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第10巻「神の都の戦い」

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プロローグ うなる風

 窓のない部屋の中で子どもが遊んでいました。

 小さな小さな家でした。子どもが少し走れば、すぐに壁に突き当たります。元気があり余っている子どもは、同じ部屋にいる母親に文句を言いました。

「ねえ、お母さん。外で遊びたいよ。どうして外に行っちゃいけないの?」

 母親は少女のように若々しく見える人でしたが、息子のことばに本気で困った表情をしました。茶色い巻き毛の頭を振って答えます。

「それはダメよ……外は危ないものがいっぱいで、小さいあなたが平気で遊べるところじゃないの。この家の中なら安心なのよ。ここで遊んでいてちょうだいね……」

 けれども、小さな家には遊びに来てくれる友だちもありません。子どもはいっそう不満顔になりました。

「やだよ。家にいるのはもう飽きたんだ。大丈夫だよ。ぼくはもう大きいんだからさ」

 小さな子どもが決まって口にすることを、その子は胸を張って言い切りました。椅子に座っている母親をにらむように見上げます。

 すると、母親の大きな瞳がいっそう大きくなりました。みるみるうちに透明なものがたまっていって、長い下まつげの縁に盛り上がっていきます。

 うわ、と子どもは心で声を上げました。母親は、息子の彼でさえあきれるほどの泣き虫なのです。たちまち涙が目からあふれ、頬の上をこぼれていきます。それを両手でおおって、母親は悲しげ泣き出しました。

 子どもはあわてて母親の膝にすがりつきました。

「行かないよ、お母さん。行かないったら。だから泣くなよ。ねえ、お母さん……」

 いくら話しかけても、母親の涙は止まりません。いつだってそうなのです。一度泣き出したら、なかなか泣きやむことができません。弱り果てて見上げる子どもの顔に、指の隙間からこぼれた涙が降りかかってきます。

 

 部屋には、外へ続く扉がひとつだけありました。反対側の壁には奥の部屋の入り口がありますが、そこに扉は立っていません。

 扉の向こうから、かすかにうなる音が聞こえていました。遠くを風が吹いていく音です。窓がひとつもない家の中、外に出られない子どもにとって、その音は世界の存在を教えてくれる、たったひとつのものでした。

 ところが、そこに別の音が混じってきました。何人もの足音がこちらへ近づいてきます。

 若い母親はたちまち泣きやむと、顔色を変えて息子を引き寄せました。両腕で抱きかかえるようにして、じっと扉を見つめます。母親の緊張が伝わってきて、子どもはびっくりしました。何が来るんだろう、と扉を一緒に見つめます。

 

 ノックもせずに家に入ってきたのは、数人の男たちでした。皆、黒い髪をしています。無表情で狭い部屋を見回すと、母親の腕の中にいる子どもに目を止めました。冷ややかに響く声で、一人がこう言います。

「フノラスドが目を覚まそうとしている。その子どもをもらっていくぞ」

 母親は悲鳴を上げました。奪われまいとするように、息子を強く抱きしめて叫び返します。

「贄(にえ)は集めたはずでしょう!? よその国から! どうしてこの子を連れていくのよ!」

 たった今まで泣いていたとは思えないような強い口調です。子どもは、その母の声の方に驚いてしまって、男が言っていることの意味はほとんどわからずにいました。母親がこんなに怖そうな顔を見せるのは初めてのことだったのです。

 すると、別の男が答えました。

「百人目が弱って死んでしまったのだ。今からもう一人捜しには行けない。その前にフノラスドが目覚めるからな」

「奴の目覚めはもうじきだ。その時に贄が揃っていなければ、国中が奴に襲われる」

 と三人目の男も言います。

 母親は必死で首を振りました。ますます堅く強く子どもを抱きしめます。

「この子でなくても良いはずよ! この子は――この子は、王の息子よ!」

 お母さん? と子どもは母親の顔を見ました。大人たちが何を話しているのか、意味がまったくわかりません。

 すると、四人目が氷のような声で言いました。

「王が、その子どもを百人目の贄にするように命じたのだ――」

 静寂が部屋の中に訪れました。

 聞こえてくるのは、扉の向こうから響く風のうなり声だけです。けれどもその彼方から、何かの咆吼(ほうこう)がかすかに伝わってくるような気がしました。

 一人目の男がまた言いました。

「フノラスドが目覚める。もらっていくぞ」

 と子どもの腕をつかんで母親からもぎ取り、そのまま連れ去ろうとします。母親はまた悲鳴を上げると、子どもに飛びついて必死で取り返そうとしました。男と母親で子どもの取り合いになります。双方が強く子どもを引き合うので、男の爪が腕に食い込んできて、子どもは悲鳴を上げました。

「痛いよ、やめて! 助けて、お母さん――!!」

 とたんに、はっと母親が手を放しました。子どもの腕に赤く残った自分の指の痕を見つめます。

 男たちが子どもを連れ去ります。後ろの方にいた男が扉を開けようとノブに手をかけます。

 すると、立ちすくんでいた母親が、ふいに声を上げました。今まで取り乱していたのが嘘のように、落ち着き払って男たちに言います。

「待ちなさい、あなたたち――。贄は子どもでなくても良いはずよね?」

 いぶかしそうに男たちが振り向きました。

「この国に贄になろうとする奴はいないぞ。無理やり贄に差し出せば王が呪われるだけだ。国中の呪詛(じゅそ)を浴びれば、王であっても耐えられない」

「自分から贄になる人間を、一人だけ知っているわ」

 と母親は答えました。男たちを相手に毅然(きぜん)と頭を上げ続けています。

 子どもをつかんだ男が、冷笑するように目を細めました。

「お前が身代わりに行くというのか。なるほど。それならばいいだろう」

 たちまち子どもは男から解放されました。半ば放り出されるように、部屋の真ん中へ戻されます。代わりに母親が男たちの方へ歩いていきます。落ち着いた足取りです。

 

「お母さん!」

 と子どもは母親にすがりつこうとしました。何が起きているのか、幼い彼にはやっぱりよく理解できません。ただ、母親を男たちと行かせてはいけない気がして、母親を捕まえようとしました。

 ところが、それを母親は押しとどめました。

「お母さんは行くからね」

 優しくさえ聞こえる声で息子に話しかけます。

「大丈夫よ。お父様がちゃんとお母さんの代わりをよこしてくれますからね」

 息子は必死で首を振りました。お父様なんて人のことは知りません。顔も見たことがないのです。お母さんの代わり、ということばが得体の知れないもののように迫ってきて、身震いをさせます。

「お母さん! 待って、お母さん!!」

 叫び続ける子どもの目の前で扉が開きました。家の中に外の空気が流れ込んできます。身を切るほど冷たく、暗い気配に染まった風です。

「急げ」

 と男たちが母親に言いました。先に立って家を出ます。

 母親はそれについていきながら、息子を振り向きました。

「元気でいるのよ。体に気をつけて……。お母さんはいつだって、あなたの幸せを祈ってますからね」

「お母さん!!」

 子どもは悲鳴を上げました。これきり母親と永久に会えなくなってしまうのだと、突然理解したのです。母親のスカートにしがみつき、思いきり引き止めようとします。

 

 ところが、その手の中から魔法のようにするりとスカートが抜け出していきました。開いた扉の向こうへ、母親が歩いていきます。

 子どもはあわてて後を追いました。もう一度、母親にしがみつこうとします。

 すると、今度はその体が出口ではじき返されました。子どもは驚き、また出口に飛びつきました。また跳ね返されて転びます。

 子どもは這いながら出口に近寄って手を伸ばしました。見えない何かが壁のように立ちふさがっています。扉は目の前で開いていて、冷たい風も吹き込んでくるのに、彼は外に出ることができないのです。

 母親が男たちと共に遠ざかっていくのが見えていました。広がる野原と林の上を、ごうごうと風がうなりながら吹いています。その中に、確かに何かがほえる声が混じっていました。

 お母さん! お母さん! 子どもは必死で呼び続けました。その声を風と獣の声が打ち消してしまいます。

 母親が風に波打つ林の中へ消えていきました。どんなに目をこらしても、もうその姿を見つけることはできません。

 お母さぁん……!

 子どもはついに泣き出しました。

 彼が生まれて初めて見た外の世界。それは、何もかもがねじれながら揺れ動く、灰色の残酷な風景でした――。

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