天空の国は、世界の空を誰の目にも映ることなく飛び続けている魔法の国でした。
住人はすべて魔法使いで、さまざまな魔法を使いこなすことができます。光の女神ユリスナイの名の下(もと)、正義と平和のために魔法を使う者が多いので、光の民とも呼ばれています。
天空の国には死火山がそびえていて、その頂上に金と銀でできた天空城がありました。正義と光の王である天空王の居城ですが、国の貴族たちが集まる場所でもあります。彼らはそこから地上を眺めては、必要に応じて風の犬で降りていって、魔法で地上を助けるのです。
同じ城内には、貴族の子弟を教えるための学校もありました。学校ならば麓(ふもと)の町や村にもありますが、貴族の子どもたちは魔力が強力なので、その分、高度な魔法や知識を教わることができます。
今も学校では授業の最中でした。教師が天空の国の歴史を教えています。
「というわけで、天空歴千百二十四年に、天空と地上の連合軍は地上で闇の軍勢に討ち勝ち、九十年に及ぶ大戦は終結した。この後、地上で協議が行われ、天空の国と地上はそれぞれの世界には関わらない、という契約が結ばれた。天空歴千百二十五年のことだ。この年号は試験に出すから、ちゃんと覚えておきなさい」
教室にペンを走らせる音がいっせいに響きました。生徒たちが年号と出来事を一生懸命ノートに書き写しています。どれほど魔法が高度に発達しても、どんなに強力な魔力を持っていても、文字を書き写すことだけは自分の手で行わなければなりません。古(いにしえ)の時代に強力な魔法が世界をおおって、文字を写し取る魔法を禁じてしまったからだと言われています――。
けれども、レオンはノートも取らずに、教室の窓の外を眺めていました。取る必要がなかったのです。三千年に及ぶ天空の国の歴史ならば、主要な出来事も年号も、すっかり頭に入っています。それなのに、こんなわかりきった授業につき合わなくてはいけないので、退屈してうんざりしていました。窓の外の青空を、風の犬に乗った貴族が地上へ降りて行くのを見て、いいよなぁ、と心の中で思います。ぼくはいったいいつ貴族の仲間入りができるんだろう、とも考えます。
教室にはレオン以外にもノートを取ろうとしない生徒たちがいました。教科書を開いて読んでいるふりをしながら、心話で内緒話をしています。自分たちでは他人に聞こえないように話しているつもりですが、彼らより魔力が上のレオンには、内容まではっきりと聞こえていました。こんなことを話し合っています。
「ポポロが地上から帰ってくるらしいぞ。今朝、父さんが話していたんだ」
「へぇ、特別クラスの? まあ、彼女はもう貴族だから、地上との間を行き来するのは当然だけどさ。それにしても今回は長かったんじゃないか?」
「一年ぶりだよ。ずっと地上で闇の竜と戦っていたらしいな」
「闇の竜じゃない、あいつの『影』だよ。本体は世界の果てに捕まっているんだから。彼女が戻ってくるってことは、影を消すことができたのかな?」
「さあ? そこまでは父さんたちも話していなかったな。どうなんだろう? 消えたのかな?」
闇の竜の影はまだ消えてなんかいないさ、とレオンは心の中でつぶやきました。視線は相変わらず窓の外に向けたままですが、そうやっていても、はるか下のほうに大きな闇の気配を感じることができます。地上のある方向です。
この一年間、地上の闇は消えるどころか、逆にどんどん強まっていって、優秀な魔法使いたちにはその気配が感じ取れるほどになっていました。こんなふうに闇が増えたのは、闇の竜のしわざに違いありません。悪の権化(ごんげ)の竜は、今もまだ影の姿でどこかに潜んでいて、ちゃくちゃくと地上に闇を増やしているのです。
まったく、生ぬるいんだよなぁ、とレオンは心でつぶやき続けました。いくらポポロが優秀な魔法使いだからって、たった一人で闇の竜に勝てるわけはないんだよ。しかも、彼女は人間やドワーフなんかと一緒に戦っているっていうじゃないか。彼らには魔法は使えないんだから、それで闇の竜の影が消せるわけはないんだ。契約だかなんだか知らないけど、そんなカビの生えた古い約束は見直しをして、この国の貴族全員で攻撃に降りていけば、闇の竜だってすぐに倒せるのにさ……。
そんなことをレオンが考えていると、教師が突然話すのをやめました。
「ジョン! ケイ! 授業中はおしゃべりをするな、と何度言えばわかるんだ!?」
と空中へ拳(こぶし)を振り下ろします。
とたんに、心話で内緒話をしていた二人が、あいたっ! と悲鳴を上げました。見えないげんこつが頭の上に降ってきたのです。頭を抱えて、ごめんなさぁい、と謝ります。
次に教師はレオンをにらみました。彼がずっとよそ見をしていたことにも気づいていたのです。彼を立たせて厳しい声で言います。
「レオン、私は今、質問をしたよ。質問の内容とその答えを言いなさい」
彼が返事に詰まったところを説教しようとしているのですが、レオンはあわてませんでした。彼は耳にしたことばをそのまま記憶の中にとどめて、必要に応じて聞き直すことができたのです。教師のことばを頭の中で巻き戻してから、落ち着きはらって答えます。
「先生の質問は、我々は正義の民なのに何故、闇を象徴する黒い色の星空の衣を着るのか? でした。その答えは、我々の内側にも闇があることを忘れずにいるため、です」
完璧な回答に、教師は苦い顔になりました。
「正解だ。座りなさい」
と、しぶしぶ彼を座らせます。
くだらないよなぁ、とレオンは心の中でつぶやき続けました。
いくら二千年前の光と闇の戦いがこの天空の国で始まったからって、それ以来ずっと黒い服を着てるだなんて、変じゃないか。それに、ぼくたちの中にも闇があるって言ったって、地上の人間たちや闇の民に比べたら、ほんの少しなんだぞ。それをわざわざ黒い服で象徴する必要なんてないのにさ。天空の国はいろんな面で厳格なんだよ。慎重すぎるんだよな……。
彼の不満はずっと続いていましたが、教師はもう注意しませんでした。いくら魔法学校の教師であっても、生徒の心の中の声まで聞き取れるわけではなかったのです。
レオンはまた窓の外へ目を向けました。晴れ渡った空を、また一人、風の犬に乗った貴族が地上へ降りていきます。白い蛇か竜のような風の獣に乗った貴族は、遠目にもとても立派に見えます。
ちぇっ、いいなぁ。
誰に聞かれることもない声で、少年はそうつぶやきました……。