「加害者の親として」
野本雅代(ペンネーム) 


「もう一度、チャンスをあげましょう。」
この言葉は、今では虚しく耳に残るだけです。

薬物依存症で、荒れ狂う毎日を送っていた息子、克也(仮名)。3年前に、親である私の「チンコロ」(密告)で逮捕されました。拘置所の中で、何に抵抗したのか、懲罰。軽併禁という、朝から夕方まで一点を見つめて正座させられる罰を受けました。そして、このため拘禁症になり、面会に行っても話が会話にならずに、幻覚・妄想の話を聞くしかできない状態のまま、実刑1年6ヶ月、執行猶予3年という判決が出ました。
拘置所から出る日、そのまま薬物依存症の某施設に預けることは、克也の承諾もなく決めてありました。それというのも、私自身もかってはその施設にお世話になり、おかげで回復して現在に至るからです。某施設の仲間に相談した結果、四国の支部に預けることになり、飛行機のチケットも準備して、克也の帰りを待ちました。そして、その日のうちに某施設に送ってもらいました。
しかし、団体生活をしたことのない克也は、帰りたい一心で、なんと車を盗み、警察に自首していきました。K警察から私のところに電話があり、検事さんがどうしても私に会いたい、とのことでした。私も、克也がどうなっているのか分からず、飛んでいき、検事さんと会うことになりました。その時、言われました。
「もう一度、チャンスをあげましょう。」
しかしこの言葉は、今では虚しく耳に残るだけです。

克也は、精神的に、まだ拘禁症が回復していなかったのでしょう。某施設から私の家に帰ってきて5日目で、なんと、今度は強盗致傷事件を起こしてしまいました。その時の親の気持ちと言ったら……筆舌には表せない。死んでしまいたい、と思うだけ。どん底に突き落とされました。
どうやって自分の体を支えていこうか。生きていかなければ……。頼れるのは、私だけなのだから……。親一人子一人の環境の中、私は、克也を過保護に育ててしまったところが多々ありました。
私の苦しい胸の内を話せる場所が、ただ一つ、ありました。それは、刑務所の面会のための待ち合い室でした。同じ経験をして、待つ身。辛さ、苦しさを共有しているからだと思います。罪名も刑期の長さも違いながら、またどこの誰かもわからずにいながら、心の苦しさは、深く分かち合える、と言ったらよいのでしょうか。
ある時、年配の女性が、私にこう言ってくれました。「罪を憎んで、人を憎まず」。繰り返し、繰り返し、言ってくれました。この女性は、孫のことを待っているのです。そして、こう思うしかないのでしょう。
またある時は、別の女性からこう話しかけられました。「子供に、毎日のように手紙を出すようになりました。『かっては、こんなに心を込めて話をすることがあっただろうか?』って思うんです……」。私も、「あーあー、私もそうだった。」と気づかされました。 あるお父さんは、ガンの手術が終わったばかりだと言い、余命の短さを自覚しているようでした。「面会も、今回が最後だと思う……。」と話していた矢先に番号を呼ばれましたが、息子さんは、懲罰中だったのでしょうか……。ガッカリした様子で帰っていく後ろ姿を、見送りました。懲罰中は、面会禁止なのです。かく言う私も、何回か、面会に来ても会えない時がありました。その気持ちが、痛いほど、伝わってきました。

「もう一度、チャンスをあげましょう。」
耳に残るこの言葉を前に、私は思うのです。「3年前のあの時に、実刑にしてくれていたらなあ……」と。それなら、刑期も、ずっと短く終わっていただろうに……。

(おわり)



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