ハロルド王子はロムド城の客室に戻ると、がっくりと長椅子に座り込んでしまいました。
同じ部屋には母のメイ女王もいて、侍女や家臣に明日の出発の指図(さしず)をしていましたが、息子が座り込んだまま身動きしないのを見ると、人払いをして話しかけました。
「その様子では、メーレーン姫から断られたか、ハロルド」
女王の口調は明快です。
王子はうなだれたままうなずきました。
ふむ、と女王は言うと、豪華なドレスを引いて息子の前に来ました。椅子に座ってからまた言います。
「だからまだ時期尚早じゃ、と止めたであろう。ロムドの王女は確かにメイ王妃の候補にふさわしいが、あの姫が本気で結婚を考えるのは、まだまだ先のことじゃ」
母に責められて、王子は両手に顔を伏せました。うめくように言います。
「いいえ、母上。メーレーン姫にはすでに心に決めた方がいらしたのです。私は失恋してしまいました」
メイ女王は意外そうな顔になりました。
「メーレーン姫の想い人は誰じゃ。名前は聞いたのか」
「いいえ。でも、私にはわかってしまいました。姫は私と話している間じゅう、何度もその人物のことを言っていましたから。勇者様、勇者様、と」
実際には、メーレーン王女は「勇者様」ではなく「勇者様たち」と複数形で言っていたのですが、王子はそんなふうに勘違いをしました。王女は金の石の勇者のフルートを好きなのに違いない、と思い込んで、ひどく落ち込んでいたのです。
ふむ、と女王はまた言いました。手にした扇子を口元に当てると、そっとつぶやきます。
「本当にフルートが姫の想い人であれば、ハロルドにもまだ可能性はあるがの。さて……」
女王はフルートに寄り添うポポロを思い出していたのです。けれども、そのひとりごとはとても低かったので、ハロルド王子には聞こえませんでした。長椅子で背中を丸めて、落ち込み続けています。
女王はそんな息子をしばらく見つめると、ざっとドレスの音を立てて立ち上がりました。扇子の先を息子に向けて言います。
「見苦しや、ハロルド! 未来のメイ王がそれしきのことで意気消沈してどうする!? 頭をしゃんと上げよ!」
厳しい声に王子は両手の間から目だけを上げました。母を上目遣いで見ながら言います。
「相変わらず母上はお厳しい……」
「そなたが気弱なだけじゃ! 求婚相手に断られたくらいで落ち込んでいて、将来メイを守る強い王になれると思うか!?」
けれども、王子はまた顔をおおってうつむいてしまいました。無理もありません。ハロルド王子はまだ十四歳。しかも、メーレーン姫は王子が初めて好きになった女性です。何日も悩んだあげく、ようやく勇気をふるって告白をしたのに、たちま玉砕してしまったのです。
「話にならぬ」
と女王は息子から離れていきました。呼び鈴を振って家臣たちをまた呼び寄せようとします。
すると、ハロルド王子が急に言いました。
「母上に伺いたいことがあります」
女王は呼び鈴を鳴らすのをやめて振り向きました。王子が真剣な顔で見つめていることに気づくと、王子に向き直ります。
「なんじゃ」
「母上と父上のことです。亡くなった父上は、母上以外にも側室や愛妾をお持ちでした。子どもは、私と姉上以外には生まれませんでしたが……。父上が他の女性にも好意をお持ちになっていたことを、母上はどのようにお感じだったのですか?」
メイ女王はひそかにとても驚きました。ひ弱で母に口答えも反抗もしてこなかったような息子が、こんな質問をぶつけてきたのは、初めてのことだったのです。無礼者! と叱り飛ばそうかとも考えますが、息子が食い入るように自分を見つめているので、思い直して言いました。
「そんな話を聞いてどうするつもりじゃ」
「母上は長年姉上を邪険になさっていた――私の目にもそのことははっきりとわかりました。それは父上が愛妾のほうを大事にしているからだ、という噂もしばしば聞かされました。それは本当だったのではありませんか? 母上は、ネラ殿を妬んでいたから、姉上に冷たく当たられたのではないのですか?」
ハロルド王子はメイ女王を責めるような口調になっていました。失恋に落ち込む軟弱者、と母に叱られたので、あなただって同じでしょう、と逆襲しているのです。
メイ女王は扇の陰で薄く笑いました。まだまだ子どもじゃ、と心の中でつぶやいてから答えます。
「口さがない者たちはそのように噂していたようじゃな。だが、それは違う。わらわがエミリアを公式の場から遠ざけていたのは、純粋に、エミリアがメイにとって脅威の存在だったからじゃ。そなたが病弱だったために、エミリアを次の女王に据えようと企む者たちが次々に出てきておった。エミリアに荷担する者が増えれば、メイ王室は転覆したかもしれぬからな。それに、誤解のないように言うておくが、陛下に側室や愛妾を持つように、とお勧めしたのは、このわらわじゃ。わらわが提言したことで、どうして嫉妬や恨みなどするであろう」
ハロルド王子はびっくりしました。思わず聞き返してしまいます。
「父上に愛妾を勧めたのは母上だったのですか!? 何故!?」
メイ女王はまた息子の前に座りました。
「良い機会じゃ。そなたに改めて王の務めというものを教えよう。王の役目とはなんじゃ。言うてみよ」
え……と王子は面くらいました。今ここで何故それを聞かれるのか、理由がわかりません。
「王の役目とは、もちろん、国を敵から守り、国益を得られるように正しい政(まつりごと)を行うことですが……」
とまどいながらそう答えると、女王はまた言いました。
「それは王の役目の半分じゃ。残り半分の役目を言うてみよ」
残り半分? と王子はいっそうとまどいました。王は国を守り、国を豊かにする――それ以外の役目などあっただろうか、と考えます。
すると、女王は閉じた扇子で、とん、と王子の目の前のテーブルを突いて言いました。
「一人の王が王位に就いて政をおこなえるのは、どんなに長くても五、六十年が限界じゃ。もっと長期間、王座に座り続ける王もいるが、ただ座っているというだけで、まともな政治とは言えなくなる。だが、国というものは、もっと長い年月存在し続ける。人は八十年程度しか生きられぬが、国は何百年何千年も生きるのじゃ。優秀な王の政治が五十年で終わったとしたら、その後はどうなる? 五十年の栄華の後に、混乱と悪政の時代がやって来て、その国は滅びるであろう。――王のもう一つの大きな役目は、正当な世継ぎをこの世に残すことじゃ。自分の国と政治を継承してくれる者を、この世に生み残さなくてはならぬ。それが王の務めじゃ」
女王の強い口調に、王子は圧倒されていました。皇太子ならば知っていて当然のことだったのですが、幼い頃から病気で寝込んでばかりいた彼は、帝王学というものをまだ充分学んではいなかったのです。
そんな王子に、女王は話し続けました。
「そなたもそうであったが、陛下も病弱な体であられた。王の務めとして子を残そうとしても、なかなか子ができなかったのじゃ。わらわがメイに嫁いで十年が過ぎても、わらわはいっこうに子に恵まれなかった。だから、陛下に側室や愛妾を持つようにお勧めしたのじゃ。それが王の務めであるから、と言うてな。それから間もなく、愛妾のネラが身ごもり、エミリアを出産した。初め、ネラは男児を出産したと言うたので、国中がその嘘にだまされたがな――。その三年後、わらわも身ごもり、そなたを出産した。そなたが男であったので、自動的に次の王はそなたに決まったが、そなたが生まれなかったとしたら、わらわはエミリアを次のメイ王として王座に据えたであろう。メイは歴史のある国じゃ。我々の代で国を終わりにして良いはずはない。国を乱すことなく導ける者があれば、それが正妻の子でも側室や愛妾の子でも、なんら問題はないのじゃ」
母にきっぱりと言い切られて、王子は何も言えなくなってしまいました。母は父が生きていた頃から、病床の王に代わって国を治めてきた女性です。経験でも精神的な強さでも、わずか十四歳の王子がかなうはずはなかったのです。
女王はまた王子の前から立ち上がりました。しょんぼりとうなだれてしまった息子へ話し続けます。
「陛下が側室を持って平気だったのか、とそなたは尋ねたな。その答えは今話した通りじゃ。それに、わらわは陛下の后で、しかも陛下から全面的にメイの政を任されておった。陛下の周囲には美しい女性も芸事に秀でた女性も大勢いたが、これほど陛下から信頼された女は、わらわの他にはいなかった。わらわは陛下から『信頼』という宝をいただいていたのじゃ。しかも、わらわは世継ぎのそなたにも恵まれた。これ以上、何を望むことがあろう」
メイ女王は、いつの間にか意外なほど穏やかな声になっていました。窓の外に向けられた目は、空よりもっと遠いものを見上げています。
ハロルド王子は思わず言いました。
「母上――母上はやっぱり父上を愛していらしたのですね!?」
メイ女王は扇の陰でまた笑いました。
「世俗で言われる愛や恋というものをわらわは知らぬ。知っているのは、陛下がわらわにメイを託したことと、そなたが成人して王となる暁まで、メイを守り続けていくということだけじゃ。わらわはそれまでの間のメイ女王なのじゃ」
女王の声に自分を偽る響きはありません。
開け放った窓から涼しい夜風が吹き込んできました。暗い夜空では三日月が輝いています。
その月の下にあるメイの国を、女王ははるかに見つめ続けていました――。
The End
(2014年12月25日初稿/2020年4月21日最終修正)