屋上はドームになっているが、今日は天気が良いので開け放たれていた。星空が広がっている。西の空に、ひときわ赤く輝く星があった。マリーはその一点を見つめて動かなくなった。
「…火星が、近いわ。」
「今年は大接近の年だもの、マリー。」
そう言ってアレンは、はっと口をつぐんだ。
「どうして?…私が眠ってから8年しか経っていないんでしょう?」
「マリー、それは…。」
「火星の接近する周期は15年から17年。私が眠った日、火星は近かったわ。なぜウソをつくの?…本当は、もっともっと時間が過ぎているの?あなたは…だれ?」

アレンは決心した。もう隠すわけにはいかない。
「落ち着いて聞いて欲しい。僕はアレン・Jr.今は、君が眠ってから72年経っているんだ。父は結婚はしなかったけれど、人工受精で僕を作った。ある女性科学者の卵子を提供してもらって。」
「…アレンは、私のアレンはどこにいるの?」
「父は15年前に亡くなったんだ。」
マリーの体がゆっくりと崩折れる。アレンはそっと抱きとめたが、そのうつろな瞳を正視できなかった。

その日以来、マリーは心を閉ざしてしまった。ベッドに横になったきり、ただ虚空を見つめている。呼ばれて来た精神科の教授もお手上げだった。精神的な死は薬や手術で治るものではない。点滴で栄養は補給されていたが、日に日にその体はやつれていった。

アレンは部屋で父親の画像と向き合っていた。
「父さん、どうすればいいんだ。どうしたら、マリーは笑ってくれる?」
保存されている父親の立体画像は、いつまでも微笑んでいる。アレンは深いため息をついて、マリーの病室へ向った。

病室ではレイコが受付の女の子と通信中だった。
「花屋が覚醒者の確認ですって?覚醒者の名前は政府のニュースに載る公のモノだから、教えても構わないわよ。新手の売り込みかしら?」
アレンが部屋に入ると、レイコが通信を切った。
「どうだい、具合は。」
「悪くなっているわ。本人に治りたいという気持ちがなくなった以上、これからの治療は難しいわよ。」

アレンは近くの椅子を引き寄せると、浅く腰かけた。
「父さんは、無責任だよ。こうなることを考えなかったんだ。誰だってそうだろ、眠っている間に知らない世界に連れて行かれたら、友達も家族も恋人も消えた世界に放り込まれたら、おかしくなって当然だよな。」
「あなたが、お父様を批判するなんて珍しいわね。」
「尊敬してたよ。毎日マリーの寝顔に挨拶して、研究に没頭していた父をね。でも、研究しか頭になかったんじゃないのか?彼女が目覚めた時にどんなに苦しむか、それを考えていなかったじゃないか。残酷だよ。僕の存在だって、他の女と結婚したからって思い込んでいるかもしれないじゃないか。」
「そのくらいにしなさいよ。」
「どうしてさ!もう、ダメだよ。マリーは、このまま自然に任せて、父さんのところに行った方が幸せなのかも…」

言い終わらないうちに、ビシッ、とレイコの平手がきまった。アレンは思わず頬を押さえて立ち上がった。
「あなたがそんなに情けない人とは知らなかったわ。」
「君にはわからないさ。」
「いずれにせよ、治療に協力的じゃないドクターは、部屋から出て下さい。」

アレンが黙って部屋を出ようとした時、看護婦が入って来た。後ろにはガラスケースに入った植物を抱えている花屋がいた。花屋には似つかわしくないほど年をとった男性だったが、愛らしいエプロンと荒れた手が、その職業を証明していた。
「ドクター・アレンから、20年前に頼まれた花です。やっとお約束を果たせます。」
病室に居合わせた者たちは息を飲んだ。アレンは、おそるおそる花とカードを受け取った。

カードには、確かに父の字でメッセージが書かれていた。
「マリー、おはよう。優しい君は、僕がひとりきりの不幸な人生だったのでは、と心配するだろうね。でも僕はとても幸せだった。毎日君に会って、君のための研究をすることができたのだから。治療法は、もう間違いなく確かな物だ。ただ、安全性の確認に時間がかかる。
何度も、何度も思ったよ。君を起こして数カ月の命を共に生き、そして死のうと。でも、できなかった。君が目指した火星に咲くバラは、君が通っていた研究室で開発が続けられている。僕は火星に降る雨となって君の夢を手助けしよう。きっと元気になって逢いにきておくれ。君の幸せを、君の時間を、しっかり生きて欲しい。アレン」

ケースの中に詰められた砂から、黄色い花が顔を出している。ゴールドマリーの鮮やかな黄色が、同系色の砂の中にあってなお、いきいきと輝いていた。そっとベッドにバラのケースを置き、カードをマリーの目の前にかざすと、彼女の目が大きく開いた。静かにそのカードを手に取ると、彼女の目から涙が一気に溢れて来た。

レイコが皆をうながして病室を出た。
「さすがね、あなたのお父様は。これで大丈夫だわ。」
「ああ。やっぱり、かなわないな。」
二人は顔を見合わせて、静かに笑った。とても久しぶりに笑顔になれた気がした。

それから3ヶ月が過ぎ、退院の日が訪れた。
「では、アレンJr.ううん、ダニエル。セカンドネームの方が、私には呼びやすいわ。お世話になりました。あら?レイコは?」
「レイコは、来年の外惑星への探査フライトに同行することになったんだ。地球の時間で30年は帰って来ない。もっとも、光速に近いフライトだから、彼女はあまり年をとらずに帰って来るだろうけど。」
マリーは不思議そうに首をかしげた。
「いっしょに行かないの?ダメよ、行かなきゃ。大事なひとでしょう?」
アレンは黙ってボサボサの頭に手をやった。
「私のアレンが贈ってくれたバラ、名前知ってる?ダニエルっていうのよ。私が品種改良して名前をつけたの。アレンがこの名前をあなたにつけてくれて、嬉しかった。…ごめんね、ダニエル。私のために遠回りさせちゃって。でも間違えないで。本当に大切な人をね。」
頭にやっていた手を下ろすと、照れくさそうにアレンが言った。
「ありがとう、マリー。いや、母さん、かな。」

軽く手を降るとマリーは病院を後にした。アレン、いや、ダニエルは遠く空をみつめた。暗くなればルビーのように輝く火星が見えるだろう。彼は力強い足取りで研究所へ向った。

(終)

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