その部屋は薄暗かったが、完璧なまでに清潔さが保たれていた。
「おやすみ、マリー。僕の眠り姫。」
白衣の男はそう呟くと、ガラスケースの冷たさを確認するかのように優しく触れた。じっとその寝顔を見つめた後、彼は静かに部屋を出て研究室に向かった。
-----------そして年月が流れた。
「アレン、あなたなのね?」
「僕は…」
マリーの華奢な腕が首に巻き付く。しかしその手は、病室に駆け込んで来た担当医のレイコと看護婦たちに引き離された。
「まだ冷凍睡眠から目覚めて1週間しかたっていないのよ。安静が必要ですから。」
その一言でマリーはベッドに寝かされ、アレンは廊下に押し出された。レイコがキツイ表情でにらんでいる。
「予定を変更します。ドクター・アレン、あなたは彼女の恋人として面会して下さい。」
アレンは、ぼんやりと淡いベージュの床を見ていた。
「目を覚ますとは思わなかったんだ…。」
レイコが少し哀しげに、しかしきっぱりと言った。
「今、事実を話す訳にはいかないわ。責任を取って下さい。前に忠告した筈よ。寝顔を見に病室に行くのは止めなさい、とね。」
ひょろ長い背中を丸めたまま黒いボサボサの頭をいじるアレンを残して、彼女は去って行った。
「アレン、本当に夢のようだわ。学校にはいつ戻れるかしら。」
「そうだね、マリー。ああ、まだあまり話さない方がいい、疲れるから。」
柔らかな栗色の長い髪をなでると、まっすぐに見つめる茶色の瞳を避け立ち上がった。愛らしい顔だちが不安げに曇る。幾度となく繰り返される会話に罪悪感を感じながら、アレンは病室を後にした。今は、まだいい。彼女が冷凍睡眠に入る要因となった血液のガンの治療のため、会う時間も少なく話を打ち切ることもたやすい。しかし、治療が終わり真実を告げる日が来たら…。
「報告があります。ドクター」
短い黒髪に黒い瞳。知的でキツイ印象を与えるレイコは、優秀なドクターであり冷凍睡眠とそのリハビリの研究でその名を知られている。今回のプロジェクトの要だ。アレンは黙ってその黒い瞳をみつめた。
「来週以降の治療計画について…アレン?聞いていますか?」
「ああ、すまない。…僕はいつ、話せばいいのかな。」
アレンは、ぼんやりと答える。
「体力も戻らないと、本当に治ったとはいえません。わずかな動揺で病気に負けてしまいます。ご自分が蒔いた種ですから、きちんと演じて下さい。」
アレンはため息をついて、足元を見つめていた。
「ドクター…いいえ、アレン。疲れているみたいよ。彼女の容態は安定しているんだから、少し休暇を取って出かけない?」
レイコはアレンの親友でもある。それ以上のものとウワサされてもいるが、特別な関係ではない。そう、たまに食事したり立体映画を見に行くくらいだ。
「いや、治療が終わるまで休む気はないよ。毎日検査データに目を通さないと、安心できないんだ。君こそ休みなしだったろう、少し休むといいよ。」
レイコは何か言いかけて止めた。
冷凍睡眠には大きく分けて3種類ある。まずは数日の間、低温で保存する方法。事故で重傷の時に治療が後回しにされる患部を悪化させないためのものだ。20世紀から行われているもので簡単で危険もない。次にさらなる超低温での冷凍睡眠。体を凍らせない限界の温度で、呼吸も心拍数も通常の30分の1程度に抑える。マリーは、この超低温で保存されていた。現在の所、かなり長く眠った方だ。それから文字どおりの冷凍。瞬間的に凍らせ、またそれを解凍する。もっとも体液を凍らせるわけにはいかないので、すべて抜いて人工の体液で置き換える。小型犬での成功例はあるが、どの程度の長期保存に耐えられるかのデータはない。また、大型の個体を瞬時に冷凍する方法が見つからない以上、人類に応用はできない。
「…それでね、学校では火星の地質を研究していたの。火星にバラの花を咲かせたくて。」
「火星に?砂嵐で木々は育たないでしょう?」
レイコは穏やかにマリーの話の聞き役に回っている。実際にはテラフォーミングが進み、わずかにコケ類が育つようになった。砂嵐で飛ばされても、また別の湿地に繁殖する。これが積み重なれば、酸素が少しづつ増えるだろう。火星の重力では海を持つことは難しいが、地下水ならその存在も確認され、赤道では地表近くまで周期的に出現している。
「バラといっても、ツルのものや、芝のように地面に沿って咲く花もあるわ。いつかきっと、火星の環境でも平気なバラを作ってみたいの。ゴールドマリーをベースに品種改良をしていたのよ。早く研究室に戻りたいわ。学校を卒業したら結婚する予定だったし…。」
「だったら早めに休むことね。今日のスケジュールは終了よ。」
話を打ち切るとレイコは部屋を出た。マリーの無邪気な様子を見ていると、無性に苛立たしくなる。その境遇に同情はするけれど、どこかで彼女を嫌っているのかもしれない。
ふと、子供の頃を思い出した。同級生のアレンが、自分の家だと言ってレイコを招いたこの病院付属の研究所。そして「僕のママ」と紹介した眠ったままの美しい女性。ケースの中のお人形のように静かに微笑みを浮かべて眠っている彼女に、その頃から嫉妬していたのだろうか。
「マリーの誕生日が来週なんだ。プレゼント何がいいと思う?こういうの、考えたことがなくて…。」
いつになくソワソワしている。こんなアレンは見たことがなかった。
「本物の婚約者でしょうね、やっぱり。」
レイコが冷たく言い放った。自分でもひどいイヤミを言っているのはわかる。しかし、彼のはしゃぎ振りを見ると水をかけたくなる。アレンは、やっぱりボサボサの黒髪に手をやっている。困った時はいつもそうだ。
「ねえ、レイコ。どうしてアレンはいつも忙しいの?」
「研究中の症例がたくさんあるのよ。だから学会や会議にも出るし、もちろん研究室での仕事は山ほどあるの。あまり顔を出せないけど、理解してあげてね。」
「それはわかっているけど、なんだか別の人みたいなんだもの。8年も会わなかったから、変わってしまったのかしら?昔は仕事を抜け出して逢いに来てくれたのに。」
子供をさとすように話すレイコの口ぶりに、マリーは少し口をとがらせて窓際に寄った。治療が一段落したので、既に機械だらけの集中治療室から病室へ移っていた。しかし星はよく見えない。
「星が見たいわ。」
その時、アレンが病室に入って来た。
「ちょうどいいわ。ドクターに屋上に連れて行ってもらいなさいな。暖かくしてね。」