次の朝、フルートは立派な宿を後にして、また旅を続けました。
案の定、宿代はかなり高かったのですが、水盤に映った渦巻く霧と影のことで頭がいっぱいだったフルートは、気にもとめずに支払いをすませました。
霧で薄暗い街道を進みながら、フルートはなおも考え続けました。
黒い霧の源にあったあの丸い影はいったいなんでしょう? この霧は国の南から湧き起こっていると国王は言っていましたが、いったいそこで何が起こっているというのでしょう? そして、あの音の正体は?
そんなことを考えていると、フルートは霧が発生する南へ駆けつけたい気持ちになりました。あれを放っておくのは危険だ、と占者のユギルが言っていましたが、フルートもまったく同じ気持ちでした。時間がたてばたつほど危険は大きくなっていく気がします。
けれども、フルートは今、南ではなく北へ旅をしているのです……。
ぼくひとりででも南へ行った方がいいんじゃないかな、とフルートは考えました。
仲間を捜している間に、手遅れにならないだろうか。今すぐ南に向きを変えて、霧の源へ行かなくちゃいけないんじゃないかな……。
とうとうフルートは馬の足を止めました。迷いながら今来た道を振り返ります。
すると、そちらからたくさんの蹄(ひづめ)の音が聞こえてきました。馬に乗った人が集団でこちらに近づいてくるのです。まもなく霧の中からこんな声が伝わってきました。
「本当に大金を持っているんだな?」
「ああ、金貨で支払ってた。金持ちの貴族のガキだ」
「ほんの子どもだ。道連れはいない。チョロいもんだぜ……」
フルートは、はっとしました。自分のことを言われているのだとわかったのです。
こんな話をするのがまともな人間のはずがありません。フルートは急いで道の横の木陰に隠れると、鞍から下りて馬の口を押さえました。
やがて霧の中から現れたのは、馬に乗った五人の男たちでした。見るからに乱暴そうな顔つきをしていて、腰には剣を下げています。この街道を根城にしている盗賊団でした。
フルートは宿の客引きがやたらと「安心です」と繰り返していたのを思い出しました。実はこの北の街道では、黒い霧に紛れて盗賊たちが町の中にまで現れるようになっていたのです。盗賊は警備兵がいる町中では騒ぎを起こしません。宿や店を品定めするふりをしながら、獲物になりそうな金持ちに目をつけては、町から出たところで襲いかかっていたのです。
フルートは息を殺して、じっと隠れ続けました。盗賊団はフルートに気づかずに目の前を通り過ぎていきます──。
ところがそのとき、ふいにフルートの馬がぶるるっと鼻を鳴らしました。押さえつけられているのが、鬱陶しく(うっとうしく)なったのです。
たちまち盗賊団は立ち止まりました。
「そこにいるのは誰だ!?」
どすの利いた声が響きます。
フルートは唇をかむと、馬を木陰に残して街道に出て行きました。
とたんに盗賊たちから、どっと笑い声が上がりました。
「獲物が自分からこっちに来てくれたぞ! おかげで手間がはぶけたわ!」
「こんなチビなのか。なるほど、こりゃ朝飯前だ!」
盗賊たちはフルートがあまり幼いのですっかり油断していました。武器も構えずに笑い続けています。
フルートはロングソードを抜くと、身を低くました。
「おうおう。いっちょ前にやる気だぞ、このぼっちゃん。俺たち五人も相手に何をしようって言うんだ?」
と盗賊がまた笑います。
フルートは飛び出すと、五人の中で一番偉そうな男の馬に切りつけました。
ヒヒヒヒーーン!!
馬は後足立ちになって背中の男を振り落としました。
「お頭!」
他の四人がいっせいに声を上げます。やはり盗賊の首領だったのです。
フルートは素早く首領に駆け寄ると、その首に剣を突きつけて言いました。
「離れろ! 近づいたらこいつの命はないぞ!」
完全に油断していた盗賊たちは顔色を変えました。まさかこんな子どもに隙を突かれるとは思っていなかったのです。首領は冷や汗を流しながら、子分たちに離れるよう合図をしました。子分たちは数歩下がって馬から下ります。もう誰もフルートを笑っていません。
「馬を追い払え」
とフルートはまた言いました。子分たちは今度はすぐには従いませんでしたが、フルートが剣の先を首領にぐっと近づけると、舌打ちをして自分の馬の尻を叩きました。馬たちはいななき、街道をどこかへ走っていってしまいました。
これで盗賊たちは馬で追ってくることができなくなりました。フルートが馬で逃げれば、盗賊たちを振り切ることができます。
フルートは自分の馬がいる木陰に、ちらりと目をやりました。
そのとたん。
盗賊の首領はしゃがみこんで剣の切っ先をかわすと、フルートの体をむんずとつかみました。そのまま高々と持ち上げます。
「わぁぁぁっ!!!」
フルートが悲鳴を上げると、首領が笑いました。
「こんなチビ助に不覚をとるなんぞ、北の盗賊団の名折れだ。この俺様に剣を向けた代償は高いぞ。思い知れ!」
首領はフルートを思い切り投げ飛ばしました。ガシャン!! と派手な音がして、フルートの小さな体が石畳の道に叩きつけられます。そこへ、いっせいに子分たちが剣を振り下ろしました。
ガシャ、ガシャ、ガキーン!
堅い音と共にどよめき上がりました。
「馬鹿な! 剣が折れたぞ!?」
彼らはフルートの鎧の隙間を狙って剣を繰り出したのですが、まるでそこも強固な鎧でおおわれているように、刃がはじかれて折れてしまったのです。フルートの顔を狙った剣は、フルートがとっさに腕でかばったので、籠手(こて)に当たって、まっぷたつになっていました。フルートが身につけているのは魔法の鎧です。あらゆる衝撃や攻撃から全身を守ってくれるのでした。
フルートは跳ね起きて、落ちていた自分の剣を拾いました。低い姿勢でまた身構えます。
「な、なんだ、こいつ……!?」
男たちは後ずさりました。地面にたたきつけられても応えた様子がないフルートを、気味悪そうに見つめます。
フルートは改めて敵を見渡しました。一対五、しかも相手は大人です。敵の剣は折れていますが、手を抜けば間違いなくこちらがやられます。
「思いきりやるしかない」
とつぶやくと、フルートは飛び出していきました。風のように駆け抜けながら盗賊の腕や体に切りつけ、飛びかかってくる敵を素早くかわして、また切りつけます。大人顔負けの剣さばきでした。ゴーリスと剣の特訓をしてきた二ヶ月間は伊達ではなかったのです。
街道はたちまち男たちのうめき声でいっぱいになりました。
すると、フルートの背中に大剣が振り下ろされてきました。首領の刀だけは無傷だったのです。
フルートは振り向きざま剣で受け止めました。
「よくもよくも、小僧!」
首領は歯ぎしりしました。
「これほどコケにされて我慢できるか! 貴様をその鎧の中から引きずり出して、細かく刻んで犬の餌(えさ)にしてやる!」
首領の剣がじりじりとフルートを押してきました。剣技は優れていても、フルートはまだ小さな子どもです。力で大人にかなうはずはありません。
フルートは急に剣の力を抜きました。首領がつんのめってバランスを崩した隙に、大きく飛び退いて、また剣を構え直します。
ところが、その背後に子分が忍び寄っていました。いきなりフルートをはがいじめにします。
「しまった!」
フルートは腕をふりほどこうとしましたができませんでした。動けなくなったフルートの前に首領が立ちます。
「手こずらせやがって。死ね、小僧!」
大剣がフルートの顔を狙って振り下ろされます。
フルートはとっさに顔をそむけましたが、かわしきれませんでした。刃が右の頬を切り裂き、血が噴き出します。
「ざまあみろ! とどめだ!」
首領は笑ってまた剣を振り上げましたが、すぐに顔つきを変えました。
「なんだ? どういうことだ……?」
首領の目の前でフルートの顔の傷がふさがっていったのです。血が止まり、傷の奥から肉が盛り上がって健康な皮膚がおおっていきます。あっという間にフルートの顔からは傷が消えてしまいました。傷の痕さえ見あたりません。
首領は青くなって後ずさりました。
「お、おまえはなんだ……何者だ? まさか、闇の怪物か……?」
その声に子分たちも顔色を変えてしりぞきました。フルートを後ろから捕まえていた男は、放り出すようにフルートを放して飛びのきます。
闇の怪物は暗がりと共に現れて人に襲いかかり、生き血をすすり、肉を食らい、骨までしゃぶり尽くします。突いても切ってもすぐに治ってしまうので、人間には殺すことができないと言われているのです。
フルートの顔の傷が治ったのは、もちろん魔法の金の石のおかげでしたが、盗賊たちが誤解しているので、フルートはとっさに機転を利かせました。
「そうだったら、どうするのさ?」
と意味ありげに、にやりと笑って見せます。傷はふさがっても顔はまだ血まみれのままです。
盗賊たちは完全に顔色を変えました。人を殺すことも何とも思わない悪党どもですが、案外迷信深くて、闇の生き物を心底恐れていたのです。
「ひ、退け! 退くんだ!」
と首領は声を上げました。
子分がピーッと口笛を吹くと、盗賊たちの馬が街道を駆け戻ってきました。合図があれば戻ってくるように仕込まれていたのです。悪党どもは馬に飛び乗り、つむじ風のように逃げ去りました。
「ふう……」
フルートは道の上に座りこみました。魔法の鎧と金の石のおかげでどうやら助かりましたが、膝にぐったりともたれかかると、しばらくは身動きもできませんでした。
生まれて初めて経験した本物の戦闘は、剣を寸止めする稽古とはわけが違いました。今さらになって、体中が震えるような恐怖が襲ってきます──。
けれども、フルートはまた目を上げて、南の方角を見ました。そこでは黒い霧が湧き出し、得体の知れない闇が深まっています。
フルートは手の中の剣を見つめ、すぐに頭を振りました。
「今はまだ駄目だ……」
ただの盗賊相手にこんなに苦戦しているようでは、霧の源の邪悪なものと戦うことなど、できるはずがありません。フルートはまだ小さな子どもです。どうしても強い仲間が必要でした。
「よし」
フルートは心を決めると、顔の血を拭って立ち上がりました。剣を収め、木陰から馬を引き出してまたがると、再び北の峰目ざして進み始めます。
そして、それからというもの、フルートは鎧の上から自分の旅のマントを着るようになりました。輝く銀の鎧はいかにも目立つので、それを隠そうとしたのです。宿に泊まるときも、分相応の安宿に泊まるようにしました。
やがて、旅を続けるうちに鎧は埃(ほこり)にまみれ、フルートが貴族の子どもに間違われることはなくなりました……。