「一見、フツーの子どもだった、私。 〜5歳ころまで編〜」
水 兎(Mito) 


 私は、一見フツーの子どもに見えた、と思う。
「子どもらしい子ども」だったといえるかもしれない。
子ども時代の写真を見ても、周囲の子どもたちと大きな違いはないように見える。
でも、私への「ホメコトバ」は「面白い子」であり、「変わった子」だった。

<記憶と場所>
 私の記憶は、場所から導かれる。
基本的に、お気に入りのモノがあり、お気に入りの場所にいる限り、私はご機嫌だった。
父の転勤で8回の引越しを経験し、
妹弟が里帰り出産だったために母の実家に預けられることもあった。
1歳半で、一人母の実家に取り残されても、泣くこともなくおとなしく遊んでいたらしい。
母の実家は農家で、当時は家の中で養蚕もできるような古い民家だった。
当時は、曾祖母・祖父母・伯父伯母・いとこたち、牛・犬・鶏・養蚕と、にぎやかな家だった。
父の転勤は、「仕事のため」という絶対的な理由ゆえに、自分を納得させるコトが出来ていたらしい。
人との別れはつらかったが、その人と距離が離れることがつらかったのか、
自分の馴染んだ環境を手放すのがつらかったのか、今となっては憶えていない。
しかし、引越しの度に大泣きしていたことは憶えている。

<記憶と写真>
 私の記憶は、写真を頼りにもしている。
 私の記憶には、ポコポコ穴があいているらしい。
だから大好きだったことでも、細かいこととなると、自力だけで思い出すのはなかなか難しい。
そのためか、写真好きの父が撮って貼り付けてくれたアルバムを、子どもの頃から繰り返し眺めていた。
両親から話しを聞き、後から付け加えられた記憶なのかもしれない。
でも、写りこんでいない記憶、両親が知らない私の実感としての記憶も、確かに導かれる。

<不思議な記憶>
 この記憶は、直接写真に残っているわけではない。
導かれるとすれば、父と父の友人達が、畳の部屋で麻雀をしているところに、
小さい私がノコノコとお邪魔している写真である。
 でも、私の記憶は、そこではなく、町中の、おそらくお祭りのような場面。
父の友人に肩車をされて、板チョコレートを買ってもらった、というだけのものなのだが、時より思い出される。
薄暗い、提灯のオレンジ色の灯り。
肩車をしてもらっているので、人込みを上から見下ろす、それまで見たことのなかった視界。
誰かの頭をペチペチと叩いたような気がする。
あれは、いくつの頃のことなのか。
 もしかしたら、別々の場面が組み合わさって出来た記憶なのかもしれない。
私にとって、不思議で懐かしい記憶である。

<夢>
 強烈な印象の夢がある。
場所は、4〜5歳を過ごした川沿いにある平屋建ての家の周り。
空一面を覆うほどの「怪物」が、長く鋭い刃物を持ち、妹と弟を捕まえていく。
そして、私の目の前で、一人の頭をスパッと切ってしまうのだ。
私はそれを見て、「やめてー!」と叫ぶ。でも、怪物は私の方を見ながら、もう一人に刃物を振り下ろす。
怪物はなぜか私を捕まえない。私は固まりながら叫びつづける。血なまぐさい描写は全くない。
スパッときれいに切られた様子が、不思議な感じで、空はオレンジ色。
 この夢を、小学校半ばまで繰り返し見ていた。今は夢に見ることはないが、繰り返し思い出してしまう。

<手紙>
 引っ越し先につくとすぐ、私は手紙を書いた。
別れる前に、「手紙ちょうだいね」と言われたから。
4歳の引越しの時には、すでに書いていた記憶がある。
返事が来ると、また手紙を書く。
相手から来たレターセットがキャラクターものであれば、それに応じた物を母に用意してもらった。
4歳の時の「文通」の相手は、2歳ほど年上で、律儀に返事を返してくれる人だった。
何度かの引越しの度に、以前住んでいた所の友人や先生への手紙は続いた。
しかし、年を重ねるにつれて、返事をくれる人は減っていった。
「手紙の返事は出さなければならない」と覚えていたので、なぜそうなのか、理解するのに時間がかかった。

<傷だらけ>
 小さい頃から、とにかくよく転ぶ子どもだった。
膝も肘もいつもカサブタがあり、よく化膿もしていた。
アトピー体質でもあり、あせもや虫刺されで掻き壊すことも多かった。
「病院」の最初の記憶は、4歳頃に通った皮膚科。
といっても、病院そのものの記憶というよりも、
その下にあった、大好きなドーナツ屋さんの記憶とセットになっている。
母は、私を自転車の後ろに乗せ、妹を前に乗せ、弟をおぶって、買い物にも、病院にも出かけていた。
包帯を巻くのが好きだった。ケガをしていることが、見て分かったから。
母はよく「大袈裟だ」と言っていたが。
その一方で、どんなにケガをしても、走ること、よじ登ること、飛び下りることをやめはしなかった。
そしてまた、ケガをしていた。

<お気に入りの遊具?>
 4〜5歳の時に住んでいた平屋建ての家の裏には、広く平らな茶色い場所があった。
その隅の方に、超お気に入りの遊具があった。
青緑というか、水色のペンキで塗られており、鉄製でよじ登りやすい構造だった。
私はそこを昇り、ぶら下がったり、飛び降りたりするのが大好きだった。
でも、そこは母と一緒の時しか入っては行けないコトになっていた。
 後に母に聞いた所によると、そこは短大の校庭で、
平日は生徒たちが使っているので入るコトは出来なかったらしい。
そういえば、平日、近くの白く四角いそれほど高くない建物の方から、
女の人たちの合唱が聞こえていたことを憶えている。
学校が休みの日に、こっそり入って遊ばせてもらっていたのだった。
ちなみに、お気に入りの遊具は、バスケットボールのゴールだったらしい。

<タナカカクエー>
 のテレビ画像を背中にしょって、右手を上げ、物まねをしている写真がある。
5歳頃と思われる。もちろん、私が真似をしている相手が、元総理大臣であり、
ロッキード事件で世間を騒がせていることなど全く分かっていなかった。
単に、テレビに映るそのおじさんのしゃべり方が面白かったから、真似していただけだった。
映像を見ながら、ほとんど間をおかず、繰り返すコトが出来た。
後に、オオヒラ・ソーリの「あ〜う〜お〜」が面白くて、見るたびに真似をしていた。

<不公平!>
 父は、写真を撮るのが好きである。
私は第一子なので、ご多分に漏れず、妹が生まれるまでは、相当な枚数の写真を取ってもらっていた。
アルバムは妹が生まれえるまでに2冊になっていた。
妹弟が生まれてから、ますます父は写真を撮ってくれて、
3人の子供それぞれにアルバムを作ってくれた。
今思えば、ずいぶん手間のかかることをやってくれていたのだと思う。
 だがしかし。子どもの私には1つ非常に不満なことがあった。
それは、弟を写した写真が、小さな写真コンクールに入選したのだ。
冬のある日、母の編んだ緑の帽子をかぶって、吹雪く雪を見つめている小さな弟の写真だった。
今思い出しても、とてもかわいく撮れている写真である。
けれど、なぜ妹や私ではなく弟の写真なのかが、理解出来なかった。不公平だと思った。
写真の枚数やアルバムの数など関係なかった。
 でも、今思うと、私の写真はコンクール向けではなかっただろう。
何しろ、カメラを向けられると、不自然なおすましポーズをとるのが癖になっていたから。
弟と同じ年頃だとしても、どうも不自然だったような気がする。
私の笑い顔は、目がなくなると評判だったからな。

<部屋の中で遊ぶ>
 部屋の中でも、妹弟を従えて遊んだ。
お気に入りは、お母さんごっこ、先生ごっこ、リカちゃんごっこ。
当然、私の指示が絶対であった。
道具を並べ、習ってきた歌や躍り、ご挨拶を再現し、それを妹弟にも要求した。
私の要求どおりである間は、私はご機嫌だった。
塗り絵も好きだった。枠をはみ出すことなく、「あるべき色」をいかにきれいに塗るか。
1冊をきれいに塗り上げるコトが出来ると、満足だった。
ブロックも好きだった。使った後の色鉛筆やくれよんは、きれいに元に戻さなくてはならない。
幼稚園でも使っていた大きなブロックと、レゴブロック。
いずれも、色を合わせること・お手本通りに作ることが基本であった。
レゴは、家を作るセットだったので、私は家ばかりを作っていた。
それも、毎回ほぼ同じ形で。
きれいにきっちり積み上がっていくのを見ると、うっとりした。
それを弟に壊されると、激怒した。
弟がいたので、我が家にはプラレールやミニカーもあった。当然私も遊んだ。
これも、私はしつらえることが一番の目的だったが、
弟は、電車を走らせることが目的だったらしい。

<うたを歌う>
   赤い箱に入った童謡のレコードセットがあった。
子どもの私は、当然自分でレコードをかけることは出来ないので、
母に頼んでは一枚を繰り返し聞いていた。
何枚もあったレコード全部を聞いたかどうかは定かではないが、歌詞カードを眺めながら、聞いていた。
童謡は古い言葉の歌詞が多く、意味がわからないことが多かった。それが不思議でならなかった。
童謡以上に好きだったのがクリスマスソングのレコードだった。
クリスマスの時期でもないのに、かけてくれとせがんでは叱られたが、
最後は母が根負けしていたような憶えがある。
かけてもらえない時は、レコードのジャケットをうっとりと眺めて、歌詞を読むことで、妥協した。
歌詞を読んではいたが、漢字が読めたかどうかは定かではない。
アニメソング・テレビのテーマソング・CMソング・幼稚園/小学校で習った歌…知っている限りのうたを歌った。

<水と遊ぶ>
 水で遊ぶのが好きだった。
4〜5歳頃、児童公園にある子どもの膝丈ほどの浅いプールで、
あるいは家の近くの川で毎日のように泳いだ。
その頃すでに顔をつけることはできたし、バタ足で前に進むコトは出来た。
夏には母の実家へ行った。建物の裏には、山から引いた水が貯めてあり、水路に流してあった。
足を浸して、そこに敷かれた白い砂利を拾い集めた。
道の向うには、山の方からの生活用の水路が流れている。
小さい貯水槽があり、その近くは浅い流れだった。
妹弟や、いとこたちと水を掛け合ったり、泳いだりした。
母の実家から下ると、石がゴロゴロした河原があった。
川の上流はダムでせき止められているので、流れる水は少なかったが、
子どもたちにとってはかっこうの水遊び場だった。
町営プールへ連れて行ってもらうこともあった。たいていは、浅い子供用プールで「泳いで」いた。
水で遊ぶのは好きではあったが、実際の水泳となると、たいした事はなかった。
クロールと平泳ぎで25mクリアできる程度であった。

<卵とり>
 母の実家は、農家である。今はやめてしまったが、私が小さい頃は、養鶏卵もしていた。
私は祖母にくっついて、朝、卵を取りに行く。
ほかほかの産みたての卵を、こわごわそーっと取って、かごの中に入れる。
たくさん集まったら、それを家の土間横の板敷き間に運び、新聞紙で割れないように祖母が包んでいく。
5個並べたら、一くるみ。さらに5個並べて、あわせて10個が一まとまりの包みになる。
どうしたら割れないように、しかも素早く包めるのか、不思議でたまらなかった。
飽きることなくじーっと見ていたものだった。
そのとりたてホヤホヤ卵を、卵ご飯にして食べるのも、大好きだった。

<蚕を愛ずる>
 母の実家では、養蚕もやっていた。かつては、家の二階の奥が、養蚕用の部屋だったという。
その頃はすでに、養蚕用の小屋が建っていたけれど。
白くてふにゃふにゃの蚕が、むしゃむしゃと桑の葉を食べている様子を、いつまでも飽きずに眺めていた。
緑の葉っぱを食べるのに、コロンと黒い小さなフンが出るのが不思議だった。
大きくなって、しっかりしてきた蚕を、手に持ち、顔をジーっと眺めるのも好きだった。
大きくなった蚕は、なでるととても滑らかで、かわいかった。
もうすぐ繭になる蚕は、濃い白から、透明がかった少し黄色い白になる。
それを祖母たちは「ズー」と呼んでいた。1階に広げられたたくさんの台の中から、ズーを探すのを手伝った。
ズーになると、二階にある繭棚に運ばれる。格子状に区切られた棚に、ズーを入れると、繭を吐きはじめる。
少しずつ少しずつ、繭が出来上がっていく。
繭棚は、天井から吊るされていた。
私は、どちらかというと、繭よりも蚕そのもののほうが好きだった。
 桑の葉は、祖父が耕運機で桑畑に採りに行く。当然、私もついていく。
祖父が刈った桑の枝を、耕運機に運ぶ。それを蚕の棚に配る。
新しい桑の葉の香りが蚕小屋に広がる。
そしてまた、蚕が桑を食べる様子を、うっとりと見ているのだった。

030731(c)水兎



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