「ロ!」
アマニとメーレーン王女のすぐそばで、突然男の声がしました。
キャウン! と犬の悲鳴も上がって、何か重いものが落ちるような音が聞こえます。
目をつぶっていたアマニと王女は目を開け、自分たちの前に赤い長衣を着た小男を見ました。アマニの呼び声を聞いて、赤の魔法使いが駆けつけてきたのです。彼女たちをかばうように、細いハシバミの杖を構えています。
猛犬は魔法に吹き飛ばされて、囲いの真ん中あたりに倒れていました。ぐったりと四肢を伸ばして、口からは泡を吹いています。
「こ、殺したんですの!? グーンを殺してしまったんですの!?」
とメーレーン王女は顔色を変えました。グーンというのは彼女たちを襲っていた猛犬の名前です。助かって安堵するより、猛犬の命の心配をしています。
赤の魔法使いがそれに答え、アマニが通訳をしました。
「大丈夫、気を失ってるだけだよ。たぶん、その犬は闇の灰を吸ってしまったんだろう、って。どこかその辺に溜まっていたんだろうね。一時的に頭が変になっているだけで、魔法で治療すればちゃんと元に戻るってさ」
そこへ、白、青、深緑の三人の魔法使いも姿を現しました。赤の魔法使いに呼ばれたのです。柵の中の惨状を見て、なんと! と声を上げます。
白の魔法使いは頭痛がするように額を押さえました。
「重ね重ねの失態だ。魔法軍団に指示をしている間に、こんな事件が起きていたとは……。大変危険な目にお遭わせしました、メーレーン様。まことに申しわけありません」
地面に額がつくほど頭を下げて詫びる女神官に、メーレーン王女は首を振りました。
「まあ、メーレーンは大丈夫でしたわ。アマニがメーレーンと犬たちを守ってくれましたもの」
「ほんに、アマニが駆けつけてくれて良かった。さもなければ手遅れになるところじゃったわい」
と深緑の魔法使いは言い、重症を負って倒れている護衛と犬の飼育係へ杖を振りました。
「とりあえず血は止めたが、怪我がひどいの。どれ、城の魔法医のところへ運んでやるとしよう」
と言って、二人の怪我人と一緒に姿を消していきます。
「パピーとクスクスとグーンもお願いしますわ。治してあげてくださいな」
と王女は怪我をした犬たちを差し出しました。こちらは青の魔法使いが応急処置をして、闇の灰で気が変になった犬と一緒に、動物専門の魔法医のところへ連れていきます。
「大丈夫です、王女様。あの犬たちも、ちゃんと元気になって戻ってまいりますから、ご安心ください」
と白の魔法使いは言い、それでも心配そうにしている王女へ笑って見せました。とたんに、ふわりと柔らかい微笑が広がって、厳しい顔が急に優しくなったので、アマニは目を丸くして驚きました。彼女がとても綺麗に見えてしまって、ふん、と顔をそむけます。まだ白の魔法使いにライバル心を抱いているのです。アマニ! と赤の魔法使いがたしなめますが、聞く耳を持ちません。
そんなところへ、知らせを受けて、ようやくメノア王妃が駆けつけてきました。道化姿のトウガリも一緒です。王女が柵の外へ出ていくと、王妃が飛んできて言います。
「メーレーン! 大丈夫でしたか!? 犬が急に暴れ出したと聞いて、とても心配しましたよ!」
王女のドレスについた犬の血も、檻に飛び散った血も、白の魔法使いが魔法で消していたので、本当の惨状はわからなかったのですが、それでも王妃はとても心配していました。ぎゅっと王女を抱きしめます。
真剣な表情で周囲を眺めるトウガリへ、白の魔法使いは耳打ちしました。
「闇の灰のしわざだ。王女様の犬が灰を吸い込んでおかしくなった」
それを聞いて、トウガリはいっそう真剣な顔になりました。さらにアマニが王女を守った話を聞かされると、少し考えてから、王妃と王女の前に進み出て道化のお辞儀をします。
「お怪我がなくて本当に何よりでございました、メーレーン様。王女様にもしものことがあれば、王妃様はもちろん、このトウガリめもとても生きてはおれません。今も、いつまた王女様が危険な目に遭うかと思うと、トウガリめの心臓はドッキンドッキン、不安で張り裂けそうでございます。王女様を助けてくださったアマニ様が、トウガリには美しい天使様に見えてまいります……。いかがでございましょう、メーレーン様、メノア様。アマニ様は南大陸で暮らしてこられて、頼もしい技もいろいろご存じだとうかがいますし、メーレーン様の話し相手兼身辺警護になっていただけばよろしいのではないでしょうか? メーレーン様も大きくなられてきて、最近は王妃様とは別に行動されることも増えておいでです。トウガリは王妃様の道化ですから、メーレーン様のおそばにいつもいることはできませんし、アマニ様に一緒にいていただければ、きっとメーレーン様も楽しいのではないかと思うのでございますが……」
トウガリがいつもの道化の調子を出し切れなかったのは、それだけ真剣に話していたからでした。彼は王妃を守ることが役目の間者なので、王女まで手が回りきらないことが時々あって、なんとかしなくては、と考えていた矢先だったのです。
まぁ、とメノア王妃とメーレーン王女は同時に言いました。王妃は考えるように頬に手を当て、王女は目を輝かせて両手を打ち合わせます。
「アマニがメーレーンのそばについてくれますの? 素敵! ぜひそうしてくださいな! メーレーンはアマニから南大陸の話をいろいろ聞きたいですわ!」
屈託のない王女のことばに、王妃はさらに考える顔になりました。膝丈の布の服を着ただけで、髪も結っていなければ靴もはいていない、異大陸の娘を眺めます。むき出しのその手足や顔は、墨を塗ったような黒い色をしています。
すると、アマニが、くしゃん、と大きなくしゃみをしました。その恰好で長時間雪の中にいたので、さすがに冷えてきたのです。
「あら、大変。このままでは風邪をひいてしまいますわね」
と王妃はあわてたように言いました。
「レイーヌ侍女長を呼んで、あなたの新しいお洋服を作りましょう。冬でも寒くなくて、動きやすい服を……。メーレーンをよろしくお願いしますわね、アマニ」
それが王妃の承諾でした。アマニが何者で、どういういきさつでここにいるのか、そんなことさえ聞かずに彼女を信頼したのです。人を疑うことをしない王妃らしいことでした。にっこりと、天使のほほえみをアマニに向けます。
アマニはとまどっていました。王女の侍女の仕事が回ってきたらしいことは理解しましたが、自分に務まるのかどうかわからなくて、赤の魔法使いを振り向きます。すると、魔法使いのほうでも、頭を振ってきました。とても無理だ、引き受けるな、と言っているのです。
ところが、そんな彼の横に、白い長衣を着た女神官がいました。身長こそ大人と子どもほどに違いますが、当然のように並んで立っています。
それを見たとたん、アマニはかっとなりました。城にいる間、二人はいつもこうして一緒にいるのだと思うと、我慢できないくらい腹が立ちます。冗談じゃない、あたしもお城にいなくちゃ、とアマニは考えると、驚いている赤の魔法使いをにらみ返し、王妃と王女に向き直って言いました。
「うん、いいよ。あたしでよければ、王女様の話し相手になってあげる。南大陸の話もたくさん聞かせてあげるから」
王女はまた手を打ち合わせました。
「本当、アマニ!? メーレーンと一緒にいてくれますの!? じゃあ、さっそくメーレーンの部屋に来てくださいな。さっきアマニが言っていた、ハイエナというのはなんですの? クシャミの木というのは? 南大陸にも犬はいますの……!?」
うきうきとはしゃぐメーレーン王女に連れられて、アマニは城へ向かって歩き出しました。王妃やトウガリ、新しい侍女に興味津々の他の侍女たちも一緒です。
すると、アマニがすれ違いざま、赤の魔法使いと白の魔法使いへ、あかんべえをしていきました。あとは知らんぷりで城に入っていってしまいます――。
女神官はなんとも言えない表情でそれを見送り、猫の目の魔法使いに言いました。
「思いきり彼女に誤解されている。赤、責任もって誤解を解けよ」
ムヴアの魔法使いは、ごにょごにょと口の中でつぶやきました。わかった、と言ったのです。普段あれほどポーカーフェイスな彼が、アマニにはてんで弱くなっています。
白の魔法使いは思わず苦笑すると、空を見上げました。厚い雪雲におおわれた空には、闇を含んだ火山灰も漂っているのですが、こうして見上げている分には、そこに闇を感じ取ることはできません。
ふと、彼女はその雲の向こう側に少年少女の姿を見た気がしました。二匹の風の犬に乗って天空の国を目ざす、勇者の一行です。
たれ込める雲の上に広がる青空の中を、彼らは日の光を浴びながらまっすぐに昇っていました。きらりと光って、空の中に見えなくなっていきます――。
「どうかお気をつけて……。ユリスナイ様のご加護が、皆様の上にありますように」
女神官は、そっと彼らのために祈りを捧げました。
The End
(2012年6月8日初稿/2020年4月9日最終修正)