「宰相! 聞いているのかい、リーンズ宰相!?」
そう尋ねられて、彼は我に返りました。
そこはロムド城の執務室でした。国王は不在で、代わりに目の前に大柄な青年が立っています。端正な顔にいらいらした表情を浮かべた、ロムド皇太子のオリバンです。
彼は丁寧に頭を下げました。
「失礼、少々考え事をしておりました――。何の話だったでしょう?」
青年は思いきり顔をしかめて、いっそう不愉快そうな表情になりました。
「どうしてオリバンたちをユラサイへ行かせるんだ、と聞いているんだよ! テトでの一件が片付けばロムドに戻ってくる話だったじゃないか! テトからまっすぐユラサイへ行くだなんて、ぼくたちは全然聞いていないぞ!」
かみつくような勢いでどなる皇太子の後ろには、長い銀髪の青年が立っていました。城の一番占者のユギルです。肩に黒い鷹を留まらせ、困った顔をしています。
リーンズは穏やかに言いました。
「キース殿たちのお腹立ちはごもっともです……。ですが、殿下がセシル様やユギル殿とユラサイへ向かうと書状をお書きになったのは、一週間以上も前のことです。書状が届いたのは本日ですが、殿下たちはもうとっくに東へ出発なさったことでしょう。我々にはどうすることもできません」
「で? 彼らはいつユラサイから戻ってくるんだ? それまでの間、ぼくたちにずっとオリバンやユギル殿の代役をしていろって言うわけか!? 約束が違うじゃないか!」
と言って青年は片手を振りました。とたんに皇太子のオリバンは黒髪に甘い顔立ちの青年に、ユギルは長い黒髪に灰色の瞳の美少女に変わりました。闇の国の第十九王子のキースと、闇の民の娘のアリアンが、本来の姿に戻ったのです。
リーンズは首を振って繰り返しました。
「キース殿たちのお腹立ちはごもっともです。ですが、旅立ってしまった殿下たちを連れ戻す手段がございません……。一番占者のユギル殿が城に不在と知られれば、敵国がロムドに攻め込んでくる危険が出てきます。それに、殿下たちの目的は、やがて始まる大戦争に備えて、ユラサイの皇帝と和平を結ぶことなのです。ユギル殿がその必要性を占ったのだ、と書状には書かれていました。ユギル殿が占ったのであれば、我々はそれに従わなくてはなりません」
口調は静かですが、少しも引くことがない宰相でした。キースがまたどなろうとします。
すると、アリアンがおずおずと口をはさんできました。
「あの……私はこのままユギル様の代わりを務めていてもかまいませんが……」
キースは、かっとして振り向きました。
「どうして!? 彼らの代役をしている間は、朝から晩まで彼らの恰好でいなくちゃならないんだぞ! ぼくたちのやりたいことも全然できないし! それでかまわないって言うのか!?」
その剣幕に少女はたじろぎましたが、すぐにまた言いました。
「私のやりたいことは、この国の役に立つことです……。国王陛下は闇のものの私たちを、このロムド城にかくまってくださっています。その寛大さにご恩返ししたいんです……。ずっとユギル様の恰好でいることだって、私にはなんともありません」
いかにもおとなしそうなアリアンにそう言い切られて、キースは鼻白みました。思わず黙ってしまうと、二匹の小猿が足元で飛び跳ねながら言います。
「キースはオリバンの恰好でいると、女の人に声をかけられないから嫌なんだゾ」
「そうだヨ。貴婦人をデートに誘えないから、それで文句を言ってるんだヨ」
猿の姿に化けたゴブリンのゾとヨです。キースはたちまちあわて出しました。
「ば、馬鹿、そんなことじゃない! ぼくはただ――!」
けれども、アリアンは淋しそうな表情になっていました。何も言わずに、そっと目を伏せてしまいます。
キースはますます焦ると、リーンズに向かって言いました。
「わ、わかったよ! オリバンたちの身代わりを続けてやるよ! その代わり、あまり長びいて嫌になったら、その時には誰がなんと言ったって代役を降りるからな! ――行こう!」
言うだけ言って、キースは部屋の出口へ歩き出しました。アリアンがそれに従います。すると、二人の姿がまたオリバンとユギルに変わりました。小猿のゾとヨと、黒い鷹に化けたグリフィンのグーリーが追いかけていきます。
そこへロムド国王が執務室に戻ってきました。濃紺の鎧兜を身につけたワルラ将軍も従っていて、入れ違いに出ていった一行に首をひねります。
「どうかしたのか? キース殿がずいぶんおかんむりの顔をしていたようだが?」
「オリバンたちが勝手にユラサイへ行ってしまったので、腹を立てているのであろう。気の毒だが、いたしかない」
とロムド王が言ったので、リーンズは答えました。
「お二人とも殿下とユギル殿の代役を続けることを引き受けてくださいました。キース殿はしぶしぶでしたが」
リーンズ宰相、ワルラ将軍――彼らが国民からそう呼ばれるようになってから、すでに五十年近い歳月が過ぎていました。まだ二十歳の青年だったロムド王も、今年で六十八歳になっています。王の淡い銀色の髪はそのままですが、リーンズやワルラの髪はすっかり白くなり、どの顔にも深いしわが増えていました。彼らが共に過ごした時間が残していった足跡です。
四十八年前、ロムド王はオーギュ宰相とそれに荷担する貴族たちを国外追放して、ロムド城の体制を一新しました。重臣たちの頂点に立ったのが、王と同年代の若い宰相と総司令官だったので、人々は皆、仰天しました。こんな国家はすぐ行き詰まって倒れるだろうと誰もが考えましたが、予想に反して、彼らは次々と新しい政策を打ち出し、積極的に国作りに取り組んでいきました。王都ディーラから東西南北へ延びる街道の整備と保安、大荒野が広がる西部へ水路を引いて、東部の貧民層から移民を募る開拓事業――攻め込んできた外国軍の撃退、国内各地で起きる反乱の動きの鎮圧、周囲の国々との和平交渉――ロムド王が家柄や出自にこだわらずに雇用していった結果、ロムド城には優秀な人材も大勢集まりました。大陸随一の占者ユギル、剣士の腕前も優れた重臣ゴーリス、四大魔法使い、道化間者のトウガリ、闇の民のキースやアリアン……数え上げればきりがないほどです。
そして今、ロムドは中央大陸の国々の先頭を走る、急伸中の大国になっていました。デビルドラゴンが世界を破滅させるために姿を現してからは、金の石の勇者のフルートたちと共に闇と戦い続けています。この戦いは今後ますます激しさを増していくことでしょう。闇と対抗する光の軍勢を作るために、ロムドはいっそう重要な役割を果たしていくのです――。
「しかし、殿下もずいぶん思い切った行動に出られましたな。東の果てのユラサイまでお行きになるとは。キースたちではないが、ちょっと意表をつかれましたぞ」
とワルラ将軍が言いました。年はとっても体はまだたくましく、戦場にいるときには常に最前線で指揮を執っている勇将です。
「わしの若い頃を見ているようだな。オリバンもやはり同じ血を引いていたか」
とロムド王は笑いました。こちらも年齢を感じさせない若々しい声です。
リーンズは穏やかに言いました。
「陛下と殿下のどちらが上を行くかは、見る方々のご判断を仰ぐことにいたしましょう……。ですが、ユラサイの皇帝は金の石の勇者殿たちと親交があったという話ですから、勇者殿たちとつながりが深い殿下が直接親善に行かれるのは、大変得策でした。今回の一件で、テト国は我が国と同盟を結ぶことになりましたが、そこにユラサイ国が加われば、周辺のユラサイ圏の国々も従ってきます。テトからユラサイまでが一続きの勢力となって、我々の陣営は格段に強固なものになることでございましょう」
昔の下町ことばは、ラヴィア夫人のおかげですっかり宮廷ことばに変わりましたが、人の心理や国の動きを読み取る力は今も健在なリーンズです。
「我が息子たちに期待することにするか」
とロムド王が言うと、ワルラ将軍が白いあごひげをなでて、にやりとしました。
「我々も若い者たちにはまだまだ負けていませんぞ。同盟を分断しようとちょっかいを出してくる国もあるが、片端から撃退しているところです。ロムド軍は実に勇敢ですぞ」
そう言って、赤銅色に日焼けした顔で、わっはっはっと笑います。
すると、ロムド王は急に真面目な表情になりました。遠くを見る目を壁の地図に向けて言います。
「我々にはまだ、この国と世界に対する責任がある。ここに至るまでにずいぶん長い時間と距離を走ってきたが、我々の役目を成し遂げるまでは、もうしばらく走り続けなくてはならぬのだ。改めて心しておけよ、リーンズ、ワルラ」
「なんの。陛下に従うことを決めたあの日から、わしたちはずっと、その覚悟でおりますぞ、陛下」
とワルラ将軍が言い、リーンズ宰相もうなずきました。
「殿下たちも勇者殿たちも非常にがんばっておいでですが、なんの後ろ盾もなく闇の竜と戦えるはずはありません。若い方たちが存分に戦えるよう、後ろから彼らを支えることも、我々年長者の務めでございましょう」
「我々はまだ死ぬわけにいかぬな」
とロムド王がしみじみと言うと、すかさずワルラ将軍が言い返しました。
「無論です。あと五十年くらいは達者でいませんとな」
ロムド王とリーンズ宰相は目を丸くすると、いっせいに笑い出しました。
「五十年か。それはよい」
「殿下だけでなく、勇者殿たちの孫やひ孫まで拝見できそうですね……」
ロムド城の執務室の中、長い年月を共に歩んできた王と宰相と将軍は、穏やかに話し続けました。
The End
(2011年6月6日初稿/2020年4月6日最終修正)