願い石の戦いはすべて終わりました。子どもたちと皇太子は地下深い場所にある時の岩屋を出て、また地上に戻っていきました。
時の翁は岩屋の入口を魔法でふさぎました。通路をたどる子どもたちの声が、急に聞こえなくなり、岩屋にまた静寂が戻ってきます。
「さて」
と時の翁は岩屋の中を見回しました。虹色に光るオパールの壁の上に、何万枚もの大きな鏡がずらりと並んでいます。銀の縁飾りの美しい鏡ですが、どれも曇りガラスをはめ込んだように、何の景色も映してはいません。
黒大理石の床の上には、人々が戦っていった跡が残っています。割れた鏡、砕けた岩のかけら――そのなかには、堅き石と願い石を隠していた岩の柱の残骸もありました。
ふ、と時の翁は笑いました。魔法の石を持ち去った者のことを考えます。彼ならば石の魔力にも打ち勝つでしょうか。それとも、いつかやっぱり他の者たちと同じように、石の誘惑に負けて自分の願いを語り、引き替えに破滅の道をたどるのでしょうか……。時の鏡に問いかけても、鏡は何も答えません。それは誰にもわからない未来なのです。
すると、突然、すぐ近くの鏡が一つ生き返るように輝き出しました。銀色のガラスの表面に、時の翁の姿を映し出します。
「おや」
老人は思わず声を上げ、鏡の中をつくづくのぞき込みました。もじゃもじゃにもつれ絡まったひげと髪におおわれた、自分の姿を眺めます。ひげも髪も表面には汚れやふけがこびりつき、それがもう石のように固まっています。老人が思わずひげをしごくと、ひげの隙間からちらりと服の端がのぞきます。元の色が何色だったかもわからないほど色あせた、ぼろの切れ端のような服でした。ひゃひゃひゃ、と老人は風が吹き抜けるような声で笑いました。
「我ながら、みごとな格好じゃ、の。もう何年風呂に入っておらんか、のう。……よう思い出せんが」
いいながら、老人はたった今立ち去っていった子どもたちを思い出しました。長年風呂にも入らない汚れきった体は、耐えがたい悪臭を放っています。それは老人自身も承知しています。けれども、子どもたちは一言もそれに文句を言いませんでした。少女たちでさえ、顔をしかめながらも、何も言いませんでした。
「実に、行儀のいい子たちじゃった、の」
と老人はまた面白そうにつぶやきました。岩屋の中にそれに応える人は誰もいません。無数の鏡に取り囲まれた中、時の翁は一人きりなのです。
ふと、遠い遠い昔に、誰かそんな自分に盛大に文句をつけた者がいたような気がしました。けれども、あまりに時間がたちすぎて、それが誰だったのか、どんな場面だったのか、老人には思い出すことができません。風呂に入れ、と言われたような気がするのですが……。
老人はしばらく考え込むと、おもむろに、自分を映す鏡へ手を向けました。突然流暢な口調に変わって、こう唱えます。
「映せ、時の鏡よ。わしから立ち去りし時の記憶を、その銀の表に呼び戻すのだ」
鏡の中に一つの光景が映り始めました。そこは、明るい日差しが外から差し込む、浅い洞穴の中でした――
「おじいさん、何してんの?」
突然少女の声に話しかけられて、時の翁は驚いて顔を上げました。洞窟の入口に子どもが立っています。外から差し込む日の光の中、ほっそりした体が影のように浮かび上がって見えます。
時の翁は答えました。
「鏡を、作っとるんじゃ、よ。時の鏡、じゃ」
言いながら、こんな子どもが結界を越えてきたのか、とまた驚きました。願い石はこの洞窟の中にあります。翁はここに来るとすぐに洞窟のまわりに強力な結界を張り、本当に願い石を求める者以外は結界を越えてこられないようにしていたのです。
「鏡?」
と子どもが言いながら洞窟の中に入ってきました。長い髪を二つに束ねてたらした、白い服の痩せた少女です。まつげの長い、大きな黒い瞳をしていました。珍しそうに洞窟の中をきょろきょろ見回します。
「あたし、うちの裏山にこんな場所があるなんて知らなかった。おじいさん、いつからここに住んでたの?」
人見知りする様子もなく話しかけながら老人に近づいてきます。年の頃は十一、二歳というところでしょうか。幼い子ども時代を過ぎて、ほんの少し大人の自覚が芽生えてきた、この年代独特の顔つきをしています。
「ほい、ご近所さんじゃったか、ね。そりゃ、引っ越しのご挨拶もせんで、失礼した、の」
と翁は答えました。また鏡作りに戻ります。時々こういうことはあります。結界は人の心に恐れを起こし、その場所に近づきたくない気持ちにさせるのですが、どういう理由か、ごくたまに、そんな結界の影響を受けにくい者が現れるのです。
そういう者たちは願い石の存在を知りません。翁としても教える義理はありません。ただその場所に流れて住みついた浮浪者のようにふるまいます。
すると、少女が突然ぴたりと足を止めました。洞窟の壁で光る大きな鏡を、びっくりしたようにのぞき込みます。老人は最近ここにたどりついたばかりです。完成した鏡は、まだその一枚だけだったのでした。
「綺麗な鏡」
と少女は言いました。鏡に自分の姿を映しながら、くるくると体を回します。――本当に痩せて小さな少女でした。よく見ると、時の翁より背が低いくらいなのです。その年齢にしては、とても小柄だと言えるでしょう。
けれども、少女は生き生きと輝く黒い瞳で鏡をのぞき込んでいました。服の長い裾を引っ張ってしわを伸ばし、おさげの髪をなでつけ、にっこり自分に笑いかけます。痩せた顔がかわいらしい表情を浮かべます。
けれども、少女はすぐに不満そうな顔に変わりました。鏡に映る自分の顔に顔を近づけてつくづく見つめると、急に眉をひそめて、あかんべぇをします。
「いやよねぇ、こんなやせっぽち。顔色も良くないし、チビだし、スタイルも悪いし。ぜぇんぜん美人じゃないわ」
「美人になりたいのか、ね?」
と時の翁は細工仕事を続けながら尋ねました。
――世界一美しくなることや、永遠の美貌を求めて、女性が願い石の元へ来ることもあります。こんなに幼くても、やっぱり女は女、かの、と心の中でつぶやきます。
すると、少女は真剣に鏡をのぞきながら答えました。
「ううん、違うわ。ただ、こんなに子どもなのが嫌なのよ。あたしは早く大人になりたいんだ」
唇をとがらせたまま、またくるりと鏡の前で回転し、社交場で大人の女性がするように、服の裾をつまんでおじぎをします。
老人はひげと髪の奥で思わずほほえみました。それは確かに切実な願いでしょう。子どもはいつだって、早く大人になりたい、早く一人前になりたい、と心から願うのです。けれども、願い石はその願いはかなえません。時がたてば、願い石の魔力がなくても、子どもたちは大人になっていくからです。
このぶんなら心配ない、の、と時の翁はまた心でつぶやきました。
少女が鏡から離れて、また洞窟の奥へ歩いてきました。珍しそうに老人の手元をのぞこうとします。老人の枯れ枝のような手と古ぼけた道具が、信じられないほど精巧な細工を鏡の縁に刻み込んでいます。
ところが、少女がまた、ぴたりと足を止めました。今度は思い切り顔をしかめ、きょろきょろとあたりを見回してから、老人に向かって突然叫び出しました。
「くっさぁぁーーーーいっ!!! 臭うわよ、おじいさん!! ものすごく、くさいっ!!!」
と鼻をつまみながらわめき立てます。
「ほい、そうかね。……もう何十年も、風呂に入っておらんから、の。いや、百年を、越えてるかもしれん、が」
と老人は思わず頭をかきました。痩せた指が髪をかきむしると、表面にこびりついた汚れの塊が、ぼろぼろと石灰のかけらのように落ちてきます。少女は真っ青になって悲鳴を上げました。
「な、何十年!? 百年!? なにそれ、そんなにお風呂に入ってないわけ!? 信じらんない!!」
「いやその……風呂に入るのも、面倒で、の」
老人がなおも頭をかくと、少女はまた金切り声を上げました。
「やめて! 頭をかかないでよ、ふけが飛び散るでしょ! ノミやシラミもいるんじゃないの!? うちに来て! お風呂に入れてあげるから!」
「いや、わしは――」
少女がこんな老人を連れ帰ったら、少女の家人が何というか、時の翁には容易に想像がつきます。手を振って断ろうとすると、少女は言い続けました。
「ダメ! 絶対にダメよ! うちの裏山にこんな汚いおじいさんがいるなんて、ぜぇったいに我慢できない! いらっしゃいったら! お風呂に入って、髪の毛もひげも全部綺麗にするのよ! 早く!」
それでも老人が渋っていると、いきなり少女はつかつかと歩み寄ってきました。片手で鼻はつまんだままで、もう一方の手でいきなり老人の長いひげをわしづかみにします。
「あいたた! な、なにをするんじゃ!」
少女に思い切りひげを引っ張られて老人が悲鳴を上げると、少女はそれよりもっと大きな声でどなりました。
「いいから、うちに来るのっ!! 早く!! 来ないと、ひげを全部引っこ抜いちゃうから!!」
痩せて小柄なのに、少女は意外なほど力があります。死にものぐるいで引っ張っているのです。これには時の翁も降参するしかありませんでした。少女に引きずられるようにして、洞窟を出て山を下りました――。