夏の夕暮れ。
日が沈んでもまだ明るいロムド城の中庭を、薔薇色のドレスの少女が侍女と犬を連れて散歩していました。ロムド国王の末娘のメーレーン王女です。
日中の暑さは日暮れと共に引いて、木々の間を涼しい風が吹き渡っていました。庭にたくさん植えられている薔薇は、夏の間は花が見られなくなりますが、代わりに青いツリガネソウや白いオダマキが夢のように群れ咲きます。日中、用もないのに城を訪れていた貴族たちも、この時間には自分の屋敷に引き上げていくので、中庭にほとんど人はいませんでした。王女は気持ちよさそうに散歩を続けています。
すると、ぶち犬が急に前に出てワン! とほえました。遊歩道の行く手からこちらへ誰かが歩いてきたからです。
王女はたしなめました。
「だめですわ、ルーピー。何もしていない人にほえかかるのは、いけませんわよ」
すると、行く手からも声がしました。
「そのお声はメーレーン姫ですか?」
遊歩道に垂れ下がる銀柳を押しやって姿を現したのは、王女と同じ年頃の少年でした。立派な服を着て、赤みがかった茶色の髪をきちんと切りそろえています。
王女はにっこりしました。
「まあ、ハロルド王子もお散歩中でいらっしゃいましたの? メーレーンと一緒ですわね」
屈託のない姫は、自分自身を名前で呼びます。
王子もつられて笑顔になりました。
「いえ、おかげさまで母上も回復されたので、明日メイに帰ることにしたのです。ひと言ご挨拶さしあげたいと思って、メーレーン姫を探していました」
ハロルド王子は隣国メイの皇太子、その母はメイ女王と呼ばれる人物です。一部の人々から「二人の軍師の戦い」と呼ばれるようになった戦争で、女王は人質にされ、一時は命も危ないほど衰弱しましたが、金の石の勇者たちに救出され、戦争が終わってからはロムド城で体力が戻るのを待っていたのでした。
まあ、とメーレーン王女はまた言いました。今度は少し残念そうな声でした。
「国にお帰りになってしまうのですね。女王陛下が回復されたのは嬉しいことですが、ハロルド王子とお目にかかれなくなるのは、ちょっと淋しゅうございます。ハロルド王子は薔薇についてよくご存じでしたから、メーレーンは一緒にお話ししていて、とても楽しかったのですわ」
ハロルド王子はすぐには返事をしませんでした。
プラチナブロンドの巻き毛に大きな瞳の王女をじっと見つめてから、静かに言います。
「姫と、少しの間、二人きりでお話ししたいのですが。あちらの東屋(あずまや)へまいりませんか?」
「お話? なんでしょう」
メーレーン王女がすぐに王子と歩き出そうとしたので、侍女が前に飛び出してきて両手を広げました。
「だめだよ、姫様! 人気のない夜の庭で殿方と二人きりなんてさ! いくらメイの王子様だって危険だよ!」
侍女は子どものように小柄でしたが、顔や体つきはれっきとした大人の女性でした。つややかな黒い肌に縮れた黒髪、生き生きとした黒い瞳と大きな口――赤の魔法使いの許嫁(いいなづけ)のアマニです。
アマニに止められて、メーレーン王女は、きょとんとした顔になり、ハロルド王子は苦笑いをしました。
「失礼な真似はしません。ただ、少し二人だけで話したいことがあるだけです。心配ならば、私たちが見える場所にいてください」
でも――とアマニは口を尖らせましたが、メーレーン王女がハロルド王子と歩き出してしまったので、しかたなく後に残りました。東屋がよく見える場所に走っていくと、腕組みをして見張り始めます。
ぶち犬のルーピーは、王女が残れと命じなかったので、一緒についていきました。二人が東屋に到着すると、ベンチに座った王女の足元にうずくまります。
日暮れの空から次第に明るさは消えて、あたりは薄暗くなり始めていました。アマニが心配するのも当然な状況になっているのですが、メーレーン王女は少しも不安そうではありませんでした。薔薇色のドレスの上で両手を組んで、ハロルド王子の話を待っています。
その無邪気な素直さに、王子はまた笑顔になりました。おもむろに話し出します。
「私が救援を求めてロムド城にやってきたのは、一ヶ月あまり前でした。当時、メイはロムドと対立していたのに、メーレーン姫は私を疑うこともなく歓迎してくださった。あのときの嬉しい気持ちは今でも忘れられません。その後、金の石の勇者たちはすぐに救援に向かってくれましたが、母の無事がわかるまで、私は毎日、本当に不安な気持ちでいました。心配と重圧で押しつぶされそうになっていた私を救ってくださったのも、メーレーン姫だったのです。毎日、姫と一緒に散歩しながら花や犬の話をすることが、私にとってどれほど慰めになったか……。姫にはどんなにことばを尽くして感謝をしても感謝しきれません。本当に、ありがとうございました」
王子に心からそんなふうに言われて、王女はにっこりしました。
「女王陛下やハロルド王子をお助けしたのは勇者様たちですわ。メーレーンはただ、ハロルド王子のお話を聞くのが楽しかっただけです。でも、メーレーンがいることが少しでも慰めになっていたのなら、メーレーンは本当に嬉しゅうございます」
愛らしい王女の笑顔に王子は思わず顔を赤らめました。意を決したように切り出します。
「実は姫にひとつお願いがあるのです。聞いていただけますか?」
「はい、なんでしょう?」
と王女は笑顔のままで聞き返します。
王子は居ずまいを正しました。
「私は明日メイへ出発しますが、メイに帰って城と国が落ち着いたら、正式に求婚の書状を送りたいと思っているのです。お受けいただけるでしょうか」
王女はきょとんとしました。
「求婚?」
と繰り返し、しばらく考えてからまた言います。
「どなたに?」
「もちろんメーレーン姫にです!」
とハロルド王子は力を込めて答えました。まだよく飲み込めずにいる王女へ、身を乗り出して話し続けます。
「もちろん、年齢的にまだ少し早いことは承知しています。メーレーン姫も私も、まだ十四歳ですから。今すぐの話ではないのです。でも、姉上はゆくゆくはこのロムド王妃になります。メーレーン姫が私の后になって、未来のメイ王妃になってくだされば、両国の結びつきはよりいっそう強くなって、未来は明るくなると思うのです。国に戻ったら、姫へ書状を送ります。どうか受け取って、私と結婚を約束してください」
王子はこれまでなかったほど熱心に話していました。婚約は書状が届いてからのことになるのですが、その前に結婚の約束を取り付けておこうと、一生懸命だったのです。
メーレーン王女は東屋のベンチに座り、膝の上で手を組んだまま、首をかしげて考え込んでいました。足元のルーピーが、王女と王子の顔を交互に見上げています。
ずいぶん長いこと考えてから、メーレーン王女は口を開きました。何故か今の話題とはまるで関係ないようなことを話し始めます。
「今はもう日が暮れて夜になりましたけれど、明日の朝になれば、東から朝日が昇ってまいります。メーレーンはいつもお城の中にいるので、なかなか夜明けを見る機会がないのですが、以前、勇者様たちとザカラスからロムドへ旅をしたときに、朝日が空に上ってくる様子を見ました。暗かった空が薔薇色になって、そこへ金色の太陽が昇ってくると、空はみるみる青くなり太陽は白く変わりました。とても不思議だと思っていたら、勇者様たちが『朝日は何万年も前からこんなふうに昇ってきたし、これからだって、朝が来るたびにこんなふうに昇ってくるんだ』と教えてくださったんです――。だから、メーレーンがメイの王妃になってもならなくても、明るい朝はまいります。大丈夫、未来になっても、世界はきっと明るいままですわ」
王女ににっこりほほえまれて、王子はあわてました。
「い、いえ、未来は明るくなると思う、と言ったのはそういう意味ではなくて――」
すると、王女は笑顔のまま首を振りました。
「メーレーンはハロルド王子様を尊敬しております。メーレーンと同じお歳なのに、王子様は難しいことをたくさんご存じだし、礼儀正しくてお優しいし。メーレーンよりずっと年上でいらっしゃるみたいです。メーレーンでなくても、王子様にはすばらしいお后様がきっと見つかりますわ。メーレーンはそう信じております」
それは求婚を断る返事でした。こんなにあっさりふられるとは思っていなかった王子は、唖然としてしまいました。薄暗くなっていく東屋の下で、相変わらずほほえんでいる王女を見つめ、ふいに思い当たって聞き返しました。
「メーレーン姫にはお好きな方がいらっしゃるのですか!?」
「はい」
これまた意外なくらいあっさりと、王女はうなずきます。
それは誰ですか!? と王子は重ねて尋ねようとして、さすがに思いとどまりました。そこまで聞くのは失礼になる、と気がついたのです。
それでも、どうしても気になるので、こんなふうに尋ねました。
「姫とその方は想いが通じ合っていらっしゃるのですか? えぇと……もう結婚の約束はされたのですか?」
「いいえ」
王女の返事はあっけないほど明確です。ただ、そう言ってから、笑顔を伏せて続けました。
「だって、メーレーンの片思いですから」
ハロルド王子はそれ以上、何も言うことができなくなりました。王女が足元のぶち犬を抱き上げ、優しい手つきでなでるのを見つめてしまいます。その犬が、ザカラス国のトーマ王子の飼い犬だと言うことを、ハロルド王子は知りませんでした――。