六月――。シルの町には初夏が訪れていました。
晴れ渡った空から太陽がまぶしく照らしています。暑いほどの日差しですが、吹き抜けていく風はさわやかです。川辺のポプラが高い梢をざわめかせ、小さなハート型の葉をちらちらと銀色に輝かせています。
町外れに近い水車小屋では、水車がきしみながら回り続けていました。水車からこぼれる水の音が、絶え間なく繰り返されます。一年中、休むことなく続く川辺の歌です。
それを聞きながら、ジャックは橋を渡っていきました。大柄な少年で、少し気の短そうな仏頂面をしています。両手をズボンのポケットに入れて肩を怒らせ歩く姿には迫力があって、すれ違う大人たちが思わず道を空けます。事実、ジャックは町の不良少年グループのリーダーで、つい三年前ほどまでは、手のつけられない乱暴者として有名だったのです。
横道から大通りに出ると、ジャックは黙ったまま通りを眺めました。シルは小さな町です。目の前の石畳の道は国の主街道ですが、そこに建ち並ぶ店の数はそれほど多くありません。町の人に交じって旅人もひっきりなしに通っていきますが、ひなびた町の小さな店に立ち寄る者はほとんどいません。シルから歩いて一時間あまりのところにもっと大きな町があるので、そちらを目指して通り過ぎてしまいます。
ジャックは通りに面した店の一軒に近づきました。間口の小さな雑貨屋で、扉の上に銀の鈴が光っています。その扉をくぐる前に、ジャックはポケットから手を出し、素早く襟元を整えました――。
「いらっしゃいませぇ!」
リンリンという鈴の音と同時に、明るい女性の声が店内に響きました。細かい雑貨から食料品、農作業の道具までが所狭しと並ぶ奥にカウンターがあって、そこに店員が立っていました。赤茶色の長い髪に縞模様のエプロン姿の娘で、なかなかの美人です。ただ、その大きな黒い瞳は、ちょっと気の強そうな表情を浮かべていました。
店員は入ってきたのがジャックなのに気がつくと、たちまち顔つきを変えました。笑顔が消えて、伺うような表情になります。警戒しているようにも見えますが、その頬は赤く染まっていました。
「あら、ジャック」
と店員はことさらそっけなく言いました。とても客に対する口調ではありません。
「あんたが買い物だなんて珍しいわね。何が欲しいのよ」
「買い物に来たんじゃねえ」
とジャックはぶっきらぼうに答えました。愛想のない顔をいっそう無愛想にしながら近づいていって、店員の前に立ちます。そうすると、大柄なジャックは娘より頭二つ分も背が高いのですが、娘はにらみつけるようにそれを見返しました。
「じゃ何よ? 冷やかしならお断りよ」
「ちょっと話があるんだ。店を抜けられるか、リサ?」
娘は少しの間、何も返事をしませんでした。ただ、にらむようにジャックを見つめ続けています。その顔がまたゆっくりと赤く染まっていくのを、ジャックは黙って見ていました。
すると、娘はつんと唇を尖らせました。いかにも気が強そうですが、同時にとてもかわいらしい表情になります。
「いいわ」
と答え、店の奥に向かって大声で呼びかけます。
「奥さん、ちょっと店番を抜けます! すぐ戻りますからぁ!」
とたんに怒ったような老女の声が聞こえてきましたが、娘はさっさとカウンターの下をくぐると、先に立って店の外に出て行きました。
ジャックとリサはこのシルの町に生まれ育った子どもたちでした。二人とも十六才で、この六月の初めに学校を卒業しました。同級生ですが、決して仲が良かったわけではありません。誰からも怖がられる不良のジャックを、気の強いリサだけはいつもまっこうから非難してきたのです。弟のチムが強さに憧れてジャックのグループに入っていたので、なおさら黙っているわけにはいきませんでした。リサとジャックが口論する姿は町でも有名で、リサは口の悪い子どもたちから「間違って女に生まれてきたヤツ」と呼ばれていました。
ところが、このとき、ジャックとリサは口論にはなりませんでした。店の裏でリサは黙って小川の流れを眺め、ジャックもそんな彼女を見ているだけでした。リサはわざとらしいほど視線を合わせようとしません。どちらからも話を切り出せないでいる、もどかしい雰囲気が漂います。
やがて、思い切ったように口を開いたのはジャックでした。うなるように尋ねます。
「手紙、読んでくれたか?」
またすぐには返事がなくて、間が空きます。それでもジャックが待っていると、やがて、リサがくるりと振り向いてきました。腰に両手を当て、胸を張るようにしてジャックを見上げます。
「一応読んだわ。てっきり冗談だとばかり思ってたんだけど――」
「冗談なんかじゃねえ!」
とジャックが乱暴にさえぎりました。怒ったような顔は、リサに負けないほど赤くなっています。リサは、ちょっと意外そうにそれを見返しました。また少し黙り込み、肩をすくめて言いました。
「そう言うけど、ジャック、信じろって言うほうが無理な相談だと思わない? あんたはずっとあたしを毛嫌いして、何かって言うと喧嘩をふっかけたり悪口言ったりしてきたじゃないの。それでどうして――本当はあたしを好きだった、なんて言えるのよ――」
きついほどにはきはきと話していたリサの口調が、最後に来て急に歯切れ悪くなりました。いっそう赤くなってしまった顔を、またつん、とそらします。
ジャックは腕組みすると、怒ったような顔のまま言いました。
「嘘じゃねえったら! ずっと気になっていたんだ。おまえはいつだって俺のことを全然怖がらずに、まっすぐに立っていて――俺はこの通りで、どう言っていいのかもわからなかったから、からかったり悪口言ったりしていたけどな。でも本当は――ガキの頃からずっと好きだったんだよ」
リサはまた黙り込みました。そらした目で小川の流れを見つめます。子どもの頃には男顔負けのおてんばだった彼女も、今では背が伸び、すっかり娘らしい体型になっていました。お下げに結っていた髪も、今は後ろで綺麗に束ねられています。初夏の日差しに髪が輝きます……。
やがて、リサは溜息をつきました。真面目な顔でジャックを振り返ってきます。
「ねえ、ジャック、冷静に考えてみてよ――。あたしだけじゃなくてね、他のどの女の子でも、あんたに好きだって言われて喜んで付き合う娘(こ)がいると思う? 自分が今までにしてきたことを考えなさいよ」
「ちっ。相変わらずきついぞ、おまえ」
ジャックは舌打ちしましたが、怒りはしませんでした。自分が周りからどう見られているか、自分でも充分承知していたのです。
「別に今すぐ俺と付き合ってくれとか言ってるわけじゃねえさ……。どっちにしろ、俺はもうすぐこの町を離れるからな。次にいつまた戻ってこられるかわからねえんだ」
その返事にリサは目を丸くしました。
「じゃ、あんた、軍隊の入隊試験に受かったの!? へぇぇ……」
「そんなに露骨に意外がるなよ。これでもけっこうがんばったんだぞ。ラトスの道場に毎日稽古に通ったし、勉強だってしたんだ。さっき、ラトスの町で正式に入隊許可証をもらってきたところだ」
照れ隠しにしかめっ面をしているジャックに、リサはまた肩をすくめました。
「まあ、一応おめでとう、って言ってあげる。あのどうしようもない不良だったあんたがねぇ。今回の入隊試験って、正規軍の試験だったんでしょ? へぇぇ……」
「だから、そんなに意外がるな! 俺の死んだじいさんはロムド正規軍で隊長までしてるんだぞ」
「だからって、孫までそんなふうに出世できるとは限らないじゃない。でも、確かに正規軍に入隊したのはすごいと思うわ。シルの町ではたぶん五年ぶりくらいよね」
「じいさんはじいさん、俺は俺だ」
とジャックは言いました。妙に真剣な顔つきになっています。
「じいさんが隊長だったから俺まで出世できるほど、軍隊は甘いもんじゃねえ。実力で上がっていくしかねえんだよ。確かに俺はこれまでどうしようもない屑みたいな人間だったけどな、でも、その気になればきっと上に行けるはずなんだ。こんな俺でもな。そのために入隊したんだ」
リサはまた、ひどく驚いた顔になりました。つくづくとジャックを見つめてから、あきれたようにちょっと笑って見せます。
「ずいぶんと変わったわねぇ、ジャック。フルートに影響されたんじゃないの?」
とたんに、ジャックは不機嫌な顔になりました。うるせえ! と昔のように乱暴にどなります。
「フルートは関係ねえよ! これは俺が自分で決めたんだ! 俺は変わる! 変わってみせる! それをおまえに見ていてほしいんだ! で――本当に俺が変われたら――結婚してくれ、リサ」
リサは、ぽかんとジャックを見つめました。冗談でしょ? と言おうとしましたが、ジャックの真剣な表情を見てことばを呑みます。とまどってまたそらした顔が、みるみる耳まで赤くなっていきます。
「今すぐ返事する必要はねえ」
とジャックは言いました。
「でも、俺が自分でも納得するくらい変われたら、その時に必ずプロポーズに来る。それまで待ってろ――いや、待っていてくれ」
リサはやっぱり顔をそむけたままでした。ジャックを振り向きません。そうして小川を見つめながら、リサは言いました。
「それ……別の女の子に言ってあげなさいよ、ジャック……。それくらい本気なら、きっとあんたに惚れてもいいって思う娘もでてくるわよ。あたしみたいなきつい女じゃなく、もっと優しい娘を選びなさいってば……」
「馬鹿、俺は――!」
とまた声を荒げかけて、ジャックは急にはっとしました。確かめるような目になって、リサの後ろ姿を見つめてしまいます。
「もしかしておまえ……他に好きな男がいるのか?」
どきりとしたようにリサが顔を上げたのが見えました。何も言わなくても、その態度がはっきりと答えを言っています。
ジャックは、かっとなりました。
「誰だ、そいつは! 俺の知ってるヤツか!?」
力ずくで向き直らされて、リサは迷惑そうな顔をしました。
「やぁねジャック。いないわよ、そんな人。ただ、あたしはジャック相手にはそんな気になれないって――」
けれども、ジャックはまたふいに気がついてしまいました。ひらめくように頭に浮かんできた人物がいたのです。思わずまた声を上げてしまいます。
「フルートか! フルートなんだな――!?」
リサの顔が、いきなり青ざめました。気の強い彼女が言い返すこともできないで立ちつくします。大きな黒い瞳が今にも泣き出しそうににらみつけてきます。やっぱり、とジャックは考えました……。
けれども、リサはすぐに頭をそらして、ふん、と鼻で笑いました。
「冗談はやめて、ジャック。なんであたしがフルートなんかを好きでなくちゃいけないのよ。そりゃ確かに最近はけっこうしっかりしてきたみたいだけど、フルートはフルートよ。昔はあたしの後ろに隠れてぴーぴー泣いてたんだから」
「だが、あいつは金の石の勇者だぞ。闇と戦って、世界中を救う勇者だ」
ジャックが低く言うと、リサはまた肩をすくめました。
「それでもよ。あの子、あたしより二つも下じゃない。いくら勇者だって優しくたって、年下じゃ、全然つりあわない――」
そこまで言ったとたん、リサのことばがとぎれました。急に声が出なくなったのです。そんな自分に驚いたように、リサは喉元に手を当てました。黒い瞳が涙でうるんでいます。
ジャックは声が出ませんでした。リサが涙ぐんでいるところなど、初めて見たような気がします。
その時、店から老婆の声が聞こえてきました。客だよ、いつまで油を売ってるんだい!? と怒っています――。
リサは我に返ると、ジャックに向かって口を尖らせました。
「さあ、話は終わりよ。あたしは忙しいの。もう仕事の邪魔をしないでちょうだいね」
それだけを言うと、くるりと背中を向けて店へ行ってしまいます。駆けていく後ろ姿は、怒っているようにも、泣いているようにも見えました。
茫然とそれを見送ったジャックは、やがて、ちぇっと口の中でつぶやいて、足下から石を拾い上げました。ごつごつと角張った石肌を手の中で確かめながら、ひとりごとを言います。
「やっぱり、俺の前に立ちやがるのかよ、フルート――!」
大きな体で思いきり振りかぶって小川の中にたたき込めば、石はどぶん、と深い音を立てて川底に見えなくなっていきました。後から後から流れてくる水が、川面の波紋をたちまち消してしまいます。
「こんちくしょう!!」
ジャックは悪態をつくと、肩を怒らせながら立ち去っていきました。