「な、なに? なんなの、今の?」
光が消えて、急に暗くなったように見える洞窟を、少女はきょろきょろと見回していました。
時の翁は声が出ません。願い石は、少女を新しい主人に定めたのです。
すると、ふいに背の高い女性が少女の前に立ちました。炎のように赤い髪を結って垂らし、火花のように赤く輝くドレスをまとっています。願い石の精霊でした。燃えるような姿とは裏腹な、冷ややかなほど無感情な声で尋ねます。
「三十分間、大人の姿になること。それがそなたの真の願い事だ――。間違いはないか?」
少女は目を丸くしたまま願い石の精霊と時の翁を見比べました。
翁は必死で言いました。
「あわてるでない、願い石! それは子どものたわごとじゃ、ぞ! 子どもは大人に憧れるものじゃ。大人になったり、子どもになったり、行ったり来たりをしてみたいと願うもんじゃ。それは、その子の真の願い事などでは、ありゃせん、ぞ!」
とたんに、少女がぷっと不満そうな顔に変わりました。翁のことばに機嫌を損ねたのです。頭をそらして長身の精霊を見上げると、気の強そうな声で答えました。
「ええ、そうよ。あなた、もしかして魔法使いなの? それじゃ、今すぐあたしの願いをかなえて! あたしは大人になりたいの。それも、素敵な大人の女の人によ! 本当に三十分でいいわ。今すぐ、あたしを大人にして!」
「承知した」
願い石の精霊が答えました。とたんに、その姿がかき消えます。赤い光が広がり、少女の小さな姿を光の中に包み込みます――
やがて光が消えたとき、そこには妙齢の女性が立っていました。背はあまり高くありませんが、プロポーションの良い体を精霊のような赤いドレスで包み、髪を結い上げています。ふっくらしたバラ色の頬をしていますが、確かにあの痩せた少女がそのまま大人になった顔立ちをしていました。
「わ、あ!」
女性が鏡の中の自分を見て歓声を上げました。ドレスの裾をひるがえしながら、くるくると何度も鏡の前で回転し、満面の笑顔になり、やがて時の翁に言いました。
「ね、見て見て、おじいさん! いいでしょ!? あたし、こんな大人の女の人になりたかったんだ! うわぁ、素敵! 嬉しいっ!」
――姿形は大人になっても、心の中身は少女のままのようでした。
時の翁は何も答えませんでした。願い石に願いをかなえてもらったとき、人は必ず、なにか大切なものを奪われていきます。けれども、こんな願いがかなった様子を、翁は今まで見たことがなかったのです。何が引き替えに奪われていくのか見当がつきません。そもそも、一定時間大人になりたい、などという子どもじみた夢を願い石がかなえたこと自体、翁には信じられませんでした。
すると、赤いドレスを着た娘は、ぷうっとふくれっ面になりました。本当に、大人の姿になっても表情や感情は少女の時と少しも変わっていません。
「どうしてなんにも言ってくれないの? そんなにあたしの格好って変? あたし、そんなにみっともない?」
「いや、そんなことは。とても素敵じゃ、よ」
と老人はあわてて言いました。そう言ってやるしかありませんでした。
娘はたちまち機嫌を直すと、うふふっ、と嬉しそうに笑いました。翁の目の前でくるりと回ると、ドレスの裾が花のように開きます。それがゆっくり舞い下りたところで、娘は裾をつまんで優雅におじぎをして見せました。また、とびきり嬉しそうに笑います。
「ねえ、踊ろう、おじいさん! あたし、一度でいいから男の人とダンスしてみたかったんだ! 踊れるのよ。でも、パパたちがダンスパーティに行かせてくれなかったから。ね、ね、あたしと一緒に踊って!」
「い、いや、しかし、わしは踊ったことなぞ、今まで一度も……」
「適当でいいって! せっかくこんな素敵な格好になってるんだもの、ダンスくらいさせてったら。あ、でも音楽がなかったら踊れないかぁ――」
それまではしゃいでいた顔が急に悲しそうになります。
時の翁は思わず頭をかきました。
「音楽か、ね。踊れるなら、適当でいいんじゃ、な?」
念を押しながら、壁の鏡へ手を振ります。
「映せや、時の鏡。ここにいる娘のために、踊りの夢を華やかに映し出せ!」
とたんに、鏡が生き返り、大勢の人々の姿を映し出しました。
娘は目を丸くしてそれを眺めました。見たこともないような服を着た人々が音楽に合わせて踊っています。音楽の調べもそれを奏でる楽器も、娘がこれまで一度も聴いたことのないものです。けれども、人々はやっぱり男女一組になり、音楽に合わせて踊っています。手を取り合い、顔を見合わせて、軽やかにステップを踏みます。色とりどりの衣装が羽のようにひるがえり、まるでおとぎ話に出てくるエルフたちの舞踏会のようです。
ぼうっとそれを眺め続ける娘の前に、時の翁が手を差し出しました。
「踊らんのか、の?」
娘はとまどいました。
「だって、おじいさん、踊れないって――」
「この曲は、なんとなく、覚えがあるんじゃ、よ。たぶん、どうにか踊れるじゃ、ろう」
「で、でも、あたしが……あたしがわからないわ、この踊り……」
「なぁに、大丈夫じゃ、よ。曲に合わせれば、なんとかなる、て」
娘はそっと自分の手を老人の手に重ねました。成長した娘は、ほんの少し、時の翁より背が高くなっていました。音楽に合わせて、老人が踏み出しました。とまどう娘を上手にリードしながら、広くもない洞窟の中を、滑るように踊り始めます。娘のドレスの裾が揺れ、華やかにひるがえり始めます。
やがて、娘は驚きから喜びの顔に変わっていきました。老人の腕に身を任せ、流れる調べと一つになって踊ります。
「すごい、おじいさん! すごい、すごいわ――!」
歓声と笑顔がはじけました。
ちょうど三十分後、娘の魔法は解けました。赤いドレスは元の白い服に、バラ色の頬の娘は、またやせっぽちの小さな少女に戻ります。けれども、その顔はずっと笑顔のままでした。
「ああ、楽しかった!」
と少女は言って座りこみました。三十分間の時間ぎりぎりまで踊り続けたので、息をはずませています。さすがの時の翁も息を切らしていました。
「はてはて、年を考えずに、ちと張り切りすぎたか、の」
と顔の汗をぬぐいます。
少女はまた楽しそうに笑いました。
「おじいさん、すっごく上手だったわね! 本当に王様と踊ってるみたいだったわ! ものすごく気持ち良かった!」
「そうか、ね」
老人は目を細めてその笑顔を見つめました。心の奥で、この少女から何が奪われていくのだろう、と考えます。少女の願いは、本当にささやかなものでした。三十分間だけ大人になって、大人の男性と踊ること。ただ、それだけの願いです。これくらいのことならば、願い石も大したものは奪わないのではないか、と期待するような気持ちがよぎります。
すると、突然娘の体が崩れました。その場にうずくまり、激しく震える体を自分で抱きしめます。その顔色は真っ青でした。
「ど、どうした!?」
時の翁は仰天して駆け寄りました。少女は激しく震え続けています。青ざめた額から脂汗が流れていきます。
「発作……あたしの持病なの……」
と少女はあえぎながら言いました。老人はうろたえました。そういえば、この少女は病弱だったのです。その体で大人になって、しかも長時間踊り続けたために、か弱い体に一気に負担がかかったのに違いありません。
「馬鹿なことを。願い石に奪われたのじゃ、ぞ。大事な、あんたの体力、を」
強い後悔と共にそうつぶやくと、少女は苦しみながらも、顔を上げて老人を見ました。そこにはまだ、ほほえみが残っていました。
「いいんだ……わかってたから……。ずっと、神様にお願いしてたから……。三十分でいいから、大人の姿にしてください。そして、王子様か王様と、ダンスを踊らせてください……って。この夢がかなうなら、あたしの命を捧げてもいいです、って……」
「馬鹿な!」
老人はまた言いました。思わず強い口調になっています。
ふふっ、と少女は笑いました。その顔色は血の気が失せて、蒼白になってきています。それでも、少女の口調は楽しそうなままでした。
「あたしはね、おじいさん……大人になるまで、生きられなかったの。いつもは元気なんだけど……時々、発作が襲ってくるの。そうすると、どんどん痩せて弱っていってね……大人になるまでは生きられない、って、お医者様にも言われていたの……。だから、あたし、どうしても大人になってみたかったんだ。短い時間でいいから、ホントに三十分だけでいいから……大人になって、そして、素敵な男の人と踊りたいな、って……」
支えた翁の腕の中で、少女の痩せた体がみるみる力を失っていきます。ぐったりと腕に寄りかかりながら、少女は老人を見上げました。
「ねえ……おじいさんは魔法使いなんでしょう? だから、あたしのお願いをかなえてくれたのよね……。こんなやせっぽちな姿じゃなくて、元気な大人の女の人になりたかったの……。嬉しかったなぁ。ねえ、あたし、とても綺麗だったでしょう?」
少女が笑いかけてきます。長いまつげに囲まれた黒い瞳が、うるんだように笑みを浮かべます。老人は何も言えませんでした。
ふうっと少女は溜息をつきました。遠くへ吹いていく風の音のような声で、こうささやきます。
「ねえ、おじいさん……おじいさんはやっぱり、王様なんでしょう……? 時の王様……。だから、あたしを大人にしてくれたのよね……」
ダンス、楽しかったね、と少女はつぶやくように言いました。
老人は首を振りました。わしはそんな者じゃない、ただの時の翁じゃよ、と言おうとします。
けれども、翁は声をとぎらせました。抱き支える腕の中で、少女がもう息をしていないことに気がついたからです。
やせっぽちの小さな少女は、白くなった顔に、幸せそうな笑みを浮かべていました――。
オパールの壁と黒大理石の床に囲まれた岩屋で、時の鏡が銀色に戻りました。過去の夢を映し終えたのです。ただ老人の姿だけを映します。
「そう、か。風呂に入ったのは、あの時以来だったのじゃ、な」
と時の翁はつぶやきました。もじゃもじゃにもつれ合い、木の根のようになったひげをなでます。
あの後、老人は少女の亡骸を山のふもとの少女の家に運び、少女のベッドに横たえました。夕方になって戻った両親が、亡くなっている娘を見つけるだろう、と考えたのです。時の洞穴も閉じました。願い石が消えてしまったので、もうその場所にいる必要はありませんでした。
そして、老人はまた待ったのです。願い石がこの世に復活してくる時を。そこにまた時の岩屋を作り上げ、人が願い石を尋ねてくるまで、ずっと石の番をし続けました。時の夢を映す鏡を作りながら。
願い石がこの岩屋に生まれてから、三百年が過ぎていました。だから、あの少女に出会って、無理やり風呂に入れられてから、三百年以上がたっている、と言うことです。下手をすれば、四百年くらいの時間が過ぎているのかもしれません。
汚れきって石のようになったひげや髪と、それにおおわれて何も外から見えなくなっている自分の姿を眺めます。なるほど、それほどの時間が過ぎているならば、この格好も当然か、と考えます。
「久しぶりに、風呂に入ってみようか、の」
と老人はひとりごとを言いました。遠い遠い昔、自分のひげを引っ張って風呂に引きずっていった少女を思い出して、思わずそっと、ほほえみます。
「それとも、やめておこうか、の。人と出会えるのは楽しいことじゃが、別れるときが、つらくなるから、のう」
老人はしばらく思案するようにうつむいていましたが、やがて、顔を上げると、虹色に輝く岩屋とずらりと並んだ時の鏡を見回しました。
両手を高く掲げて呼びかけます。
「閉じよ、時の岩屋! おまえの役目はもう終わった! 鏡の中に時の夢を閉じこめ、再び願い石が目覚めるときまで、深い眠りにつくがいい」
色を失うように、時の岩屋が消えていきました。虹色の壁も、黒い床も、無数の鏡も、薄れるように消えていきます――。
その時、時の翁の耳の底に、こんな声がよみがえってきました。
「ぼくたちは、あなたのことを覚え続けます。ぼくたちが死んでしまうまでの間だけど、それでも、あなたのことは忘れません」
ついさっき、ここを立ち去っていった、優しい勇者の少年の声でした。それに、昔々の少女の声が重なります。
「ねえ、おじいさんはやっぱり、王様なんでしょう? 時の王様――」
時の翁、じゃよ。と老人は心でまたつぶやきました。時のじじい。ただ、時と共に生き続ける年寄りなんじゃ、よ、と。
老人はこれからも生きていくのです。人の生と死を見つめながら、たったひとりで、永劫の時間の中を――。
翁の小さな姿は岩屋の跡から音もなく消えて、地中は暗くなりました。
The End
(2007年3月28日初稿/2020年3月19日最終修正)