北の大地は白い世界です。一年中ブリザードが吹き荒れ、決して溶けることのない雪と氷が見渡す限り広がっています。真夏にさえ氷点下が続く、厳寒の世界なのです。
けれども、その世界にも人は住んでいました。うさぎのような耳をして、体を毛におおわれているトジー族です。彼らは北の大地に適応して、長い年月の間に体を変化させてきたのでした。
彼らは氷を削った家に住み、村や町を作って助け合っていました。その中でも一番大きな町がダイトです。千人を超すさまざまな職種の人々が、賑やかに暮らしています。
「今日も大猟だったねぇ」
ダイトに向かって雪原を走るそりの中で、女が言いました。長い耳をしたトジー族で、分厚い毛皮の服を着込んでいます。フードから突き出た耳とフードの奥の前髪は、輝くような銀色です。灰色の瞳がそりの中の獲物を眺めていました。銀ギツネ、キタウサギ、雪オオカミ……何頭もの死んだ獣が積み込まれています。
話しかけられた男が、御者席から振り返って、にやっと笑いました。こちらも分厚い灰色の毛皮を着込んでいますが、長い耳はありません。フードの奥には茶色がかかった赤い髪とひげが見えます。背は高くないものの、とてもがっしりした体格をしているのが、毛皮の上からでもわかります。この北の大地には住んでいるはずのない、ドワーフの体つきです……。
「おまえの占いのおかげだぜ、レンラ」
と男は女に言いました。
「大したもんだよな。おまえが水晶玉で占ったことは、なんでも百発百中だ。おかげで俺はいつ狩りに出ても外れ知らずだ。上物ばかり仕留められる」
すると、レンラと呼ばれた女が笑いました。鈴を転がすような声が響きます。
「あたしは獲物が現れる場所を教えてあげられるだけさ。そいつを仕留められるかどうかは、あんた次第。あんたの猟師の腕がいいんだよ、グランツ」
ふふん、とドワーフの男も笑いました。得意そうな顔です。その背中には短い弓と矢を入れた矢筒がありました。ドワーフは普通地下から貴金属を掘り出し、それを加工して生活するのですが、彼は非常に珍しいことに、猟師を生業にしているのでした。
ダイトの市場で獲物を金に換えた後、彼らはまたそりを走らせました。そりを引く灰色のトナカイが、氷の路面に蹄の音を響かせます。通りもそこに面した建物も、すべて氷を削り出して作られています。白、白、白……白一色の世界です。
男はそりの手綱を握りながら、しばらくその景色を黙って眺めていましたが、町を抜けて再び雪原に出ると、ふいに口を開きました。
「俺は山へ帰ることにした」
トジー族の女は驚きましたが、すぐに小さく笑って、うなずきました。
「きっと、そう言い出すだろうと思ってたよ」
「止めないのか?」
男が意外そうな顔になって聞き返します。
「止めたら残ってくれるのかい? あんたはいつか、この北の大地から去っていく。それはあたしの水晶玉にもちゃんと映っていたんだよ」
妙に明るすぎる声でした。作り笑いの声です。
レンラ、と男は言うと、走るそりから振り返り、いきなり女のフードを脱がせました。そりに吹きつける冷たい風が、女の髪をあおって吹き流します。銀の髪に銀の長い耳、小作りな顔は意外なほどかわいらしい表情をしています。
その顔を見つめながら、男が言いました。
「俺と一緒に北の峰へ行こう、レンラ。ここは一年中、白一色の冷たい冬だが、北の峰には四季がある。春の燃える若草色、初夏のけむる緑、真夏の暗い深い緑、秋の紅葉、冬の白と黒の木立……花が咲く、蝶も飛ぶ、鳥もさえずる……北の峰は美しいところだぞ」
その色とりどりの光景が見えているように、男は遠いまなざしになっていました。
「この北の大地で来る日も来る日も雪と氷だけを見ていて、はっきりわかった。俺は、やっぱり自分の山が好きなんだ。何もない、つまらない場所だと思ってきたが、寝ても覚めても、思い出すのはあの山なんだ。洞窟のドワーフどもも、了見の狭い下らない奴らだとばかり思ってきたが、こうしてみるとたまらなく懐かしくなる。俺はやっぱりドワーフだ。だから、北の峰に帰る。だが――おまえとは離れたくないんだ、レンラ」
レンラは灰色の瞳を見張りました。男の顔は真剣です。褐色の瞳が、じっと彼女を見つめています。
けれども、やがてレンラは目を細めて微笑すると、そのまま顔をそらしました。
「あんたが連れて行きたいと思っているのはあたし? それとも、あたしの透視力? あたしが一緒にいれば、絶対に食いっぱぐれることはないもんねぇ」
とたんに、男は顔を歪めて女の腕をつかみました。怪力にレンラが悲鳴を上げると、男はどなりました。
「見損なうな! 惚れた女を連れて帰りたいと思うのが、そんなにおかしいか!? 俺と一緒に来い、レンラ! おまえに世界を見せてやる!」
女は思わず泣き出しそうになりました。泣きそうな顔のまま、笑って見せます。
「嬉しいね、グランツ。あんたにそんなふうに言われるなんてさ。あんたはドワーフだし、あたしはトジー族。そんなこと、絶対に言ってもらえないだろうと思っていたのにね」
「それじゃ――」
男が顔を輝かせました。そりはいつの間にか雪原の真ん中で停まっていました。
すると、レンラは首を横に振りました。
「行けないよ、グランツ……。あんたには雪と氷しかないつまらない世界に見えるかもしれないけどね、ここはあたしにとっては世界中のどこより美しい故郷なんだよ。あんたが北の峰を愛してるように、あたしはこの北の大地を愛してる。そして、あたしはトジー族だ。この寒い場所こそ、あたしの生きていく場所なのさ」
男は思わず絶句しました。女はほほえみを浮かべたまま続けます。
「あたしは見てのとおり、ほんとに小さい。力もないし、働くことさえできないよ。でもね、あたしには透視力がある。占いならば誰にも負けない自信があるのさ。人々はあたしを占い姫と呼ぶ。でも、年を取って、姫と呼ばれる代わりにおばばと呼ばれる歳になっても、あたしはずっと北の大地の占い師として生きていきたいんだよ。――あんたが、死ぬまで猟師として生きていたいと思うようにね」
男は何も言えずに、ただただレンラを見つめました。ドワーフの彼よりも小柄な彼女が、何故だかとても大きく見えます。
レンラが手を差し伸べてきました。
「元気でお行きよ、グランツ。あんたの山を大切にね。あんたの上に、北の大地の女神の守りがありますように」
男は笑いました。胸の内の気持ちも言いたいことばもなにもかも、笑顔の奥に押し込めて、ただ女へこう言いました。
「俺の山には北の大地の女神の守りは届かないぜ。祈るなら、あの空にしてくれ。空ならどこまででも続いているから」
レンラはまたほほえみました。
「それじゃ、空の精霊があんたとあんたの山を祝福してくれるように……。ねぇ、グランツ、あたしは、さようならは言わないよ。いつかどこかで、思いがけない形でまた会えるかもしれないからね」
「それは予言か?」
と希望を持つように男が聞き返しました。レンラは笑い返しました。
「違うさ。でもね、人生なんて、いつだってそんなもんじゃないか。そうだろう?」
謎めいた女のことばに、男はあいまいな表情でほほえみ返しました。
雪原を風が吹き渡り、薄い地吹雪の中に彼らの姿を隠していきました――。