飛びすぎる鳥の大群を見送った三十分後。
帰宅したフルートは、家の前に何人もの大人が集まっているのを見て、目を丸くしました。
フルートの家は町はずれに建っています。家のすぐ向こうはもう荒野で、はるか彼方には夏でも雪をいただく山脈が見えます。街道から少し離れているので、用事がなければ、めったに人も通らないような場所なのです。
よく見ると、大人たちは家の中にもいて、せわしなく出入りしながら何かを話し合っていました。みんな町の人たちでした。何かが起きたのに違いありません。
フルートは急に不安になって走り出しました。家の中にはお母さんがいたはずです。お母さんに何かあったのでしょうか……。
そこへ、家の中からよく知っている人が出てきました。お父さんの仕事仲間のおじさんです。フルートはおじさんに飛びつきました。
「何かあったんですか!? お母さんがどうかしたの!?」
おじさんは普段は陽気で冗談ばかり言うような人でしたが、このときには眉の間に深いしわを寄せてフルートを見ました。まるでどこかが痛むような顔で答えます。
「お母さんじゃないよ。君のお父さんだ。落馬して牛に踏まれたんだよ」
フルートは立ちすくみました。
フルートのお父さんは牧童で、数人の仲間と一緒に牧場でたくさんの牛を飼っています。口数はあまり多くないけれど、いろいろなことをよく知っている優しいお父さんです。乗馬も上手で、馬から落ちるなんてことは考えられないのに……。
すると、おじさんは話し続けました。
「さっき、空をものすごい数の鳥が飛んでいっただろう? あれに牛たちが驚いていっせいに走り出したんだ。お父さんはそれを止めようとして、馬から振り落とされたんだよ」
フルートは弾かれたように家に飛び込んでいきました。
家の中には近所のおじさんやおばさんたちがいましたが、皆、フルートを見てなんとも言えない顔つきになりました。その表情がお父さんの怪我のひどさを物語っています。フルートは大急ぎで奥の部屋に駆け込みました。
部屋は窓を閉めたうえにカーテンも引かれて薄暗くなっていました。部屋中、薬の匂いでいっぱいです。
奥のベッドにお父さんが寝かされていました。苦しそうなうめき声が絶え間なく聞こえてきます。
その枕元にフルートのお母さんが座り込んでいました。両手で顔をおおって泣いているようです。お母さんと仲がよい近所のおばさんが、心配してそばについています。
部屋にはお医者様もいて、牧童頭のおじさんを相手に話していました。
「とにかくひどい状態だ。何十頭もの牛に蹄(ひづめ)で踏まれて、体中の骨が折れている。おそらく内臓もめちゃくちゃだろう。だが、この町に魔法医はいないからな。わしにできるだけの手当はしたんだが、正直、助かる見込みは――」
医者はそこまで言って首を横に振りました。
牧童頭のおじさんは手で目をおおってうつむいてしまいます。
フルートは震えながらベッドに近づきました。
お父さんは頭も体もたくさんの包帯で巻かれていました。包帯には血がにじんでシーツまで汚しています。包帯の隙間からのぞく顔には赤黒いあざがあって、腫れたまぶたが片目をふさいでいました。うめき声の合間に苦しそうに息を吸っていますが、それも切れ切れで、今にも止まってしまいそうです。
フルートはベッドの端を固く握りしめました。涙があふれそうになるのを、歯を食いしばってこらえます。
お父さんは重体です。この状態からお父さんを助けられるのは、お医者様の言うとおり、魔法医しかいないでしょう。でも、魔法医はここから馬で二日もかかる大きな街まで行かないといないのです。呼びに行っても戻ってくるまでに丸四日かかります。それまでお父さんが持たないことは、火を見るより明らかでした。
どうしよう……とフルートは必死で考えました。
このままじゃお父さんが死んでしまう。誰かお父さんを助けられる人はいないんだろうか? 怪我を治す特効薬はないんだろうか?
どうしよう、どうしよう。誰か、何か……。思いがぐるぐる駆けめぐりますが、何も手だてが思いつきません。不安が胸にせり上がってきて、息が苦しくなってきます。誰か助けて! と大声で叫びたくなります。
すると、さっきジャックたちに話した言い伝えが、唐突に頭の中に浮かんできました。
『魔の森の主は人間を憎む。許しなく森に足を踏み入れた者は、魔法にとらわれて気が狂い、獣に八つ裂きにされ、闇の怪物に骨の髄までしゃぶられる。』
――ここまではジャックたちにも語ったことです。でも、この言い伝えにはまだ続きがありました。
『けれども、森の怪物たちに討ち勝って、泉のほとりから魔法の金の石を得たものは、金の石の勇者と呼ばれるだろう。金の石は癒しの石。どんな怪我でも病でも、たちどころに治す魔法の力を持つ。』
フルートは、はっとしました。自分が思いついてしまったことに目眩(めまい)がして、足ががくがく震え出します。
魔の森の恐ろしさは、シルの住人なら誰もがよく知っていました。森のそばに近寄っただけで禍々しさが伝わってきて、怖くて森のほうへ進めなくなるのです。たまに森から這い出した怪物が町に迷い込むこともありました。そんなとき住人は家の戸や窓を固く閉じ、ありったけの魔よけを家の中に置いて、怪物が通り過ぎていくまでひたすら祈るのです。
でも……
フルートはベッドでうめき続けているお父さんを見ました。どんな怪我でも病気でも、たちどころに治すという魔法の石。お父さんを助けるには、それを取ってくるしか方法がないのです。胸の内がすうっと冷たくなって、すぐに熱いものがこみ上げてきます。
フルートは唇をかみしめると、苦しそうなお父さんを見つめました。
お父さん、待っててね。ぼくがきっと助けてあげるから……。
心の中でそう言うと、フルートはそっと部屋を抜け出しました。
隣の居間にはたくさんの大人たちがいました。近所の人やお父さんの仕事仲間が、洩れ聞こえてくるうめき声に沈痛な表情で黙り込んでいます。
フルートは大人たちの間をすり抜け、扉代わりの布をくぐって台所に入っていきました。
幸いそこには誰もいなかったので、フルートは急いであたりを見回しました。魔の森には怪物がいっぱいいます。何か武器と防具になるものが必要でした。
居間にはお父さんが仕事で使うナイフや小刀をしまった戸棚があります。でも、それを取りに行けば、大人たちに「どうするつもりだ」と聞かれて、魔の森に行くことを止められてしまいます。
フルートは少し考えてから、お母さんが使う料理用のナイフと、家で一番頑丈な鍋の蓋(ふた)を取りました。鍋の蓋は金属製で、取っ手を持つと盾のように使えそうだったのです。上着のポケットには火打ち箱とランプ用の油の小瓶をねじ込みます。
武器になりそうなものはそれで全部でした。フルートは鞘(さや)の代わりにナイフを布でくるんで腰のベルトに差すと、鍋の蓋は手に持って、こっそり裏口から家の外に出ていきました。
家の裏には、お父さんの愛馬のブランがつながれていました。お父さんはブランから振り落とされて大怪我をしたのです。そのことがわかっているのでしょう。ブランはしょんぼりたたずんでいました。
フルートはブランに近づいて言いました。
「ぼくを魔の森まで連れて行ってくれ。お父さんを助けるために、魔法の金の石を取ってくるんだ!」
一分後、フルートは馬にまたがり、魔の森目ざして全速力で荒野を駆けていました――。