海辺の荒れ地は一面霧におおわれていて、見通しがききませんでした。見えるのは白い霧と凍りついた雪だけ、聞こえてくるのは海岸に激しく打ち寄せる波の音だけです。
セイロスは、そんな寒々しい景色の中に立っていました。氷点下の冷え込みだというのに、黒い長衣をはおっただけの格好で、平然と周囲の霧を見回しています。その瞳は黒、腰のあたりまである長い髪もつややかな黒い色です。
すると、霧の中から誰かが話しかけてきました。
「ねぇねぇ、初代くぅん。こぉんな辺境の島までやってきて、いったい何をするつもりなのさぁ」
妙にのんびりした声と共に現れたのは、ランジュールでした。白い上着を着て、前髪で顔の右半分をおおい、ふわふわとセイロスの横に浮いています。
セイロスは振り向きもせずに言いました。
「ここはなんという場所だ? 知っているなら話せ、幽霊」
当然のように出てくる命令口調は、人の上に立つことに慣れている人のものでした。ランジュールが口を尖らせます。
「ボクはランジュールだったらぁ、初代くん。それ以外の名前で呼んでくれなきゃ、ボクは答えないからねぇ」
そう言われて、セイロスはようやく相手を振り向きました。
「それを言うなら、私も初代ではなくセイロスだ。要(かなめ)の国の皇太子にして光の軍勢の総大将――それが私の肩書きだ」
「今から二千年も前にねぇ」
とランジュールは茶化すように言って、にやにや笑いました。
「ボクってすごく謙虚だからさぁ、人はできるだけ肩書きで呼んであげるようにしてるんだけど、キミの肩書きはちょっと使えないよねぇ。要の国ってのは二千年前に滅んじゃったし、光の総大将ももう終わっちゃった役目だし。それどころか、キミに従ってきた光の軍勢を、キミが袋だたきにしちゃったんだろぉ? ねぇ、人間になったデビルドラゴンくん」
セイロスの目と声がたちまち鋭くなりました。
「その名で私を呼ぶことは許さない。私はセイロスだ」
はいはい、と幽霊は肩をすくめました。
「じゃあ、他に適当な呼び名が見つかるまでは、名前で呼んであげることにするねぇ、セイロスくん。セイちゃんって呼んでもいいんだけど、そうするとまた怒られそうだしねぇ。だから、キミもボクのことはランジュール。名前で呼ぶのが礼儀だって、子どもの頃に教わらなかったぁ?」
「よかろう。では、ランジュール、ここがどこかおまえにはわかるか?」
改めてセイロスから尋ねられて、んー、とランジュールは腕組みしました。
「ボクたち、ザカラス南西部の高原から北北西に飛んだろぉ? 海も越えたし、たぶんここはアマリル島だと思うんだけどねぇ。かなり大きな島で、北側はもう冷たい海だよ。ここには魔獣探しやデーちゃんの扉を探しに、二、三度やってきたんだよねぇ」
「アマリル島」
とセイロスはまた周囲へ目を向けましたが、相変わらず霧が濃くて、何も見ることができませんでした。
セイロスは少し考え、マントの中から右手を出して、さっと振りました。とたんに風が吹き出し、あっという間に霧を追い払っていきます――。
霧が晴れた後に現れたのは、岩が積み重なり、小高い丘をつくっている荒れ地でした。一面雪でおおわれていますが、雪をかぶっていない部分は灰色の岩肌がのぞいていて、白と灰色の濃淡の世界を繰り広げています。
「雪ばっかりだねぇ」
とランジュールは肩をすくめました。
「夏になれば、緑の草におおわれた、景色のいいところになるんだけど、かなり北よりにある島だから、春が遅いんだよねぇ。ドラゴン系の強い魔獣も棲息してるんだけど、寒い間は冬眠してるから見当たらないなぁ。残念」
「魔獣なら、そのうちに強力なのをくれてやる。それよりも、この島の首都はどこだ? それとも、人は住んでいないのか?」
「えっ、なになに、ボクに魔獣をくれるのぉ!? いつぅ!? どんな魔獣!?」
目を輝かせて身を乗り出したランジュールを、セイロスはじろりとにらみつけました。
「そのうちにだ。それよりも、私の質問に答えろ」
けれども、魔獣使いの幽霊は嬉しそうに一人で話し続けていました。
「いいね、いいねぇ。デビルドラゴンがくれる魔獣だったら、ぜぇったいに闇の怪物だよねぇ。それも、超強力なヤツ! フーちゃんやデーちゃんほど強力ってことはないだろうけど、それでも、かなり期待できるよねぇ。どんな魔獣かなぁ。楽しみだなぁ、うふふふふ……」
「おまえが私の役に立つと判断したらだ。ただ隣で無駄口をたたいているだけなら、今すぐお払い箱にするぞ」
とセイロスはまた言いました。ランジュールのとめどない軽口に、少しいらいらしてきています。
うふん、とランジュールは余裕の表情で笑いました。
「アマリル島に首都なんてものはないよ。国と呼べるようなものがまだない、未開の島なんだからさぁ。まぁ、人は住んでるから、村や町はあるんだけどね。部族ごとにあっちこっちで陣取り合戦を繰り返してるだけなんだよぉ」
「北方の未開の島か……」
とセイロスはまた考え始めました。今度はかなり長い間、黙り込みます。霧が晴れた海岸は断崖絶壁になっていて、その下に打ち寄せる波の音が休むことなく聞こえてきます。
すると、空中をうろうろしていたランジュールが急に姿を消しました。
それと同時に男の声が響きます。
「貴様は誰だ!? どこからやってきた!?」
金髪に碧眼(へきがん)のたくましい男が、岩の間に立ってセイロスをにらんでいました。毛皮の服の上に無骨な鎧をつけ、二本の角がついた兜をかぶり、手にした槍をこちらに向けています。
「島の原住民か」
とセイロスはあわてる様子もなく言って、男を上から下まで眺めました。
「胴鎧は青銅製だが兜と槍の穂先は鉄だな。鉄を扱うのならば、未開と言われるほど文明が遅れているわけではない。しかも、ことばが通じるということは、光と闇の戦いに加わった者の末裔(まつえい)ということだ。この近辺は戦場になったことはないはずだから、戦いの後でこの地に移住したのだな」
きわめて冷静に相手を分析します。
原住民の男のほうは、槍をセイロスに向けたまま迫ってきました。
「見かけない奴だ! バオルの手先か!?」
返事によっては一撃で命を奪う構えですが、セイロスは平然としたままでした。
「バオルとやらは知らん。私はたった今、この島に着いたばかりだ」
それを聞いて、男は素早く周囲を見回しました。
「外者(そともの)か! 仲間は!? 船はどこにある!?」
外者というのは、島の外からやってきた人間をさすことばのようでした。
「船はない。仲間もいない。私は一人だけだ」
「船がない――? 漂流者だというのか。だが、濡れていない。やっぱり貴様はバオルの手先だろう! 我々の動向を探りに来たな! ただではおかん!」
好戦的なことばと共に、男の槍が突き出されてきました。長衣を着ただけのセイロスの腹を突き刺そうとします。
ところが、次の瞬間、槍の先端が折れました。見えない何かにぶつかったように槍が停まり、鉄の穂先が根元から折れたのです。跳ね返った穂先が回転しながら飛んで、槍を繰り出した男の腹に突き刺さりました。うっとうめいて、男が倒れます。
そこへまたランジュールが現れました。空中からあきれたように言います。
「ちょっとちょっと、まずいんじゃないのぉ、セイロスくん? 原住民を殺したら、島の連中から襲撃されるよぉ? そりゃぁ、キミが負けるわけはないけどさぁ。キミ、何か用事があってこの島に来たんだろぉ? 用事はまだすんでないっていうのに、これはまずいと思うよぉ」
「それは承知している。この男もまだ死んではいない。聞きたいことがあるから、戦力を奪ったのだ」
とセイロスは答えると、倒れている男をぐいと引き起こしました。その上へ片手をかざすと、とたんに男のうめき声が止まります。
「い、痛くなくなった……?」
と男は言って自分の腹を見ましたが、そこにはまだ槍の穂先が突き刺さっていました。傷から血も流れ出しています。
信じられない顔をする男へ、セイロスは言いました。
「おまえの痛みを止めただけだ。傷が治ったわけではない。私の質問に正直に答えろ。そうすれば私を襲った罪は許してやるし、その傷も治してやる」
男はますます驚いた顔になり、セイロスの背後を見て、ひっと息を呑みました。幽霊が浮いていることに気づいたのです。ランジュールがにやにやしながら空中で一回転してみせると目をむき、またセイロスを見て言います。
「精霊を従えているからには、あんたは神官なんだな! それにしてもすごい力だ! こんなものすごい神官は見たことがない!」
セイロスは肩をすくめました。彼の正体は悪の権化のデビルドラゴンです。悪神とも言われる存在の自分を神官にされたので、皮肉っぽい笑いを浮かべます。
「まあ、当たらずとも遠からずというところだな。それより質問だ。この海岸の正確な位置を教えろ。おまえたちはどこに住んでいる。バオルというのはなんだ?」
立て続けの質問でしたが、男は腹の傷を抑えながらあぐらをかくと、素直に話し始めました。
「あんたが神官なら話は別だったんだ。ここはアマリル島の南東にあるバントン海岸。バントンってのは、古いことばで白い波って意味だ」
「バントンならばわかる。大陸の北方の者たちが使っていた古語だ。とすると、この島の人間は北方からの移住者か」
とセイロスがまたつぶやくように言いました。頭の中では二千年前の世界地図を思い浮かべているのに違いありません。
男は怪訝(けげん)そうな顔をしながら話し続けました。
「バオルってのは俺たちの宿敵だ。もう百年以上戦い続けているんだが、まだ決着がつかない。連中は俺たちの丘を占領しているだけでなく、そこに城まで建てたんだ。俺たちは丘を取り戻そうとしているんだが、連中のほうが人数が多いし装備もいいから、いつも敗れてしまう――。俺たちは連中から丘を取り戻したい! あそこは俺たちの聖地なんだ!」
男は悔しそうに顔を歪めると、拳を地面にたたきつけました。とたんに腹の傷から血が噴き出したので、あらら、とランジュールが言います。
一方、セイロスはまた考え込んでいました。確かめるように、こう言います。
「この島には城があるのだな? バオルが占領している丘以外にも、この島に城はあるのか?」
「ある。クゥラの連中の城が一番でかいという噂だが、俺はまだ見たことがない」
そう言ってから、男は身を乗り出してセイロスを見上げました。
「頼む、神官。あんたは神から偉大な力をもらっているんだろう? 俺たちカイルに手を貸してくれ! バオルから丘を取り戻すんだ!」
力むたびに傷がまた血を噴き出します。
「えぇ? だぁって、この島に城なんて――」
とランジュールが不思議そうに言いかけましたが、セイロスはそれをさえぎって、男の上にまた手をかざしました。とたんに腹に突き刺さった槍の先が抜け落ち、たちまち傷がふさがってしまいます。
びっくりして腹をなでる男へ、セイロスはまた言いました。
「よし、おまえたちに力を貸してやろう。おまえたちの丘と城を取り戻してやる」
男は跳ね起きました。
「本当か!? 本当に助けてくれるのか!?」
「ああ。おまえたちの首長のところへ案内しろ。それと、おまえの名前は?」
「お、俺はギーだ! カイル族のギー」
「それも北方の古語だな。『風』か、いい名だ」
とセイロスが誉めたので、男は照れたように頭をかきました。
「風のように素早い戦士になれ、と族長がつけてくれたんだ。あんたのほうこそ、なんていう名前なんだ、神官?」
「私は神官ではない。私はセイロス。要(かなめ)の国の皇太子だ」
とセイロスも名乗りましたが、ギーは首をひねりました。国の名前どころか、皇太子ということばさえ、これまで聞いたことがなかったのです。
「いい。早く族長のところへ案内しろ」
とセイロスに言われて、ギーは先に立ちました。歩きながら、傷が消えた腹をまたなでて、すごい、まるで痛まないぞ! と感嘆の声を上げます。
その様子に、ランジュールは、へぇ、とつぶやきました。
「見事に原住民を手なずけたじゃないかぁ。さっすが元王子様。でも、原住民のために城を取り戻してやるだなんて、やたら親切だよねぇ。ぜぇったいに、何か企んでる。なんだろぉ。わくわくするなぁ、うふふふ」
ランジュールは楽しそうに笑うと、ギーとセイロスの後を追って飛んでいきました――。