古い古い階段を、一人の男がランプを掲げて下っていました。埃(ほこり)まみれの服にマントをはおり、灰色の布をフードのように頭にかぶって、銅の輪で留めています。
そこは誰からも忘れられて長い時間が過ぎた寺院でした。地上の建物は崩れ落ち、地下へ向かう階段は苔むしてひび割れています。男は足元を慎重に確かめながら、階段を下りていきました。時折、足の下で石段が砕けるので、そのたびに身を引き、安定していそうな場所を通っていきます。
やがて、彼は終点にたどり着きました。階段が扉の前で終わっていたのです。扉は黒光りのする金属でできていました。金の取っ手がついていますが、鍵穴や錠前は見当たりません。
男はランプを掲げて眺めてから、後ろを振り向きました。
「おい、ここか、ジン? これを開ければいいのか?」
けれども、そこには誰もいませんでした。自分が下ってきた階段が、上方の暗がりへ溶けているだけです。
ところが、どこからか返事が聞こえてきました。
「そうだ、ご主人。その扉の奥に財宝が眠っている……」
若い男の声ですが、声の主の姿はやはり見えません。
男はランプで階段を照らしました。
「出てこい、ジン。何故隠れている?」
すると、左右に動く光の中に、もう一人の男が姿を現しました。長い白い衣を着て、頭には白い長い布をかぶり、銀の輪で留めています。ただ、その姿は幽霊のように半ば透き通っていました。階段にいるのではなく、その上の空間に浮かんでいます。
「隠れていたわけではない、ご主人。ちゃんとそばにいる」
と霊のような男が言うと、ふん、と男は尊大に鼻を鳴らしました。
「わしから離れるな、ジン。死んだ叔父の倉庫にあった壺(つぼ)の中から、精霊のおまえを解放してやったのは、このわしだ。あのときから、おまえはわしの奴隷なのだ。わしから離れることは絶対に許さんぞ」
ジンと呼ばれた精霊はかすかに身じろぎをしました。気分を害したのかもしれませんが、その顔はフードの陰になって見ることができません。
男はジンの反応など気にもとめずに、また扉をランプで照らしました。
「おまえは倉庫にあった古い書きつけを読み解いた。財宝のありかを示す暗号だと言ってな。そこでおまえの言うとおりにやってきたら、ここにたどり着いた。だが、この扉を開けて本当に大丈夫なのか? 開けたとたん罠が作動して、わしが死ぬようなことはないのだろうな?」
「この扉の奥に財宝が眠っている、ご主人。罠については、暗号には書かれていなかった」
とジンは答えましたが、男はやはり慎重でした。
「あの暗号はきっと、大富豪だったというご先祖様が、子孫のわしたちに残していったものだ。子孫相手に罠の警告をしないということは、ありえんとは思うが、なにしろ財宝の隠し場所ではな……。おまえの力で扉を開けることはできないのか?」
「不可能だ、ご主人。私はこの世のものに働きかけることはできない」
そう言って、ジンは片手を上げました。白い衣に包まれた細い腕は、階段の石壁を突き抜けてしまいます。
ふぅむ、と男は考え込みました。扉を開けるのは危険かもしれない、と考え続けますが、その奥で眠る財宝のほうに強く心が動いていました。他の者を呼んで慎重に扉を開けることは可能ですが、そうすれば、財宝を独り占めすることはできなくなるでしょう。
しばらく逡巡(しゅんじゅん)してから、彼はついに決心しました。目の前に立ちはだかる扉に近づき、手を伸ばして、金の取っ手を握りしめます――。
ところが扉は開きませんでした。押しても引いても、扉はびくともしません。
男は扉を蹴ったりたたいたりしました。力任せに体当たりもしましたが、やはり扉は開きません。しまいには足元の岩で殴りつけてみましたが、黒光りする扉には傷ひとつつきませんでした。頑(がん)として行く手をふさぎ続けています。
男は怒ってジンを振り返りました。
「鍵がかかっているぞ! どうしたら扉を開けられるんだ!?」
「開かない?」
とジンは繰り返しました。不思議そうな声です。
男はますます怒って両腕を振り回しました。
「まったく開かんと言っているんだ! ここの鍵はどこだ!? 早く見つけてこい!」
「鍵はないはずだ、ご主人。そんなことは暗号には書かれていない」
「では何故これが開かないのだ!? さてはわしをだましたな!? ジンの分際で!」
財宝が手に入ると期待しただけに失望と怒りは大きくて、男はジンをどなり続けました。男の大声が石の階段に響き渡ります。
すると、ジンが空中で身動きしました。ゆらめく白いフードの奥で、若い男の声がつぶやきます。
「ああもぉ、うるさいおじさんだなぁ」
急に口調が変わっています。
男は目をむき、ますます逆上しました。
「う、うるさいおじさんだと!? 貴様、ジンの分際で、主人になんてことを――!」
「ざぁんねんでした。キミ、ほんとはボクのご主人なんかじゃないんだよねぇ。でもって、ボクもジンなんかじゃないんだなぁ」
とジンは言って、空中で長いフードをはずしました。とたんに全身の服が変わって、長い赤い上着を着た青年の姿になります。恰好は変わっても、体は半ば透き通ったまま、空中に浮いたままです。
うふふっ、と青年はまるで女のように笑いました。細い目を糸のようにいっそう細めて言い続けます。
「はぁい、ボクは魔獣使いの幽霊のランジュール。よろしくねぇ。まあ、ジンだって言ってだましたのは確かだけどさぁ。ここ、本当に暗号にあったとおりの場所なんだよねぇ。別に鍵なんかもかかってなくて、おじさんが開けようとすれば、すぐに扉は開くはずだったんだけどなぁ」
「だが、扉はびくともせんぞ! どういうことだ!?」
と男は言いました。相手はこの世のものではありませんでしたが、幽霊も精霊のジンも大して変わりなく思えたので、とりたてて怖いとも感じなかったのです。
ランジュールは空中で首をかしげました。
「さぁ、ほんとにどういうコトなんだろうねぇ。ここの奥には、デビルドラゴンって呼ばれる竜がいるんだよ。人にものすごい力を与えてくれる竜でねぇ、願い事をなんでも実現させてくれるんだ。ただの金銀財宝なんかより、そっちのほうがずっといいだろぉ?」
「願い事をなんでも実現させてくれる竜だと? まさか、富や出世もかなえてくれると言うのか?」
と男は驚いて聞き返しました。
「そうそう。その扉を開けることさえできたらねぇ」
とランジュールは答えて、きらっと目を光らせました。何かを企んでいる目つきです。
それを見たとたん、男は扉から飛びのきました。
「やはり、ここには罠が仕掛けられているな! 貴様、わしにこれを開けさせて、わしが罠にひっかかっている間に貴様の願いをかなえるつもりだっただろう!? そうはいくか! うせろ、幽霊め!」
「あららぁ、ばれちゃった。おじさん、意外と勘がいいねぇ」
とランジュールはのんびりと言いました。人を食ったような言い方です。
「うん、そぉ。実はねぇ、その扉を開けるのには二人必要だったんだよ。一人が扉を開ける役。その取っ手を回そうとすると、その人の体が扉に吸収されて扉が開く仕組みなのさ。おじさんにその役をやってもらおうと思ったんだけど、うまくいかなかったねぇ。どうやら、ここの扉はもう壊れちゃってるみたいだなぁ」
「き、貴様、幽霊の分際でわしをはめようとしおったな!?」
男は猛烈に怒り、ランジュールに飛びかかりました。赤い上着をつかもうとしますが、手が幽霊の体を素通りしたので、空振りして床に尻餅をついてしまいます。
男はなおもわめき続けましたが、ランジュールはそれを無視してひとりごとを言いました。
「さぁて、どぉしようかなぁ――。やっと扉を見つけたのに、ここも他の場所みたいに壊された後だったんだねぇ。誰がやったんだろぉ? 勇者くんたちかな? それとも、光の国の魔法使いたちかなぁ。ほんと、余計なコトをするよねぇ」
すると、そのすぐ横に、突然真っ黒い蛇の頭が現れました。階段の行き止まりの空間をすっかりふさいでしまうほど巨大です。
男は尻餅をついたまま恐怖の声を上げました。仰天して、とっさには体が動きません。そんな男を、蛇はいきなり、ぱくりと食べてしまいました。丸呑みすると男の悲鳴は消え、代わりに地の底から響くような声が聞こえてきます。
「キュウジュウシチ!」
「あぁもう、フーちゃんったらぁ!」
とランジュールは大蛇の前へ飛んでいきました。腰に両手を当てて、めっとにらみつけます。
「ボクが許可する前に勝手に人間を食べちゃダメだって、いつも言ってるじゃないかぁ! フーちゃんは、ほんとにいやしんぼなんだから!」
この蛇はヤマタノオロチの八つの頭のひとつでした。中に巨大な闇の魔獣のフノラスドを宿しているので、ランジュールはフーちゃんと呼んでいます。
ジャアとフノラスドは反論するように鳴きました。蛇の声ですが、言っていることはランジュールには通じます。
「え、どうせもう役に立たない人間だったんだから、食べたってかまわなかっただろうってぇ? まぁねぇ、このまま生かして帰すわけにもいかなかったから、どっちにしろ殺すつもりだったけどさぁ。ただ、これからは当分、フーちゃんは人間を食べられないよぉ。なにしろ、フーちゃんは百人食べると、しばらく眠っちゃって起きられなくなるんだから。もう九十七人だなんて、あと三人しか空きがないもんねぇ。もう少しお腹がすいてくるまでは、我慢だよ」
ヒトを食べることはいけないことだ、などとは絶対に言わないランジュールです。
すると、フノラスドがまたシャアシャアと鳴きました。今度は尋ねるような調子です。
「えぇ? どうしてデビルドラゴンの扉に人間を案内するんだって? うふふ、だって、あの竜は魔獣の中でも最強で最悪じゃないかぁ。なにしろ、この世界の闇の権化なんだから。ボクは強い魔獣が大好きだからさ、一目見てみたいと思うんだよねぇ」
とランジュールは答え、楽しそうにまた、うふふふ、と笑いました。本当に女のような笑い方をする幽霊です。
蛇は巨大な頭をかしげました。疑わしそうに主人を見ます。
ランジュールは笑い続けました。
「ふふふ、気にしない気にしなぁい。ボクは自分のしたいコトを、したいようにするだけなんだからさぁ。さあ、気を取り直して、別の扉を探しに行こうか。デビルドラゴンの扉は世界中に設置されたはずなんだよねぇ。大部分は壊されちゃったみたいだけど、中にはまだ生きてる扉もあるかもしれないよぉ」
話しながら幽霊の体が消えていきました。後を追うように、大蛇の頭も消えていきます。
じきに階段の突き当たりには誰もいなくなりました。蛇に食われた男が残したランプが、周囲を照らしているだけです。
やがてそのランプも静かに燃え尽き――
あたりは闇に閉ざされました。