一人の少年が夜の街角に立っていました。星のまたたく空の下、星よりまばゆい繁華街の灯りが大人たちを誘っています。酔った男の声や女の嬌声が通りに響きます。
少年は汚れた布を頭からかぶって、自分の姿を人目から隠していました。輝く銀の髪に浅黒い肌、右が青、左が金の色違いの瞳という容姿は、夜の中でも目立ちます。しかも、どんなに痩せて汚れていても、整った顔立ちは隠しようがありません。まともに姿を見せれば、こういう子どもを好む大人たちから目をつけられてしまうのです。
実際、さっきから大人たちが通りしなにじろじろと彼を眺めていました。こんな時間に、こんな場所に立つ子どもの目的は決まっています。品定めをするような視線が少年の痩せた体をなめ回し、布の奥をのぞきこんで隠された顔を確かめようとします。
少年は黙ったまま後ずさり、細い横道に入りこみました。誰かに絡まれては面倒になります。かび臭い壁に貼り付くように身を寄せて、暗がりの中から通りへ、じっと目をこらします。
少年の名はユギル。その色違いの瞳は底なしに暗く、ただ怒りと恨みだけをありありと浮かべていました。
ユギルはマントのようにかぶった布の下で一本のナイフを握りしめていました。人の命を奪う凶器です。
今まで、どんなに盗みや喧嘩を繰り返してきても、人をあやめたことだけはありませんでしたし、仲間の少年たちにも厳しくそれを守らせてきました。その一線を越えないことが、自分たちなりのけじめだと考えていたのです。
けれども、それも今夜限りです。大切な仲間たちは一人残らず罠にはめられて、ある者は殺され、残りの者たちは憲兵に連行されていきました。つかまった仲間たちがどんな目に遭わされたのか、ユギルにはわかっていました。もう生きて彼らに遭えることはないのです。二度と決して……。
ユギルは歯ぎしりをしました。冷たいナイフを力を込めて握り直します。許せない者たちは数え切れないほどいますが、その中でも絶対に許すわけにはいかないのは、自分たちを罠にはめたあの男です。
通りからひときわ賑やかな声が聞こえてきました。若い男がこちらへ近づいてきます。相当酔っていて、まわりに数人の女たちをはべらせてご機嫌でいます。
ユギルは色違いの目を細めました。あいつらを売った金で豪遊か、と冷ややかにつぶやきます。
自分には、まわりの誰もがこちらを見なくなる瞬間がわかります。その隙に至近距離まで近づいて、あの男の胸にナイフを突き立てれば、それですべてが終わるのです。
暗がりの中にユギルはじっと潜んでいました。ためらいはまったくありません。ただ、憎い相手を殺せる瞬間が訪れるのを待ち続けます。
すると、いきなり一人の女が甲高い声を上げました。
「さわるんじゃないよ、助平ッ!!」
派手な格好をした女の体に、通りすがりの酔っぱらいが手を出してきたのです。酔っぱらいが笑いながら何かを答え、女がそれをまたののしります。他の女たちと若い男は思わずそちらに注目しました。周囲の通行人たちも騒ぎに目を奪われます。誰一人、こちらを見る者がいなくなります――
ユギルは暗闇の中から動き出しました。布の陰の顔を伏せたまま、素早く横道から出ます。痩せた少年が音もなく若い男に近づいていくことに、誰も気がつきませんでした。ユギルは、布の下の抜き身のナイフを男に向けて構えました。
すると、いきなりユギルの後ろから太い腕が伸びてきました。少年の顎の上に強く絡みつきます。
ユギルは仰天しましたが、腕で口をふさがれているので声が出せません。そのまま引きずられるようにして、また横道の暗がりに引き戻されてしまいました。
ユギルは、かっとしました。男を殺そうとしているのを見つかったのか、それとも、男色趣味の大人につかまったのか。いずれにしても自分には敵です。絡みつく腕にナイフの刃を突き立てようとします。
とたんに、すぐ後ろからこんな声がしました。
「早まるんじゃないよ、まったく。今の子どもはすぐに死に急ぐんだからさ」
それは男の声ではありませんでした。腹の底に響く力強さがありますが、まぎれもなく女の声です。それと同時に、ナイフを握るユギルの手が、もう一つの手につかまれました。大きな手のひら、太い手首、太い腕。むき出しになった腕にはたくましい筋肉が浮かび上がっていて、ユギルの手の動きをがっちりと抑え込んでいます。
けれども、ユギルは目を丸くして、自分の手をつかむ指を見つめてしまいました。節くれだった太い指の先には、長く形良く伸ばして赤いマニキュアを塗った爪があったのです。驚いた拍子によろめくと、後ろの人物にぶつかりました。丸く大きく盛り上がった胸が少年の痩せた体を受け止めます。ぷん、と強い香水の香りが鼻をつきます。
それは大柄な中年の女でした。長い髪を太い三つ編みにして、派手な刺繍をした灰色のドレスを着込んでいます。その瞳は黒く、肌はユギルと同じように浅黒い色をしていました。
驚いて何も言えなくなっている少年に、女がまた言いました。
「早まってどうなるもんでもないだろ。あいつを殺したら、あんたは間違いなくつかまって死刑だ。結末が見えてないわけじゃないんだろう、占い師?」
ユギルはさらにびっくりしました。相手の腕を振りほどくと、顔を見られる心配も忘れて、頭から布をはずして、つくづくと見上げてしまいます。自分をつかまえて、いきなり「占い師」と呼んだ人間は初めてです。
すると、女はユギルに負けないほど目を丸くして、からからと声を上げて笑い出しました。
「こりゃまぁ、なんてべっぴんな男の子だろうねぇ! これで占い師だなんて詐欺(さぎ)もいいとこじゃないか!」
ユギルは顔をしかめて相手を見上げ続けました。どこの誰かわかりませんが、まったく図々しい女です。けれども、笑いながら自分を見る目は、同時に遠いどこかを見ているような、不思議なまなざしをしていました。この世とは別の世界に何かを見いだそうとする者に特有のまなざしです。
ユギルは思わず言っていました。
「あんた、誰だ? ……占い師なのか?」
すると、女は大きな口で、にいっと笑って見せました。
「あんたもわかるんだね。そうさ、あたしも占い師だよ。名前はマグノリア。マギーって呼んどくれ」
屈託もなくそう名乗ります。ユギルはいっそう用心深く見返しました。
「で。俺に何の用だよ」
「馬鹿な真似はおよしって言ってんのさ。仲間の仇討ちか何かしらないけどね、あいつを殺したら、あんたの人生はどう抵抗したって終わりだよ。あたしとしては、若くて優秀な占い師をむざむざ見殺しにはしたくないのさ」
「余計なお世話だ。あんたに何がわかる」
冷たい拒絶を込めて言い切ると、女がまた笑いました。
「誰のことも信じられない、って感じだねぇ。子どもはもっと素直でいるもんだよ。どれ」
女が一歩近づいてきたとたん、ユギルの腹にものすごい痛みが走りました。息が詰まって思わず気が遠くなります。女の大きな拳が少年のみぞおちを打ったのです。
「やれやれ。手がかかること」
女は一人でつぶやいて笑うと、崩れるように倒れた少年の体を軽く小脇に抱えました。表通りでは若い男が、命を狙われていたことも知らずに、女たちとまた歩き出すところでした。マグノリアと名乗った女は、ふふん、と皮肉な笑いを浮かべると、ユギルを抱えたまま横道の奥の暗がりへと姿を消して行きました――。