やっぱり、さえちゃんに話そう!
ぼくは決心した。
ケンカしたまま別れ別れになるなんて、やっぱりいやだ。
もう顔も見たくない、なんて言われたけど、さえちゃんだって、本当にそう思っているわけじゃないはずだ。
ぼくは、泣いているママをそっとふりほどくと、「さえちゃんちに行ってくるね!」と言い残して、かけ出した。
さえちゃんの家は、ぼくの家から走って3分くらいのところにある。
息を切らしながらドアのチャイムを鳴らすと、インタフォンから、さえちゃんの声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
「ぼく……! まことだよ……!!」
と答えると、たちまち、とんがったさえちゃんの声が返ってきた。
「帰ってよ! 会いたくないっ!」
でも、ぼくは食い下がった。
「大事な用があるんだよ! 開けてよ、さえちゃん!!」
大声で言いながら、ドアをどんどん叩いていると、やがて、鍵をはずす音がして、ドアのすきまからさえちゃんの顔がのぞいた。
「用って、なによ」
怒っているような、でも、ちょっと不安そうな顔つきだった。
ぼくは、大きく息を吸いこむと、さえちゃんに向かって、一気に言った。
「ぼく、夏休みに引っこすことになったんだ! アメリカに行くんだよ! もう会えなくなっちゃうんだよ――!!」
さえちゃんは、ぼくの顔を見つめていた。
その目がやがて、まん丸になって、意外そうな顔つきになった。
「……もしかして、まことくん、今まで知らないでいたの? アメリカに引っこすってこと」
「さえちゃんは知ってたの!?」
逆にぼくがびっくりすると、さえちゃんは驚いたようにぼくを見たまま、そろそろとドアを開けて、外に出てきた。
「きのう……うちのママから教えられたの。まことくんたちが、もうすぐアメリカに引っこすんだ、って。ママは、まことくんのママから教えられたらしいわ。ホントは引っこしなんてしたくないんだけど、どうしても行かなくちゃならないみたいだ、って言ってたらしいけど。……ホントに知らなかったの? まことくんは」
ぼくはうなずいた。
「今、ぼくのママから教えられたばかりだよ。……ママ、泣いてるんだ」
ぼくたちはそのまま黙り込んだ。まわりの空気が、一気に重苦しくなったような気がした。
すると、さえちゃんが目を伏せて、小さな声で言った。
「ごめんね、まことくん。うそつきだなんて言って、ぶっちゃって。あたし、てっきり、まことくんはもう知っているんだと思ったのよ。知ってるのに、わざとウソをついて、黙っているんだと思って……そしたら、どうしてか、ものすごく腹が立っちゃったの。ごめんね、まことくん……ホントに、ごめんね……」
「もういいよ」
と、ぼくは言った。
さえちゃんの気持ちはよく分かった。
もし、ぼくたちが逆の立場で、さえちゃんがアメリカ行きを内緒にしていたとしたら、ぼくだってやっぱり怒っただろう。
すると、さえちゃんが、おさげにした自分の髪の毛から、キャンディの形の髪飾りをひとつ引き抜いて、ぼくに手渡してきた。
「これ、まことくんにあげる。アメリカに行っても、あたしたちがずっと友達だって証拠。あたしのこと、絶対に忘れないでよ」
「さえちゃん――!」
ぼくは、水色のプラスチックの髪飾りを握りしめると、力いっぱいうなずいて見せた。
「忘れたりするもんか! 絶対!! 絶対に――!!!」
僕は煙草をくゆらせながら、テーブルの上の1枚の紙を眺めていた。
やたらと記入欄の多い、A3サイズの紙。その左上には「離婚届」の3文字が印刷されている。
妻のさえ子からこれを手渡されたのは、今朝のことだった。
いつも通りの、会話のない朝。機械的に出される朝食の皿と一緒に、この紙が僕の前に置かれた。妻の側の欄は、すべて記入済みだった。
いつかこんな日が来ると思っていたから、僕は、取りたてて驚くこともなく、黙ってそれを受け取った。
すっかり気持ちが合わなくなってしまった僕らだが、こんな時だけは一致して同じ行動が出来るんだと思うと、なんだかおかしいような感じさえした。
それにしても、僕とさえ子の2人は、どこから歯車が噛み合わなくなっていったのだろう。
30年前、父の転勤でアメリカに行ってからも、僕は、ずっとさえ子と文通を続けていた。
まったく言葉の分からない外国で心細かった僕には、さえ子の知らせてくれる日本の学校の様子や友人たちの話が、この上ない慰めだった。一日も早く日本に帰りたい、と、毎日そればかりを願っていた。
そうしているうちに、僕の両親の仲が悪くなっていき、僕が中学2年の夏、とうとう2人は離婚してしまった。
父はそのままアメリカに残って仕事を続けていたが、僕は母と一緒に日本に帰り、元の家に戻って暮らすようになった。
4年ぶりに再開した友人たちは、皆それぞれに成長していた。
もちろん、僕自身も大きくなっていたのだが、久しぶりにあったさえ子がすっかり大人びていたのには、思わずどぎまぎしてしまった。――彼女を異性として意識するようになった瞬間だった。
それから、僕たちは中学、高校、大学と付き合い続け、友情はいつの間にか男と女の愛情に変わり、大学を卒業した次の年、僕たちはごく当然のことのように結婚して、一緒に生活を始めたのだ。
とりたてて不満があったわけじゃない。
さえ子は高校の時に大病をして、子どもが出来ない体になっていたが、それだって承知の上の結婚だった。
気心の知れた友人同士のまま夫婦になって、当たり前のような日々が過ぎていく。
それは、安心感があるが、刺激の少ない、なんとなくもの足りないような毎日だった。
だから、魅力あふれる知的な女性が、僕の部下に配属されてきたとき、僕は上司としての役割以上に、彼女に入れ込んでしまったのだ。
一を教えると十を知るような彼女に、仕事を教えるのは、面白かった。
アフター5に個人教授するうち、一緒に食事や飲みに行くようになり、さらにその後、一緒にホテルにまで行くようになったのは、ごく自然な成り行きだった。
さえ子への愛情がなくなったわけではない。
ただ、それよりももっと熱く激しい恋愛感情に、僕は夢中になっていたのだ。
友達同士のまま結婚したさえ子には、ついぞ感じたことのなかった激情だった。
だが、ひょんなことから、それがさえ子の耳に入った。
さえ子は逆上して会社に乗り込み、直接社長と彼女に抗議したのだ。
とたんに、合意の上の関係だったはずの彼女が、僕に強要されたのだ、とセクハラを訴え始め――
彼女が、自分の昇進のために僕を利用していたのだということに、僕はようやく気づいたのだった。
今のご時世、女からセクハラを訴えられて無事でいられるケースは少ない。
僕も結局、職場を変わるはめになり、地位も給料も大幅に下がってしまった。
彼女とはそれきり縁が切れたが、以来、さえ子とも、どうしても気持ちがしっくり行かなくなってしまった。さえ子のほうでも、僕に裏切られたという想いがある。
いつの間にか、僕たち2人の間からは笑顔が消え、言葉が消え、信頼が消え……
そして、今日、朝食の席で、さえ子から離婚届が手渡されてきたのだった。
煙草の煙が部屋の中をゆっくりと流れて、いつの間にか見えなくなっていく。
まるで僕たち2人の関係のようだ……。
そんなことを思いながら、僕はおもむろに万年筆を取り上げた。
離婚届の夫側の欄に、必要事項を記入していく。
子どもがなかったことが、今となっては幸運に思えてくる。子どもがいたら、親権や養育費のことで、もっともめたことだろう。
証人の欄に、さえ子の友人の名前が書いてあった。
僕のほうでも、友達のあいつに証人を頼むことにしよう。もう何年も会っていないが、中学校の同級生で、僕たち2人のことをよく知っている。そういえば、あいつの連絡先はどこだっけ……
僕は立ち上がると、住所録を探しに戸棚へ行った。
だが、家の中の物はさえ子が管理しているので、僕には、どこにしまってあるのか見当がつかない。
さえ子に聞くのは嫌だったので、自分であちこち探し回っていると、引き出しの奥から、小さな青いブリキ缶が出てきた。紅茶の入っていた古ぼけた缶で、蓋のあたりには錆が吹き出し始めている。
それを見たとたん、へぇ……と僕は思わず目を細めてしまった。
子どものころ大切にしていた、僕の宝箱だ。結婚してこの家に引っ越してきたとき、この引き出しにしまい込んで、それきり忘れてしまっていたのだ。
力を込めて缶を引っ張ると、赤い錆がぱらぱらと落ちて、蓋が開いた。
中から出てきたのは、ビー玉やパチンコ玉、ゴムのおもちゃのトカゲ、アメリカ製のバッヂ、お菓子で当てたカードの束、何かの記念硬貨、黒く光る石、そして……キャンディの形をした髪飾り…………
僕は、それを手に取った。
缶の内側は錆びていなかったので、髪飾りは少しも汚れていなかった。
水色の地に白い模様のキャンディの飾りも、青い太いゴムも――あの、夏休みの前の日に、さえ子から手渡されたとき、そのままだった…………。
僕は目を閉じた。
あの日の出来事が、まざまざと浮かんでくる。
さえ子が勘違いをして、僕を殴ったこと。アメリカ行きの話を聞かされて、息せき切って、さえ子の家まで走ったこと。……さえ子が「アメリカに行っても、ずっと友達だって証拠」と言って、髪飾りを僕の手のひらに載せたときの感触まで、はっきりと思い出すことが出来た。
僕は苦笑いして頭を振ると、髪飾りをポケットに突っ込み、離婚届を手に、さえ子のいるリビングへ向かった。
さえ子はソファに座ったまま、気のない様子でテレビを眺めていた。僕が入ってきたのに気づいても、振り向こうともしない。
僕はさえ子の前の椅子に座ると、黙って離婚届をテーブルに出した。さえ子も黙ったまま、確かめるようにそれを眺め、やがて、手をのばして受け取ろうとした――
僕は、その手の下に、あの髪飾りを置いた。
さえ子が驚いたように手を止め、すぐに、はっとした表情になる。
「これ……あの時の……。あなた、まだ持っていたの?」
本当に久しぶりに、さえ子の目が僕を真っ正面から見た。驚くと目がまん丸になる癖は、昔と少しも変わっていない。
僕はちょっと肩をすくめて見せた。
「偶然出てきたんだよ」
「まあ、なつかしい……」
さえ子は髪飾りを取り上げて、しげしげと眺めていたが、また意外そうな顔になって、僕を見た。
「これ、ずいぶん綺麗じゃない? もう30年も昔の物なのに。どうして?」
「宝箱にしまい込んであったんだ。ずうっと…………」
気がつくと、僕は左手を堅く握りしめて話していた。
心の奥底から、急速に現れてくる想い ――僕の、本音――
それをさえ子に伝えるべきか、否か。
その二つの感情に揺すぶられて、僕は思わず声を失ってしまった。
「ふぅん……」
さえ子が静かにつぶやいた。
優しい目で髪飾りを眺め、やがて、それをテーブルの上に戻す。
僕は、思わず唇を噛んでいた。
すると、さえ子が、つと立ち上がって、リビングの物入れから小さな箱を出してきた。
古い紙の箱で、子どもっぽい漫画のキャラクターが描かれている。
さえ子はちょっと照れたように笑ってから、その箱の蓋を開けた。中から出てきたのは、もう一つの、キャンディ形の髪飾り…………
今度は、僕が目を丸くする番だった。
「君もまだ持っていたのか!」
さえ子は、優しい目のまま、二つの髪飾りをテーブルの上に並べると、静かに話し出した。
「あなたがアメリカに行っていた間ね……あたし、不安になったり、めげそうになったりすると、こっそり箱を開けてこれを眺めていたのよ。病気で入院していたときも……あなたとあたしが別の大学に進んだときも、ずっとこれを持っていて、時々眺めていたわ。これを見てると、不思議と安心した気持ちになれたから…………」
さえ子が口をつぐんだ。
僕たち2人は、黙ったまま、一対に戻った髪飾りを眺め続けた。
僕は、さえ子に、そっと尋ねた。
「今、なにを考えているんだい?」
「……たぶん、あなたと同じこと」
静かに、さえ子が答える。
そして、僕たちは目を上げて、お互いを見た。僕たちは2人とも、ほんの少し、笑っていた。
「もう一度、やり直してみようか」
思い切って僕がそういうと、さえ子もうなずいた。
「そうね。もう一度だけ……初めから……」
僕は離婚届を取り上げると、目の前で二つに引き裂いてゴミ箱に捨てた。
さえ子が髪飾りをひとつ、僕に手渡してきた。
「また持っていましょうよ……これからはもう、こんなふうに並べて眺めることが起きないように」
「そうだな」
僕もうなずいて、髪飾りを握りしめた。
手のひらの中の、プラスチックの髪飾りは、ほんのりと暖かかった。遠いあの夏の日と同じように
窓の外のベランダを、大きなトラ猫がのんびり横切っていった――――。
――The End――
→よければ別の選択の結末もご覧ください。