「深緑殿、もうすぐロムド城だぞ」
そう声をかけられて老人は目を覚ましました。振動が体を揺らし、車輪の音が耳を打ちます。ここは街道を走る馬車の中です。彼を起こしたのは、向かいの席に座る黒ずくめの剣士でした。
「おお、もうディーラに到着してましたかの。すっかり眠り込んでおりましたわい」
と深緑の魔法使いは身を起こしました。ずいぶん長い時間眠っていた気がします。懐かしい日々をずっと夢に見ながら――。
「ジタン山脈からここまでは長旅だ。しかも、深緑殿はジタンで闇や軍隊相手にずいぶん戦ってきたからな。さぞ疲れただろう」
話しかけている黒衣の剣士は、ロムド王の重臣のゴーラントス卿――ゴーリスでした。彼らは赤いドワーフの戦いを終え、敵軍の捕虜と共にロムド城があるディーラまで戻ってきたのです。
「いやいや、疲れてなぞはおりません。ただ、年寄りになるとやたらと眠うなるものでしてな。猫のようにどこでもすぐに眠り込んでしまいますのじゃ」
と言いながら、老人はひげをしごいて笑いました。彼が闇の森からロムド城に来て、深緑の魔法使いという名をもらってから、十二年の歳月が過ぎています。穏やかな顔をした老人に、白髪を振り乱して森を徘徊していた老魔法使いの面影はもうありません。
馬車は王都の中を走り続けていました。窓の外を見慣れた景色が流れていきます。城に近づくにつれて立派な建物が目立ってきます。貴族たちの屋敷です。
それを眺めるゴーリスが、なんとはなしに嬉しそうな様子をしているので、深緑の魔法使いが話しかけました。
「久しぶりでご家族に会えますな。ずいぶん長いことディーラを留守にしたから、奥方もさぞお待ちかねじゃろう」
「一ヶ月半ぶりだからな」
とゴーリスがぶっきらぼうに答えました。家に帰れることを喜ぶ気持ちを老人に見抜かれて、照れ隠しをしているのです。老人はいっそうほほえみました。
「ご令嬢はいくつになりましたかの?」
「ミーナか? 一歳二ヶ月だ。ジタンへ出発する前にはまだ歩けなかったが、そろそろ歩き出しているかもしれん」
「それは楽しみでございますの。……ご家族は大切になさりませ、ゴーラントス卿。待っていてくれる家族があるということは、どんな宝玉にも勝る宝ですからの」
ゴーリスはすぐには返事をしませんでした。深緑の魔法使いが天涯孤独の身の上だということを、彼は知っていました。老人が自分自身のことを思い出して言ったのだとわかったのです。
魔法使いは窓の外の景色を眺めています。たくさんの家屋敷が並ぶ町並みです。身分や貧富の差はあるものの、大勢の人がそこで家族と暮らしています。ゴーリスの妻と娘が待つ屋敷もその中にあります。けれども、深緑の魔法使いの家はここにはないのです。ロムド城に与えられた一室が彼の家でした。
そうだな、とゴーリスは静かに言いました。
「待っていてくれる人がいるということは、確かに幸せなことだな」
老人はただ穏やかに町並みを眺めています――。
馬車がロムド城に到着しました。城の重臣の帰還を、召使いが声高に皆へ知らせます。
先に馬車を降りたゴーリスが、城の大階段を見て、おや、という顔になりました。笑いながら魔法使いを振り向きます。
「貴殿の家族がお出迎えだぞ、深緑殿」
老人は馬車から降りようとしていましたが、それを聞いて驚いて顔を上げました。その目に飛び込んできたのは、誰よりも先になって階段を下りてくる三人の男女でした。それぞれに、白、青、赤の長衣を着て、手には杖を持っています。ロムド城の四大魔法使いたちでした。
「深緑!」
と白の魔法使いが呼びました。白い長衣の胸に神の象徴を下げた女神官です。普段は厳しい顔をしている彼女が、とても嬉しそうな顔をしています。
それに続くのは青い長衣の見上げるような大男――武僧の青の魔法使いです。さらに黒い肌に猫のような瞳の、赤の魔法使いもやって来ます。
「ようやく帰ってきましたな、深緑!」
「マ、ネタ、ゾ!」
大声や異国のことばで、それぞれに呼びかけてきます。
老人は目を丸くしました。
「これはまた大歓迎じゃな。どうした? 帰る途中ずっと心話で伝えとったから、わしが今日戻るのはわかっとったはずじゃろう」
「そう言われても、深緑の元気な顔を見るまでは落ち着きませんでしたぞ。無事に帰ってきて本当に良かった」
と青の魔法使いが笑います。相変わらず屈託のない笑い方をする武僧です。
白い長衣の女神官も言いました。
「ジタンでの任務、ご苦労だったな、深緑。途中、長い間連絡が取れなくなったから、本当に心配していたのだ」
そう言う彼らがいた王都も、実は敵の襲撃を受けていました。三人の魔法使いたちは都を守って激戦を繰り広げたのですが、そんな苦労は一言も口にしません。ただ仲間の無事な姿を喜んでいます。深緑の魔法使いは急に何も言えなくなりました。胸の中に、じんわりと暖かいものが広がっていきます。
すると、ゴーリスが話しかけてきました。
「陛下へのご報告は俺がしよう。久しぶりで四大魔法使いが揃ったんだ。積もる話もあるだろうから、水入らずで過ごすといい」
「お気遣い感謝する、ゴーラントス卿」
と白の魔法使いが礼を言うと、黒衣の剣士は片手を上げて城に入っていきました。本当に、大貴族なのにとてもそうは見えない、気さくなゴーリスです。
城の大階段に四人だけになると、深緑の魔法使いは改めて仲間たちを眺め、これはこれは、と言いました。
「出発する前にも思っとったが、帰ってきてみれば、白はまたいちだんと綺麗になっとるのう。何がどうしたんじゃね?」
真の姿を見抜く目を持つ老人です。一見厳しく見える女神官が、以前よりぐっと女らしく優しい雰囲気になっていることに、すぐに気がついたのです。白の魔法使いはたちまち真っ赤になり、それを隠すように、わざとそっけない口調になって答えました。
「髪型を変えたせいだろう。結い上げていると、髪留めが外れたときに髪が顔にかかって視界を奪われる。そんなことが戦闘中に二度も続けてあったから、結うのをやめたのだ」
と後ろで一つに束ねた髪を引き寄せて見せます。淡い金色の髪です。髪の色は違うのに、遠い日に同じ仕草をした娘を思い出させます。
老人は静かに言いました。
「懐かしい髪型じゃの」
青の魔法使いがそれにうなずきます。
「そうそう。白は若い頃にもこの髪型をしてましたからな――」
失言でした。たちまち女神官がじろりとにらみつけてきます。
「今はもう若くなくて悪かったな」
「いやいや! 白は今でも充分若いですぞ。とても三十路(みそじ)半ば過ぎには見えませんからな」
さらに墓穴を掘って、怒った白の魔法使いにくるぶしを蹴られます。
「ラ! シ、レイ、ゾ、アオ!」
と赤の魔法使いも青の魔法使いを責めます。
深緑の魔法使いは笑い出してしまいました。
「おまえさんたちなんぞ、みんな若造じゃわい。ひよっこどもがピイチクパアチク騒いで、賑やかなもんじゃ。金の石の勇者殿たちと、ちっとも変わりゃせんよ」
年下の三人の魔法使いは、たちまち苦笑しました。
「深緑にはかなわないな」
と白の魔法使いが言います。
そんな女神官の髪を見ながら、深緑の魔法使いは言いました。
「よう似合っとるぞ、白。今度、新しい髪飾りでも買ってやろうかの?」
昔々、娘と妻のために買った髪飾りは、いつの間にか彼の手元からなくなっていました。落としてしまったのか、捨ててしまったのか、人にあげたのか。それさえ記憶には残っていません。けれども、赤い石がついた金の髪飾りは、この女神官の淡い金髪によく合うような気がしました。本当に同じような髪飾りを見つけて贈ってやろうか、と考えます。
深緑の魔法使いがこんなことを言うのは初めてだったので、白の魔法使いは目を丸くしましたが、すぐに、にっこりほほえみました。
「それは楽しみだな」
「お父さん、楽しみにしてるわ。きっとお土産に買ってきてね――」
少女の声がまた重なります。老人は黙って目を細めました。
白の魔法使いが城に向き直りました。一つに束ねた長い髪が揺れて、きらりと輝きます。
「さあ、中に入るぞ。陛下にご許可をいただいたから、今日は全員非番だ。みんなでゆっくり食事にしよう」
「宴会ですな」
と青の魔法使いが上機嫌でまた笑います。
「シンリョク、ナ、メニ、アイール、ヴィネ、ル」
「ほほう、アイール産のワインが? 何年ものじゃ?」
赤の魔法使いと深緑の魔法使いが話し始めます。
午後の日差しはロムド城に降りそそぎ、いたるところに日だまりを作っています。
春の暖かさに包まれた大階段を、四人の魔法使いは連れだって上っていきました――。
The End
(2008年11月4日初稿/2020年3月24日最終修正)