石造りの広い地下室の真ん中に、井戸がありました。
ロムドの王都ディーラに建つ教会の中です。一歩外に出れば、人や馬車が通りを行きかい、店の主人が客を呼ぶ、賑やかな都が広がっていますが、そんな喧噪は教会には届きません。ましてここは地下です。世界から隔絶されたような静寂の中、井戸から水を汲む音だけが響いています。
キィキィキィキィ……
つるべと呼ばれる桶を引き上げるロープが、井戸の上の滑車を通りながら甲高い声をあげます。
地下室を照らしているのは、壁の上で燃える二つのランプだけでした。広い部屋を照らすには不充分な灯りです。
薄暗がりの中で水汲みをしていたのは、若い女性でした。白い修道女の長衣を着て、白いベールで髪をすっかり隠しています。痩せた手でつるべをたぐり続けます。
キィキィキィキィ……
井戸は深いので、つるべはなかなか上がってきません。
すると、修道女がつぶやきました。
「どうして……」
地下室にいるのは彼女一人きりでした。話し相手になる人間はいないのですが、彼女は言い続けました。
「どうして、私はここにいるんだ……? どうしてこんなことをしていなくちゃいけない……?」
焦りと怒りを含んだ声でした。声にあおられたように、ランプの炎が揺れて、井戸と修道女の影を揺らします。
彼女はもう、この作業を三時間以上も続けていました。かたわらには大きな手桶があって、それを水でいっぱいにするように言いつけられたのですが、水はまだほとんど溜まっていませんでした。
いつ終わるともしれない単調な仕事は、人をあれこれ考えさせます。彼女はつるべの長いロープを引きながら苛立ち、心の中で不満を言い続けていました。先ほどのつぶやきは、それがつい口から漏れ出てしまったものでした。
キィキィキィキィ……
滑車は耳障りな悲鳴を上げ続けていますが、つるべはまだ上がってきません。井戸の深さに苛立ちがいっそう増して、また心の中で、どうして? と考えてしまいます。
彼女は、物心ついたときにはもう修道院に預けられていました。規則のために修道院の外に出ることはできませんでしたが、そこ以外の場所を知らなかったので、特に不自由は感じませんでした。「あなたのその力は神から与えられたものなのだから、国と人々のために使いなさい」と周囲から言い聞かせられ、自分でもそう思って、来る日も来る日も熱心に修行を続けてきました。
ところが、いざ大人になって都にやってきてみると、彼女が必要とされるような場面はまるでありませんでした。それどころか、教会の司祭長からこんな単調な水汲みを言いつけられてしまったのです。私の人生はなんだったのだ!? と強い怒りがこみ上げてきます。
とたんに、つるべのロープが彼女の手を振り切って逆に動き出しました。
あっと引き留めようとしますが、つるべは止まりません。キキキキ……と滑車の音をたてながら逆走して、遠い水音と共に動かなくなります。つるべが井戸の底に沈んでしまったのです。
彼女は深い溜息をつきました。
頭を振って無理やり怒りを心の外へ追い出すと、できるだけ心を落ち着かせながら、またロープをたぐり始めます。
すると、背後からいきなり話しかけられました。
「どうしてつるべが上がってこないんだ? さっきから井戸に落ちてばかりいるじゃないか」
聞き覚えのない男の声に、修道女は飛び上がって驚きました。自分の考えに夢中になっていて、地下室に人が来ていたことに気づかなかったのです。思わずまたロープを手放して、背後を振り向きます。
そこにいたのは中年の男性でした。黒っぽい服の上に黒いマントをはおり、同じ色のフードをかぶっています。やはり彼女の知らない人物でした。聖職者の服や象徴も身につけてはいません。
「どなたです!? ここは教会の関係者以外は立ち入り禁止の場所ですよ!」
彼女は厳しい口調でとがめましたが、男は知らんふりで最初の質問を繰り返しました。
「さっきから見ていたんだが、しょっちゅうつるべを落としているじゃないか。いや、つるべが勝手に落ちていくのか。どうしてなんだ?」
修道女は確かめるように相手の顔を見ましたが、まぶかにかぶったフードの下からは、口ひげと顎ひげが生えた口元がのぞいているだけでした。それでも声に悪意は感じられなかったので、彼女は返事をしました。
「これは修行の井戸だからです。関係のない方は立ち入り禁止の場所です」
「人を探しているうちに入り込んだんだ」
と男は言いました。石造りの広い地下室に男の声がびんびんと響き渡るので、彼女は眉をひそめました。
「静かに願います。ここは我々聖職者の大切な場所なのです」
「修行の井戸だと、どうしてつるべが落ちるんだ?」
と男がまた尋ねてきました。彼女が何を言っても聞く耳持たずという感じです。
彼女は思わずまた溜息をついてしまいました。
「私に雑念があるからです……。この井戸には魔法がかかっています。雑念が多ければ、つるべは上まであがらずに落ちてしまいます」
「雑念とはどんな?」
と男は重ねて尋ねましたが、彼女はもう答えませんでした。見ず知らずの男に答える義務などなかったからです。もう一度井戸に向き直ると、今度は余計なことは考えずにロープをたぐって、やがてつるべを引き上げました。濡れた木桶をつかんで、かたわらの手桶に空けます――。
ところが、つるべの中に水はほとんど入っていませんでした。逆さにしても、ほんの数滴のしずくが手桶に落ちただけです。
男は驚いて声をあげました。
「水が入ってないじゃないか! どうしたんだ!?」
相変わらず男の声はよく響き渡ります。
修道女は顔をしかめて答えました。
「修行の井戸だからです。水はほとんど汲めないようになっています」
とつるべをひっくり返して男に見せてやります。木桶の底が板ではなく網になっていたので、男はますます驚きました。
「桶じゃなく、ふるいだったのか!? 何故そんなものを!? そんなもので水が汲めるはずがないだろう!」
彼女は皮肉っぽく笑いました。
「だから、修行の井戸なのです。手桶いっぱいまで水を充たすのに何日も、時には何週間もかかります。その間、つるべを引きながら神を思い自分を顧みて、敬虔(けいけん)と忍耐を学び、信仰を深めるのです」
すると男は少し考え込んでから、おもむろに聞き返しました。
「それで、その修行が何かの役に立つのか?」
彼女は、はっとすると、唇をかんでうつむきました。井戸の縁にのせておいたつるべが、ひとりでに井戸の中へ落ち、カラララ……と乾いた音を立てて地底の水に戻っていきます。
けれども、間もなく彼女はまた顔を上げました。意志の強さで自分の感情を抑え込んで言います。
「それが私に課せられたお勤めです。それより、人を探して迷い込んだ、とおっしゃいましたね。どなたを探しているのですか? 私はここから離れられないので、他の修道士に頼んで案内させますが」
「いいや、どうやらその必要はなさそうだ」
と男は謎のようなことを言うと、怪訝な顔をする彼女に、上のほうを示して見せました。
「今、この教会に城からの訪問団が来ていることは知っているか? 一番の責任者はリーンズ宰相だが」
「存じています」
と彼女は答えましたが、平静に返事をするのにかなり苦労をしました。また怒りを込めて井戸を眺めてしまいます。
本当は、彼女も気がついていたのです。これは修行などではなく、城からの賓客(ひんきゃく)が教会にいる間、彼女を客人の目につく場所から遠ざけておくための方便だということに――。
長年修行をしてきた修道院から、総本山に当たるディーラの教会にやってきて半年。その間、司祭長をはじめとする偉い方々は、彼女に何もさせようとはしませんでした。言いつけられたのは、日々の祈りとバター作りと畑の手入れ……他の修道女たちとまったく同じ内容の仕事です。
「私がここに来たのは、そんなことをするためではありません! 私はこの国と人々の役に立つために来たのです! どうか私を城に連れて行ってください!」
と彼女は幾度となく司祭長たちに頼みましたが、願いは聞き入れられませんでした。彼女は修道院の院長が宰相宛に書いた紹介状も持ってきていたのですが、司祭長に「渡しておこう」と取り上げられて、それっきりになっていました。
紹介状が司祭長の机の引き出しにしまわれていることを、彼女は知っていました。教会の上層部は、彼女を城に紹介するつもりなど、さらさらないのです。それどころか、口調が乱暴だ、態度が男のようでけしからん、とことあるごとに彼女を叱っては、きつい下働きの仕事ばかり言いつけてきます。
それでも、彼女はなんとか城へ行きたいと考え、周囲の反対を押し切って難しい神官の試験に挑み、みごと合格を果たしました。神官になればこの教会の司祭たちと立場が同じになるので、城への取り次ぎも頼みやすくなる、と考えたのです。
ところが、その期待もあっけなく裏切られてしまいました。司祭長から地方への異動を命じられたからです。
「ミナゴは小さな町だが、もう何年も教会の司祭が不在で、信者たちが大変な不安を感じながら暮らしている。ユリスナイ様のご意思だ。君にはぜひミナゴに行って、信者たちを守ってもらいたい」
そう話す司祭長は、言外に「おまえのようなものはディーラには必要ない」と宣言していました。総本山の教会の司祭長ににらまれれば、それに従うしか道はありません。彼女は渋々地方行きを承知しました。
ミナゴへの出発は、もう来週に迫っていました。残された時間はもうほとんどありません。それなのに、宰相の来訪という最後のチャンスにも、彼女はこうして人気のない地下で水汲みをしているのです――。
唇をかんで悔しさをこらえる彼女を、男はじっと見ていましたが、おもむろにこう言いました。
「人の命令や指図に逆らうこともしないで従うつもりかね? あなたは何のためにここに来たのだ? あなたの信じることを実現するためではなかったのか?」
彼女は、どきりとして男を振り向きました。フードの奥から見つめる灰色の瞳に、なんだか何もかも見透かされているような気がしてとまどいます。
すると、男は急に話題を変えてきました。
「ところで、あなたは強力な魔法を使える人を知らないだろうか? こともあろうに、城の魔法使いたちがディーラの一角で魔法戦争が始めようとしている。このままでは市民が巻き添えを食って大勢の死傷者が出るだろう。我々はそれを防ぎたいのだが」
とんでもない状況をさらりと聞かされて、彼女は何も言えなくなりました。彼が他でもない自分を探しに来たのだと気がついたからです。探し人が彼女だということを承知のうえで、男はじっと返事を待っています。
彼女はためらい、井戸を振り向きました。水がほとんど溜まっていない手桶を見て、弱々しく言います。
「わ――私は修行を果たさなくてはならないのです――」
すると男は小さく笑いました。
「それくらい、あなたには簡単ではないのか?」
彼女は首を振りました。
「水汲みの修行には魔法がかけられています! 魔法で水を汲むことはできないのです!」
頭を振ると修道女のベールがはためきます。
男は、はっきりと笑いました。楽しそうな口ぶりで言います。
「だから、あなたには簡単なはずだ、と言っているのだが」
彼女は絶句しました。この人は私のことを何もかも知っている、と直感して畏怖(いふ)の念を感じてしまいます。
けれども、彼女が迷ったのは、ほんの一瞬でした。
次の瞬間、彼女は井戸に手を向けて声高く言いました。
「私はユリスナイの意思を実現するために行く! 井戸よ、手桶を水で充たせ!」
そのとたん、誰も引いていないロープがガラガラと音を立てて動きだし、井戸の中からつるべが勢いよく跳ね上がってきました。井戸から飛び出し、自分から手桶に傾いて水を注ぎ込みます。つるべは底が網になっているはずなのに、中になみなみと水をたたえていました。しかも、いつまでたっても尽きることなく水が出てきて、すぐに手桶をいっぱいにしてしまいます。
男は満足そうにうなずきました。
「教会にかけられた強力な魔法にも打ち勝てるのだから、あなたは確かにすばらしい魔法使いだ。ぜひ一緒に来て、城の魔法使いたちを止めてほしい」
とたんに彼女はまた困惑しました。
「私は司祭長の許しがなければ教会の外に出られません。私は修道女なのです」
「いいや、あなたはもう神官のはずだ」
と男は言いました。やはり彼女のことをよく知っています――。
彼女は覚悟を決めると、男に尋ねました。
「あなたの名前はなんとおっしゃるのでしょう、お偉い方?」
話の内容から、きっと城で偉い立場にある人なのだろう、と見当がついたのです。
「私はゴーラントス。ロムド国王に仕えている者だ」
と男は言ってフードを脱ぎました。その下から、銀の髪とひげの中年の顔が現れます。
「あなたの名前は?」
と男に聞き返されて、彼女は答えました。
「マリガです。では、私につかまってください、ゴーラントス様。魔法で教会の外へ移動します」
もう彼女は迷ってはいませんでした。男のほうもためらうことなく彼女の手をつかみます。
シュン、と風のような音をたてて、二人の姿は地下室から消えていきました――。