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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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プロローグ 壊滅

 燭台の光に真昼のように照らされた夜の城の通路を、一人の貴族が足早に歩いていました。派手ではありませんが、立派な身なりをした初老の男です。

 その後ろを壮年の男がついていきます。こちらはマントをはおったままの旅姿で、硬い表情で押し黙っています。

 通りかかった城の侍女が立ち止まりました。ふくよかな体型の年配の女性で、ドレスの裾をつまんでうやうやしく貴族へ会釈をします。それへ貴族は尋ねました。

「侍女長、陛下はどちらにおいでです?」

「執務室でございます、リーンズ様」

 侍女長の返事に貴族はうなずき、すぐに旅姿の男と執務室に向かいました。

 侍女長は考え込むような目でそれを見送りました。遠ざかっていく貴族は、ロムド国のリーンズ宰相です。いつも落ち着き払っている宰相が、動揺を隠しながら国王の元へ急いでいます。従えている男もただならない様子です。何事か起きたのだろうか……と侍女長は泡立つような不安を感じていました。

 

 もう夜の八時を回る時刻でしたが、執務室では国王のロムド十四世がまだ机に向かって書類や書状に目を通していました。国中から寄せられた報告書の山です。ロムド王は今年六十七歳ですが、とてもその年には見えない若々しい人物で、髪もひげもまだ銀色に輝き、思慮深い瞳に強い光を宿しています。年齢的には宰相よりも少し上なのですが、逆に宰相の方が王より年上に見えてしまうほどです。話す声にも張りがあって、部屋中によく響きます。

「知らせが戻ったか、リーンズ」

 と王に言われて、リーンズ宰相は深々と頭を下げました。余計な前置きは一切抜きにして言います。

「陛下、お人払いを願います」

 ロムド王は即座に執務室から警護と従者を下がらせました。決断も命令も迅速です。部屋に宰相と旅姿の男の三人だけになると、低い声で尋ねます。

「皇太子と勇者たちが敗れたのか?」

 真剣な表情です。

 リーンズ宰相はあわてて頭を大きく振りました。

「オリバン殿下も勇者の一行もご無事でございます。ユギル殿もゴーラントス卿もその奥方様も、四大魔法使いもピラン殿も、皆様ご健在です」

 とロムドの重要人物や重臣たちの名前を挙げていきます。ピランという人物だけは、ロムド王の家臣ではなく隣国エスタ城のノームの鍛冶屋の長で、現在ロムド国を訪問中の賓客でした。

「勇者の一行と皆様方は力を合わせて魔王を撃退いたしました。このテウス卿がゴーラントス卿からじきじきに報告を受けております」

 と旅姿の男を振り向いてみせます。

 

 ふむ、と国王はつぶやくと、目に見えて肩の力を抜きました。執務席の椅子に大きくもたれかかります。

「では、勇者たちはまた魔王に討ち勝ったのだな。ゼンも闇の毒から助かったのだな?」

 ゼンというのは勇者の中の一人の名前です。旅姿のテウス卿は一礼してから口を開きました。

「左様でございます、陛下。私が参りましたとき、ゼン殿はもうすっかり元気なご様子で、起き上がって皆様方と飲んだり食べたりしておいででした。フルート殿とポチ殿だけは別行動で、まだお戻りではありませんでしたが、他の方々は、ゴーラントス卿の奥方のジュリア様に至るまで、皆様怪我もなく元気なご様子でした。もちろん皇太子殿下もご無事です」

 王はうなずきました。

「良い知らせだ。彼らのいるハルマスで闇が非常に濃くなり、その後、巨大な闇と光が続けざまに爆発した、と城の占者たちが言っていた。特に光の爆発はすさまじくて、その場を占っていた者たちは一人残らず占いを続けることができなくなってしまった。今もまだ占者たちは何も占えない状態だ。ハルマスで何が起こったのか、そこにいる者たちが無事かどうか、知ることもできなくて気をもんでいたが、魔王が倒れ、皆が無事であるとすれば、これほど喜ばしい報告はない」

 そう言って、王は考え深い目を宰相とテウス卿に向けました。喜ばしい報告だ、と言いながらも、その顔は少しも笑っていません。

「で……何が起きているというのだ? 容易ならぬ事態に陥っているようだな。ハルマスはどうなったのだ?」

 二人の家臣は賢王と呼ばれる自分たちの王へ改めて深く頭を下げました。テウス卿が低く答えます。

「ご明察のとおりでございます、陛下。魔王は倒され、皆様方はご無事でした。ですが――ハルマスの町は壊滅いたしました」

「壊滅」

 と国王は驚きました。強い響きのことばに、思わず眉をひそめます。

「だが、ハルマスには今は人はいなかったはずだぞ。ユギルの進言で、住人も貴族たちも全員ディーラに避難させたからな。ハルマスに残っていたのは、そなたたちが無事を伝えてくれた者たちだけだ。その状態で壊滅と言うからには――」

「町が消滅いたしました」

 とテウス卿はますます低い声になりました。

「我が目を疑う光景でした。街道沿いにあれほど連なっていた別荘も店も、大劇場も、たくさんの船がつながれていた桟橋も、湖のほとりに建っていた住人たちの家も……本当に、文字通り消え去っておりました。何も残っておりません。湖のほとりには、ただ黒く焼け焦げた荒れ地が広がっているばかりです。街道さえ、痕跡も残さず消えておりました。まるで、すさまじい熱があらゆるものを溶かして蒸発させてしまったようです。そこに何があったのか、どんな景色の場所だったのか、思い浮かべることさえできません。ただ、ゴーラントス卿の別荘があった場所だけは、庭の跡を示すようにわずかに木や草が生え、白い花が咲いていて、焼けていない地面が残っておりました。たかだか五十メートル四方ほどの場所です。その中で、皆様方は無事でいらっしゃいました」

「そこを最後の拠点と死守して、魔王を倒したか」

 と国王は言って、その場面を想像するように目を閉じ、やがて、つぶやくように言いました。

「皆よくぞ無事であった」

 短いことばに万感の想いが込められていました。

 

 リーンズ宰相は王にまた頭を下げてから、真剣な顔と声で言いました。

「陛下がハルマスからの退去命令をお下しになってから、すでに四日になります。大嵐が来ると知らせておりましたが、本物の嵐は初日の晩に通り過ぎてしまいました。避難所にいる住人はもとより、貴族たちからも、ハルマスに残した家や別荘を心配する声が上がっております。さらに、貴族の中にはお抱えの占者を持つ者もいて、ハルマスで異変が起きたことを察しております。なにしろ、ハルマスを見ていた占い師たち全員が、占いの能力を失っておりますから……。陛下のご命令を無視して、ハルマスの様子を見に行かせている者たちもいるようです。このままでは、間もなく騒ぎが起こります。ハルマスに家と別荘を持っていた者が、一人残らずこの城に押しかけてくることでしょう」

「だろうな」

 と王は言って、考える目をしました。少しの間沈黙してから、おもむろに命じます。

「ハルマスにいる皇太子や勇者たちを全員城へ呼び戻すように。早急かつ内密にだ。迎えの馬車を出せ」

「御意」

 とリーンズ宰相は片手を胸に当てて王へ礼をしました。が、王の命令を伝えに出ていこうとはしません。王がいぶかると、宰相は顔をほころばせました。執務室に来てから初めて見せる笑顔です。

「実は必ず陛下がそうご命令なさると思って、すでに迎えをハルマスに向かわせておりました。大型の馬車三台を送っております。明朝には現地に到着するので、ハルマスのことで苦情を申し立てる者たちが城に押し寄せる前に、皆様方を無事城に収容できるだろうと存じます」

 それを聞いて、国王も笑顔になりました。阿吽(あうん)の呼吸を知る宰相を頼もしく眺めます。

「さすがはリーンズだ。よくわかっておる」

「年の功でございます。陛下のおそばにお仕えして、間もなく五十年になりますので」

「五十年か――。お互い歳をとったものだな、リーンズ」

 と王は声を響かせて笑い出しました。若々しい笑い声です。リーンズも穏やかに笑いながら言いました。

「年を経ることは悪いことではございません、陛下。経験は知恵に変わっていきますゆえ」

「それを古狸の知恵と呼ぶ者もいるがな。ならば、古狸らしく若い者たちを守ってやるとしよう。――ハルマス壊滅は確かに痛い。だが、人的な損失はなかったのだ。最悪の事態は避けられている。知恵の使いようでは、災いも好機に変えることができるだろう」

「賢王のお考えのままに」

 と宰相はうやうやしく答えました。

 笑いやめた王は、ハルマスのある方角の壁に向かって遠い目をしました。

「彼らはロムドだけでなく、全世界を守ったのだ。その彼らをわしたちが守らなくて、どうするというのだ」

 静かな口調の陰に強い力がこめられています。

 御意、と二人の家臣はまた深々と頭を下げました。

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