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第7巻「黄泉の門の戦い」

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プロローグ 復活

 エスタ王国の首都カルティーナ。

 中央大陸一の大都市は、夜になっても賑やかです。繁華街の大通りには松明やかがり火が燃え、ランプを下げた馬車が行きかい、夜を忘れた人々が繰り出しては、酒場を何軒もはしごして酔ったあげくに口論したり喧嘩をしたりしています。

 街の中央には国王の城がそびえています。城壁に何万と取り付けられたかがり火が、純白の姿を夜の中に浮かび上がらせます。降り積もったばかりの雪で作り上げたような美しい城は、人々から雪白城とも呼ばれていました。

 

 その都市の街道の下には、石造りの下水路が張り巡らされていました。明るく華やかな地上とは裏腹な、光の当たらない、汚泥と悪臭に充ちた空間です。排水の中を流れてくる汚物や残飯をあさる虫や小動物が、暗闇の中、ごそごそと音を立てて動き回っています。

 その中に、一匹の小さなネズミがいました。長い尻尾を下水路の側道に伸ばし、腐ったジャガイモをかじっています。

 すると、そこへ大きなドブネズミがやってきて、小さなネズミを餌から追い払いました。ネズミはキーキーと甲高い声を上げて怒ると、いきなりドブネズミへ飛びかかっていきました。鋭い牙でかみつきます。

 が、ドブネズミは逆に小ネズミを牙にかけ、あっという間に振り飛ばしてしまいました。ネズミが汚水の中に落ちて、そのまま、流れに押し流されていきます――。

 やがて、ようやくまた側道にはい上がったネズミは、小さな体をぶるっと震わせました。小さな二つの目が闇の中で燃えるように光っています。それは底知れない怒りの目でした。何かを深く恨む目です。

 ネズミは、もうずっと長いこと、体の芯から、心の底から、何かを激しく憎み怒り続けていたのです。けれども、ネズミはどうしても思い出せませんでした。何故自分がこんなに怒っているのか。何をこんなに憎んでいるのか……。

 

 すると、光のない暗い水路に突然声が響きました。

「ネズミトハ、情ケナイ姿ニナッテイルモノダナ」

 地下を流れる水路より、さらに地下深い場所から響いてくるような低い声です。ネズミは飛び上がりました。小さな頭をせわしく振ってあたりを見回します。声の主は見あたりません。

「思イ出セナイノカ。天空王ノ魔法デ愚カナ小動物ニナリハテテイルヨウダナ」

 ネズミはまた、びくりと飛び上がりました。キーキーと鋭く鳴きわめきます。声の主を問いただしているような響きです。

 すると、声が低く笑い出しました。

「私カ? 我ガ名ハでびるどらごん。コノ世ニ破滅ト不幸ヲ運ブ闇ノ化身ダ――」

 ネズミの目の前に、どこからともなく影がわき起こりました。暗がりよりもさらに黒くて暗い影が、下水路一杯に広がっていきます。それは四枚の翼を広げた巨大なドラゴンの姿をしていました。

 ネズミはおびえて後ずさりました。そのまま後ろを向いて、一散に逃げ去ろうとします。

 そこへ影の竜がまた呼びかけました。

「元ノ姿ヲ取リ戻シタクハナイノカ? オマエノ本当ノ名ヲ取リ返シタクハナイノカ? 夜ノ魔女、れぃみ・のわーるヨ」

 

 とたんに、ネズミが立ち止まりました。小さな頭を巡らして影を振り返り、目を白く光らせながら、突然キーッと大声で叫びます。

 影が揺らめきました。得体の知れない黒い輝きが、汚れた下水路を照らします。

 すると、ネズミの姿がいきなり溶け始めました。灰色の毛におおわれた体が灰色の煙に変わり、みるみるうちにふくれあがって人の形を作り上げます。その煙が消えたとき、後には若い女が立っていました。艶やかな長い黒髪に紫の瞳、一糸まとわぬ裸の姿は見事なまでのプロポーションです。白い絹のような肌が、闇の中で怪しく光ります。

 女は下水路の汚水の中に立っていました。美しい顔が信じられないような表情を作っています。と――その顔が突然大きく歪みました。汚水の中をゴミや汚物と一緒にヒルのような長虫が流れてきて、むき出しの女の脚に絡みつこうとしたのです。女が鋭くにらみつけたとたん、虫はばらばらにちぎれて跡形もなく吹っ飛びました。

 女はさらに顔を歪めると、わなわなと震えだしました。形の良い豊かな胸を両腕に抱きしめ、怒りに瞳を燃やしながらつぶやきます。

「よくも……よくもあたくしにこんな真似を……! 天空王! 金の石の勇者……!!」

 四枚翼の影の竜は女の目の前にとどまっていました。地の底から湧き上がるような声で話しかけてきます。

「ヨウヤク思イ出シタヨウダナ。ソウダ。オマエヲアンナ姿ニ変エ、二年半モノ間、オマエニ世界ノドン底ヲハイ回ラセテキタノハ、天空王ト金ノ石ノ勇者ノ一行ダ」

「あのガキども!!」

 と女が吐き出すようにどなりました。美しい顔からは想像もつかないほど激しいののしりです。

「そうだ……全部、あの勇者のガキどもと、天空王のしわざだ! 真実の錫(しゃく)であたくしは……!」

 再び自分が立つ汚れきった空間を見渡し、魔女はいっそう激しく震えました。ネズミになっている間、汚水をすすり残飯を食らってきた口から、べっと唾を吐き、紅い唇の奥で音高く歯ぎしりをします。

 

 下水の中に裸で立ち続ける女に、影の竜が話します。

「オマエノ恨ミハ私ニハ親シイモノ。私モマタ天空王ト金ノ石ノ勇者ヲ憎ンデイル。私ヲオマエノ中ニ受ケ入レロ、れぃみ・のわーる。私ハオマエヲ魔王ニシテ、私ガ持ツチカラヲ、オマエニ与エヨウ」

 女は疑うような目で竜を見ました。その状況であっても、決して闇の竜にへりくだったりはしません。

「あたくしに取り憑いて魔王に変えようというわけ、デビルドラゴン。嫌だと断ったらどうすること?」

「マタ別ノ者ヲ探スダケダ。心ニ恨ミト憎シミヲ抱キ、ソレヲハラスタメニ、闇ノ化身ノ私ヲ受ケ入レテモ良イト考エル者ヲナ。私ガココカラ去レバ、オマエハマタ元ノネズミノ姿ニ戻ル。真実ノ錫ノ定メノトオリ、人トシテノ寿命ガ尽キルマデ、コノ汚イ場所デ生キ続ケルガイイ」

 すると、夜の魔女レィミ・ノワールは、ふん、と鼻を鳴らしました。胸を抱いていた手をほどいて腰に当て、影の竜を見上げます。

「ネズミに戻りたくなければ魔王になれ、と言うわけね。おあいにく。あたくしは誰かに命令されるのが何より嫌いよ」

「決裂トハ残念ダナ、愚カナ女ヨ」

 影の竜の姿が揺らめき、下水路から消えていこうとしました。

 すると、レィミ・ノワールはまた、ふん、と鼻で笑いました。目を細め血のように赤い唇を歪めて、にんまりします。

「闇の竜はせっかちね。あたくしは、誰かに命令されて従うのが嫌いだと言っているだけだわ。自分のことは、自分自身で決めることよ」

 豊かな胸をそらしていっそう突き出すと、巨大な影に向かって怪しく笑いかけます。

 影の竜の頭に赤い二つの光が浮かびました。竜が目をあけたのです。面白そうな声が言います。

「逆ニ私ニ命ジヨウト言ウノカ、魔女」

「そうよ。あたくしに命令できるのはあたくし自身だけ。おまえもあたくしに従って、あたくしに力を貸しなさい」

 傲然(ごうぜん)と言い切ると、レィミ・ノワールは白い指先を竜につきつけました。

「あたくしの中に宿り、あたくしを魔王にしなさい。あたくしはあいつらに復讐してやる。ひと思いになど殺すものですか。絶望して泣きわめき、死ぬよりつらい苦しみに存分にのたうたせてから、一人ずつじっくりと片付けてやるわ。そのための力をあたくしにおよこし、デビルドラゴン。引き替えに、この世でのおまえの体を貸し与えてやるわ」

 闇の中で、赤い瞳がにやりと笑ったようでした。

「サスガハ夜ノ魔女ダナ」

「あたくしは誰かに負けっ放しというのが死ぬより嫌いなのよ。さあ、早くおし! こんな場所、あと一秒でもいられるものですか!」

 

 たちまち竜の影がほどけて広がり、女の体にまとわりつきました。怪しい黒い光がぴかりぴかりと輝き、女の白い肌に鋭いトゲのように食い込んでいきます。鮮血がほとばしり、魔女は激しい苦痛に顔を歪めて悲鳴を上げました。

 ――が、魔女は次の瞬間にはすべての影を自分の内側に取り込んで、また平然とした顔に戻りました。傷は跡形もなく消えています。その姿は、どこもほとんど変わりがありません。ただ、紫色だった瞳だけが、血のように赤い色に変わっていました。

 魔女はちょっと首をかしげると、ひとりごとのように言いました。

「あたくしは元々の姿が一番美しいのよ。それを変えたりするものですか」

 自分自身の内側にいるデビルドラゴンの問いかけに答えたのです。ふん、とまた笑った口元で、とがった牙が白く光りました。

 レィミ・ノワールの体がふわりと宙に浮きました。脚を洗い続けていた汚水から出ると、たちまち黒い服が現れて、裸の体を包みます。胸元が大きく開き、裾を長く引いたドレスには、闇より黒い宝石が無数に縫いつけられて光っていました。

「待っていなさい、勇者のガキども。いっそひと思いに殺してくれ、と泣きわめくような、そんな素敵な経験をさせてあげることよ」

 そう言って、ほほほ、と紅い唇で笑うと、魔女は下水路から姿を消しました。

 後には暗がりだけが残ります。悪臭と汚泥に充ちた場所で、ただ虫と小動物がうごめき続けていました。

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