「帝(みかど)は社殿に入ったそうだな?」
と男は同じ部屋にいた女に尋ねました。青い絹に銀糸の刺繍を施した衣装は、彼自身が帝であるように立派です。
女は薄紅の絹の服を着て、薄い絹の肩掛けをまとっていました。ほっそりした手で酒の瓶を傾け、男の杯を充たします。
「焦る必要はございませんわ、ユウライ様。あの子どもは真の帝ではございませんもの。いくら社殿にこもったところで、神竜を呼び出せるはずはありません」
「当然だ」
と男は答えましたが、その顔は不機嫌なままでした。つがれた酒を一気に呑み干します。
「あれは兄者の真の子ではない。それは皆が知っていることだ。だが、兄者はあれに帝の位を譲って亡くなった。何が竜子帝(りゅうしてい)だ! 竜など呼べもせぬくせに!」
「まあ。そうお腹立ちにならずに……。神竜を呼び出せなければ、帝はその位を剥奪されますもの。あの子どももじきにそうなりますわ」
女は話しながらまた男に酒をつぎました。とても美しい女性ですが、微笑を浮かべた顔はどこか謎めいています。
男はいきなり杯を投げ出すと、結い上げた女の髪をわしづかみにしました。ぐいと乱暴に引っぱり、痛みに悲鳴を上げた女へ迫って言います。
「そうだとも。神竜を呼び出せた者が、この国の真の帝になる。あの小僧が竜を呼び出せず――別の誰かが神竜を呼び出すことができたならばな!」
男は怒りと苛立ちで今にも女を殴り倒しそうです。
けれども、女は落ち着きはらって言いました。
「ユウライ様が神竜を呼び出せば良いのですわ。ユウライ様も先々代の帝のお子でございますもの。人民だって、あの子どもよりユウライ様のほうが帝にふさわしい、と認めます」
とたんに、男はとまどう顔に変わりました。女から目をそらして手を放します。
女が重ねて言いました。
「何故ためらわれますの? ユウライ様のそのお名前は、このユラサイの国の昔の呼び名からつけられたもの。ユウライ様こそ、この国の真の帝にふさわしいという証明でございましょう」
「俺には神竜は呼び出せん」
と男は吐き捨てるように答えました。
「俺たちに兄弟姉妹は大勢いたが、父君が亡くなった時に神竜を呼び出せたのは、長兄だった兄者だけだ。だから、兄者が帝になった。帝位は帝の子どもに引き継がれていくのが決まりだ」
「ですが、ユウライ様の弟君は、そうは考えていらっしゃいません。竜子帝からなんとか帝位を奪おうと画策していると、もっぱらの噂ですわ」
「ガンザンはすぐに力で解決しようとするからな。だが、あの小僧を殺したところで、神竜が呼び出せなければ、ガンザンだって帝にはなれん」
「でも、あの子どもが死ねば、帝の座は先々代のお子の皆様方にまた回ってきますわ。帝選びが行われることでしょう。その席でユウライ様が竜を呼び出してみせれば――」
「だから、俺には竜は呼び出せんと言っている!」
男の声がまた苛立ち始めます。
すると、女が言いました。
「呼び出すのですわ。それが神竜かそうでないかなど、人民には見分けることができませんもの。いかにも神竜らしくみえるものを呼び出してみせれば、皆も納得することでしょう」
「簡単に言うな……。そんなものをどこで捕まえるというのだ?」
「心当たりがございます」
と女が言ったので、男はいぶかしい顔をしました。
「心当たり?」
「ええ、少しお時間をいただければ、きっと」
他に聞く者のいない部屋の中で、灯りが風に揺れました。男と女の影が、金屏風の上に映って揺らめきます。
しばらく考えてから、男は言いました。
「おまえの母は確か竜仙郷(りゅうせんきょう)の出身だったな、トウカ。そちらにつてがあるのか?」
女はそれには答えず、床から白磁の杯を拾い上げると、絹の袖でぬぐって男に差し出しました。
「万事、私にお任せくださいませ、ユウライ様」
男はその謎めいた微笑を見つめ、やがてうなずきました。
「よかろう、やってみろ。もしそれが本当にうまくいったら、おまえを俺の正妻にしてやる。帝の后だ。不満はあるまい」
「充分でございますわ」
女が答えます。
男は杯を受けとると、注がれた酒を一気に呑み干し、空になった杯を柱にたたきつけました。杯が割れて床に飛び散ります。
そのかけらをにらみつけて、男はうなりました。
「俺以外の者が帝になるなど、俺は断じて許さん……! ユラサイは俺の国だ。必ず帝になってやる。あのくそ生意気な小僧から、帝位を奪い返してやるぞ!」
「ええ。ユウライ様にはきっとおできになりますわ」
女が重ねて言います。相変わらず不思議な微笑をたたえたままです。
開け放した窓から夜の庭園が見えていました。月もない夜ですが、庭に焚かれたかがり火が、離れと周囲の竹林を照らしています。
そこへまた風が吹きました。暗がりから響く葉ずれの音は、何かがいっせいに笑う声のようでした……。