行っていることにした。「麗美」と「由美」には外に友達らしい友達もいなかったので、それを疑われるようなことはなかった。
ところが、今年。
彼女が一年前から自分の時間に戻ってくると、アパートの部屋には誰もいなかった。
本当なら、「二十五歳の誕生日おめでとう」と言ってくれる、二十六歳の「麗美」がいるはずだったのだが……。
彼女は一日中、部屋の中に座り込んで待ち続けた。夜が更けて、日付が変わり、とうとう朝が来たが、それでも「麗美」は現れなかった。
「麗美」に何か起こったのに違いなかった。
いたたまれなくなった彼女は、部屋を飛び出して街なかに向かった。通りでは街路樹が若葉を風にきらめかせ、小鳥たちが梢で賑やかにさえずっていたが、不安でいっぱいの彼女には、そんなものは眼に入らなかった。
探していたのは、興信所。そして、通りで真っ先に目に付いた看板の入り口に飛び込んでいき――それが俺の探偵事務所、というわけだった。
俺は目の前に座る彼女を、改めて眺めてしまった。
本当に、こうしているとごく普通の娘に見えるんだが……。
一部始終は分かったが、やはり、過去や未来の自分と暮らしてきたなんて話は、とても信じられなかった。これがSFの世界ならそれでもいいが、探偵の世界にタイムトラベルというのは、ちょっと似合いそうもない。かわいそうに、まだ若いのに、どうしてこんな妄想にとりつかれてしまったのか……。
俺は頭をかくと――弱ったときについ出る癖なんだ――彼女の気持ちを傷つけないように慎重に言葉を選びながら、出来るだけ優しく話しかけた。
「お話は分かりました。ですが、俺には過去や未来に行く超能力はありませんよ。麗美さんを捜してくれと言われても、それはちょっと不可能なんですが……」
すると、彼女は両手を固く握りしめながら、きらきらと異様に輝く目で俺を見上げてきた。その顔は引きつったように、空虚な笑みを浮かべている。まるで熱病にでも浮かされている人間のような顔つきだった。
「麗美を捜してほしいんじゃありません。だって、麗美は死んでしまったんですから。だから、私に会いに来られないんです。私自身も、これから死ぬんです。次の誕生日が来るまでに……一年以内に」
俺は何も言えなかった。本能が、俺の頭の中で警告をならしている。この娘はおかしい、危険だ、気をつけろ、と。彼女が不意にソファから立ち上がった時には、反射的に腰が浮いて、防御の姿勢をとりそうになった。
だが、彼女はそんな俺の左手を取ると、しっかり握りしめて言った。
「お願いです、私を守って下さい。もしも私が、病気ではなく事故や事件に巻き込まれるのだとしたら、強い人に守ってもらえば、死なずにすむかもしれないんです。お願いです。これから一年間、私のそばにいて下さい!」
彼女は真剣そのものだった。さっき見せた空虚な笑顔も消え、必死な眼で俺を見つめ続けている。
俺の頭の中で忙しく計算が始まっていた。
「ええと、それは俺にボディーガードをしてほしい、ということですね?」
ちょっと精神のおかしい娘と一緒にいるのは危険かもしれない。だが、丸々一年ボディーガードに雇ってもらえたら、当分収入は安定。食いっぱぐれる心配もなくなる。しかも、この娘は本当に命を狙われているわけではないようだから、ボディーガードをしていて、こっちが危なくなる可能性も少ない。これほど旨い話はなかった。
「ですが、一年間ともなると、費用はかなりかかりますよ。数百万円……下手をすれば一千万を越えるでしょう。失礼ですが、それだけの支払いが出来ますか?」
非情な男だと言わないでくれ。こっちもプロ。生活がかかっているから、ボランティアで仕事を請け負ったりは出来ないんだ。
「貯金があります。それに、両親の残してくれたお金も。それでお支払いできると思います」
はっきりした声で、彼女が言う。
俺はついに決心した。
「分かりました。これから一年間、この体を張ってあなたの命をお守りしましょう」
すると、彼女は心底ほっとした顔になって、にっこりと笑った。俺の左手は、まだしっかりと握られたままだ。
――うーむ、やっぱり、かわいいな。
心の中で、俺はそんなことをつぶやいていた。