探偵アップル外伝 「6時の尋ね人」
      朝倉玲 


 「お願い! 助けて、アップル!!」

 突然事務所に飛び込んできた叫び声に、明子はびっくりして顔を上げた。
 奥のデスクで資料を整理していた真一も、目を丸くして振り返る。
 入り口に立っていたのは、今にも泣き出しそうな顔をした、若い女性だった。どうやら、この事務所まで全力で走ってきたらしい。セミロングの髪を振り乱し、肩で息をついている。ノースリーブの花柄のワンピースにスニーカーという組み合わせが、何ともちぐはぐな印象だ。
「和美・・・! どうしたのさ、いったい!?」
 と明子は驚いて彼女にかけ寄った。
 真一も、素早く外の通路に出ると、あたりを確かめてからドアを閉めた。
「怪しい奴はいないようだぜ。・・・どちら様だ?」
「鈴木和美さん。僕の大学時代の同級生だよ」
 明子はそう言いながら、友人をソファに座らせ、安心させるように話しかけた。
「もう大丈夫だよ、和美・・・。どうしたの? 誰かに追われたのかい?」
 すると、鈴木和美は激しく首を振り、持っていた紙バッグを、放り投げるように押しつけてきた。
「これよ、これ! あたしもう、気味が悪くて 気味が悪くて・・・」
「?」
 明子はちょっと首を傾げながら、バッグを開いてみた。
 中には大きめの茶封筒がひとつだけ。手に取ってみると、分厚くふんわりした感触の中に、固い手応えがあった。壊れ物などを送るときに使う、クッション材入りの封筒だ。逆さにしてみると、封を切った口からテーブルの上へ、ことりと固いものが落ちてきた。
 −−−女物の、腕時計だった。


 ここは杜(もり)の都、仙台市。
 9月の街は、夜ともなるとだいぶ涼しさを感じるようになっていたが、日中はまだまだ残暑が厳しい。
 そんな街角に建つ、古い雑居ビルの中に、明子たちの事務所はあった。
 「北条私立探偵事務所」……所長は探偵アップルこと、北条明子。年齢25歳。徹底した男装に男言葉の、風変わりな女探偵だ。
 所員の岡崎真一も25歳、通称はルパン。あだ名の通り変装の名人で、情報収集や特殊工作を担当する、頼もしい片腕だ。
 所員にはもう1人、明子の妹の紀子もいるのだが、今日はアルバイトに出てしまって、留守にしている。あまりはやらない探偵事務所なので、そうでもしなければ生活できないのだ。
 とはいえ、彼らの実力はなかなかのもので、これまでにも大きな殺人事件を警察と一緒に解決したことがあるのだが・・・まあ、彼らの説明は今はこのくらいにして、話を先に進めることにしよう。


 明子はテーブルの上の腕時計を手に取ってみた。
 長方形の銀色の文字盤に、黒い本革のベルト。文字盤の12時の位置に埋め込まれた赤い石が目をひく。小さいが、本物のルビーだろう。全体に、誰かが使っていた跡があり、時計の針は、6時ちょうどをさしたままで停まっていた。
「それ、昨日、突然アパートに送られてきたのよ」
 と気味悪そうに和美が言う。言葉だけでなく、自分自身も思いきりソファの端に寄って、出来るだけ腕時計から離れようとしている。
「和美のものじゃないのか」
 と明子が言うと、彼女は頭がもげそうなくらい激しく首を振った。
「ぜんっぜん、知らないわよぉ! 見たこともない時計よ! それに、ねぇ、アップル。あたし、今のアパートに一昨日(おととい)引っ越してきたばかりなのよ! まだ誰にも引っ越し先を教えてないのに、どうしてあたしの住所が分かったわけぇ・・・!?」
 叫び声が引きつって、今にも泣き出しそうになる。
 だが、誰にも引っ越し先を教えてなかった? と明子が意外そうに聞き返すと、たちまち和美は鼻白んで、弁解するような口調に変わった。
「きゅ、急な引っ越しだったのよ・・・教えたくない人がいたからさ。落ち着いたら、友達とかには教えるつもりだったんだけど・・・」
「つまり、恋人と喧嘩したんで、そいつに知られないうちにアパートを変えたってことか」
と真一が遠慮会釈(えんりょえしゃく)もないことを言う。
 和美は、じろっとそれをにらみつけると、明子にくってかかった。
「アップル、あなたったら、よくこんな人を彼氏にしてられるわね。デリカシーも礼儀もないじゃないの。信じらんない!」
 明子は思わず苦笑してしまった。
 このヒステリー気味な友人の性格はよく分かっている。真相を言い当てられると、こんな風に相手にかみつき返してくる癖があるのだ。 それでもまあ、それほど悪意があるわけではないので、明子は大目に見ることにしているのだが・・・。
 言われた真一の方も、ちょっと肩をすくめただけで、涼しい顔をしている。
 明子は苦笑を微笑に変えると、息巻く友人にやんわりと話しかけた
「まあ、他人の趣味のことは今は置いといてさ−−−まずは、この時計のことだろう? これ、昨日のいつ頃送られてきたんだい?」
 和美ははっとした顔つきになると、また気味悪そうな表情に戻って、ぼそぼそと答えた。
「昨日の・・・午後1時頃よ。買い物から戻ってきたら、ドアのポストに入っていたの。一応あたし宛じゃない? 不思議だったけど開けてみたら、わけの分かんない腕時計が出てくるし・・・時刻は6時ちょうどに合わせてあるし・・・なんか急に怖くなっちゃって、あたし、そのままアパートを飛び出して、昨夜はホテルに泊まったのよ」
 明子は話を聞きながら、腕時計の入っていた封筒の方を眺めていた。
 封筒の裏には、差出人の名前も住所もない。表には、郵便番号と仙台市若林区の住所、そして、『フローレンス・ハイツ』というアパート名があって、『鈴木一美様』と書かれている。
「あれ、この字・・・?」
 と明子が眉をひそめた。友人の名前は『一美」』ではなく『和美』だ。
 すると、和美が口をとがらせて言った。
「しょっちゅうよ、こんな間違い。もう慣れっこだわ。和美っていってるのに、克美(かつみ)なんて書かれることもあるしさ」
 それから、和美は急に口調を変えて、不安そうに尋ねてきた。
「それ、さ、何か変な仕掛けとか、してない? 腕時計型の盗聴器とか発信器なんての、ホントにあるんでしょう?」
 どうやら、和美は自分がストーカーにつきまとわれているのではないかと考えているようだった。
 実際、それも考えられる話なのだ。誰にも知らせずに引っ越ししたはずなのに、翌日には、正体不明の人物から女物の腕時計が送りつけられてきたのだから。誰か、彼女に固執する人間がいて、こっそり引っ越し先までつけてきたのだとすれば、つじつまは合う。
「それ、6時ちょうどに合わせてあるじゃない? あたし、なんだか6時に誰かが来るような気がして、気味が悪くてアパートにいられなかったのよ。今朝も、10時過ぎてからアパートに戻ったの」
 と和美は話し続ける。
「誰か訪ねてきた形跡はあったかい?」
 と明子が尋ねると、友人はべそをかきそうな顔になって、ソファの上で膝を抱え込んだ。
「分かんないわよぉ、そんなこと・・・。あたしが戻った時には、誰もいなかったけどさ。もし、それが盗聴器だったら、あたしが部屋に戻ったのもすぐに分かっちゃうじゃない? かといって、その辺に捨てるのも、後で何か起きそうで怖いし・・・それで、あなたの探偵事務所を思い出して飛んできたのよ。タクシーでこの近くまで来て、ここの看板が見えたから、あとはもう夢中で走ってきたの」
「分かった、調べてみよう」
 と明子は腕時計を真一に手渡した。渡しながら、注意しろよ、と、そっと目配せをする。
 腕時計型の秘密機械には、いろいろな種類がある。盗聴器や発信器はもとより、小型カメラやボイスレコーダー、時には武器や小型爆弾が仕込まれていることもあるのだ。
 これをスパイ小説の中だけのことと思ってはいけない。腕時計は普段身につけていても怪しまれないので、万年筆などと並んで、実際に工作されやすい物なのだ。
「どれ、それじゃ見てみるとするか。・・・おふたりさん、手元が暗くなるから、ちょっとどいててくれないか」
 と真一は何気ない口ぶりで明子と和美を遠ざけると、今まで明子が座っていたソファに腰を下ろして、長さ5センチほどの薄い金属板を取り出した。それを時計の裏に当てて、あっという間に裏蓋を開けてしまう。
「・・・LR45のボタン電池1個使用。他には何もなし、と。では、こっち側はどうだ・・・?」
 独り言のように言いながら、今度は小さなドライバー状のもので表のガラスを外し、器用な手つきで針と文字盤を取り除く。
 −−−と、その肩が、ほっとしたように、ほんの少し下がった。
「何もない。ただの時計だ」
「ただの時計!?」
 失望の響きもあらわに聞き返したのは、和美だった。どうにも納得がいかない、と言う顔でくいついてきた。
「それじゃ、なんでそんな物があたしのところに送られてきたのよ!? ただのプレゼントだって言うの? 誰かが使ってたお古の腕時計なんて、あたし、頼まれたって使わないわよ!」
「そんなこと、俺が知るか。俺は見たままを言っただけだ」
 素っ気なく答えながら、真一は時計を元通りに組み立て直し、明子と場所を交代しながら、それを返した。
「よく調べてみないと分からんが、多分、電池切れで動かなくなっているんだろうな。裏蓋のパッキンの状態から見て、製造後2、3年ってところだ。そう古くもないし、かといって新品でもないってやつだな」
「製造後2、3年・・・」
 つぶやきながら、明子は改めて腕時計を眺めた。ガラスの表面に薄い傷はいくつもついているが、本体にもベルトにも、目立った大きな傷はない。持ち主は、かなり丁寧にこの時計を使っていたらしい。
 明子はそのまましばらく考え込んでから、和美に尋ねた。
「アパートに、他に鈴木って名字の人はいるかい・・・?」
「いないわ。それくらいは自分で調べたわよ」
 と、すっかりへそを曲げた声で和美が答える。
 明子は、ふむ・・・とまた考え込むと、やがて、おもむろに顔を上げた。
「和美、アパートの大家さんの電話番号を教えてくれ」
「大家さんの? どうしてそんな−−−」
 と言いかけて、和美は口をつぐんだ。明子の表情が、それまで見たことがなかったほど真剣になっていたからだ。鋭い瞳が、体の向こう側まで見透かすように、じっと見つめている。
 和美はあわててショルダーバッグの中をかき回すと、メモ帳のアドレス欄を広げて差し出した。
「こ、ここよ。日中なら、多分いるはずだわ」
 明子はうなずいて、電話をかけ始めた。電話は間もなく通じたが、話が終わるまでの10分ほどの間、和美は何も言わずにソファの片隅に控えていた。

 電話が終わると、明子はふうっとため息をつき、友人に向かって微笑みかけた。
「大丈夫だ、もう心配ないよ。やっぱり、ここのアパートには鈴木一美って人がいたんだ。平和の『和』じゃなくて、数字の『一』のほうの一美さんさ。まだ若い男性で、1年近く前に引っ越していったんだってさ」
 とたんに、和美はへなへなとその場で崩れて、ソファの背にぐんにゃりともたれかかった。
「ああもう、びっくりしたぁ・・・。アップルったら、ものすごく怖い顔するんだもん。何かとんでもない事件だったのかと思っちゃったじゃないの。・・・同姓同名の男の人? それで、間違ってあたしのところに配達されてきたのね」
「105号室にいたらしい。和美の部屋は?」
「201号。そう言えば、封筒の宛名には部屋番号も書いてなかったわねぇ。・・・あぁあ、大騒ぎして馬鹿みたいだった!」
「でも、これで安心しただろう?」
 明子は、さらに優しく微笑みながら言った。まあねぇ、と和美はまた、ため息をつく。
「調べてみれば、なぁんだ、ってことよね。そうっか。大家さんに確かめれば良かったのか。それなのに、あたしったら、昨夜はホテルに泊まっちゃったりして・・・とんだ出費だったわ。ホント、はた迷惑」
 言いながら、彼女はのろのろとソファから立ち上がった。
「ありがと、アップル。あたし、帰るわね」
 安心して、緊張の糸が一気に切れてしまったのだろう。和美は、来たときとはうって変わった、疲れ切った様子で、そのままドアから出ていった。さよなら、さえ言わなかった。
 例の腕時計はテーブルの上に残されている。
 明子は腕組みをして、じっとそれを眺め続けていた。その真剣な表情に、真一が声をかける。
「なんだ。やっぱり、その時計に何か秘密があるのか?」
「事件、ってわけじゃないよ」
 明子は苦笑し、前髪をかき上げながら答えた。
「ただ、ちょっと・・・どうして、この時計が鈴木一美氏に送られてきたのかな、と思ってね」
「女物の時計だろう? 別れた彼女がプレゼントを返してよこしたんじゃないのか」
 どうしてそんなことを疑問に思うんだ、という調子で真一が答える。
「じゃ、どうして今頃送ってきたんだろう? 一美氏が引っ越したのは、もう1年近くも前のことだよ」
「今までは処分しようにも未練があって手放せなかったが、ようやく気持ちの整理がついたから、ってのはどうだ? だが、大切にしてきた時計だけに、捨てるのもしのびなくて郵便で返してよこした、と。別に不自然じゃあるまい?」
「うん、筋は通ってる」
 と明子はうなずいたが、相変わらず、その目は腕時計を見つめたままだった。
 大切に、大切に使われてきた時計−−−送るときにも、壊れないよう、丁寧に扱われて−−−
 それは、そのまま送り主の気持ちの表れではないだろうか? 未練が断ち切れたから送り返してきた、と言うには、あまりにも濃い想いが残っているように見えるのだ。
「疑問はまだある」
 と明子は言った。
「どうして、送り主は自分の名前や住所を書かなかったんだろう?」
「書かなくても、時計を見れば、一美氏には誰から送られたか一目瞭然だったから。あるいは、一美氏に今の住所を知られたくなかったから」
 と真一が、あくまで別れの儀式という立場から見解を述べる。
 すると、明子は輝く瞳を上げて、真一を見つめ返した。
「もう一つ、可能性があるよ。時計が配達先不明で自分のところに戻ってきては困るから」
「送り主は一美氏が引っ越しているのを知っていたってのか? じゃ、どうして元の住所に送ってよこしたり・・・あ、郵便局の転送サービスか!」
 真一はパチンと指を鳴らした。郵便局に転居先の住所を知らせておけば、1年間は引っ越し先に郵便物が転送されるようになるのだ。
 明子はまたうなずいて言った。
「さっきの電話では、大家さんも一美氏の転居先は知らなかったんだ。何でも、急に故郷に帰ることになって、会社を辞めて引っ越していったらしい。この時計の持ち主は、一美氏の行方が分からなかったんじゃないかな? それで、郵便局が転送してくれるのに期待をかけて、元の住所に送ったのさ」
「だが、一美氏は転居届を出していなかった、と?」
「分からない。出していたかもしれない。でも、同じアパートに、同姓同名の和美が引っ越していたから、郵便屋も、てっきりそこだと思って配達したんだ」
「まあ、そういう状況は分からんわけじゃないが・・・それならなおのこと、自分の住所を書かないのは不自然じゃないのか? うまく引っ越し先に転送されなかったら、時計は行き先がなくなって宙に浮くぞ。ま、現にもう、そうなってるがな」
 と真一は皮肉っぽく時計を見やる。
 明子はソファの背に倒れ込んだ。
「だから、気になるんだよ。どうして送り主はそんな賭(かけ)みたいなことをしたんだろう? 大切な時計が、どこかに行方不明になっても良かったんだろうか? ・・・いや、別れた彼氏からのプレゼントだから、とにかく手元から離したい、っていうことなら分かるけどさ・・・それなら、どうしてメッセージなんか込めたんだろう?」
「メッセージ・・・時計にか?」
 真一が聞き返した。
「針が6時ちょうどをさしてることさ。自然に停まったのなら、こんなきりが良い時刻には、まずならない。きっとこれは何かのメッセージなんだよ。一美氏になら、その意味が分かるんだ・・・」
 明子はまた、少しの間考え込み、くしゃくしゃと短い髪をかきむしると、上目づかいに相棒を見上げた。
「ルパン、また ただ働きになると思うけど、いいかな・・・?」
 真一は肩をすくめかえした。
「今さら何を言ってやがる。どうせ、いつものことだろうが」
 それを聞いて、明子も、にやっと笑い返した。
「サンキュ。そう言ってもらえると気が楽だよ。・・・のんのも呼び戻そう。なんだか、急いだ方がいいような気がするんだ」
 のんの、とは出稼ぎアルバイト中の妹のニックネームだ。彼女は、人物関係の調査にずばぬけた才能がある。
「急ぐ、って、それこそ6時に何かが起こるのか?」
「それは分からない・・・分からないんだけど・・・」
 明子はつぶやくように言いながら、腕時計を見やった。
 時計は文字盤の小さな石を赤く光らせながら、静かに時を停めていた・・・。


「あの工場よ、兄貴様(あにきさま)」
 と紀子が行く手の白い建物を指さした。「のんの」こと北条紀子は、ボーイッシュな姉を昔から兄呼ばわりしている。
 明子は流れ落ちる汗を拭きながら、「鈴木製作所」という工場の看板と、そのまわりの景色を眺めた。
 ここは、隣の福島県。宮城県との県境に近い小さな町の、工業団地の真ん中だ。まだ新しい工業団地なのか、全体に工場や建物の数が少ないので、景色が良く見通せる。遠くには青い山並み、西の方向には緑の土手がそそり立っている。その土手の向こう側には、阿武隈川が流れているのだ。
 目指す「鈴木製作所」は、工場にしてはこじんまりとした、2階建ての建物だった。前庭にはフラワーポットなどが並べられ、真夏のような日射しの中で、サルビアやマリーゴールドが美しく咲き誇っている。小さいが、よく手入れの行き届いた感じの工場だ。中からは、ひっきりなしに何かの機械音が響いていた。
 昨日、あれから「鈴木一美」という男性を追って調査に出た明子たちだったが、今朝になって、紀子が元の同僚を見つけ出して、引っ越し先の住所を聞くことが出来たので、3人でここまでやってきたのだった。
「鈴木一美氏は、工場の若社長だって?」
 と真一が紀子に尋ねた。
「うん。実家のお父さんが倒れたんで、急にそれまでの職場を辞めて戻ったらしいわ。で、それから間もなくお父さんが亡くなったんで、跡を継いだのね。大手おもちゃメーカーの下請けで、おもちゃの電子部品を仕上げているところらしいわ」
 言われて見れば、工場の駐車場には、とあるおもちゃメーカーのロゴが入ったトラックが、乗用車に交じって停まっていた。
「よし、会ってみよう」
 明子の一言で、3人は工場へ向かって歩き出したが、いくらも行かないうちに立ち止まってしまった。
 工場の入り口から、作業服姿の青年が、段ボール箱を山と積んだ台車を押しながら出てきたからだ。その左腕には、黒い革ベルトに長方形の銀の文字盤の、しゃれた腕時計が光っている・・・。
「鈴木一美社長−−−ですね?」
 と明子が声をかけると、青年は汗だらけの赤い顔を上げて、目を丸くした。
「そうですが・・・どちらさまでしょうか?」
「突然失礼いたします。仙台の探偵事務所の者ですが」
 明子が背広から名刺を取り出して差し出すと、青年はますます困惑した顔になった。
「信用調査ですか・・・? まいったなぁ。確かにこのご時世ですから、うちも儲かってるとはいえませんし、最近中国や韓国の工場に押され気味なのも事実ですけど、父が亡くなってから合理化を進めて、皆で必死に頑張ってるつもりなんですけどね・・・」
 本当に弱っているような青年の様子に、明子は思わず微笑んでしまった。この青年、まだまだ若社長ぶりが板についていないらしい。
「調査じゃありませんよ。実はちょっとお聞きしたいことがありまして・・・。この時計に見覚えはありませんか?」
 と背広のポケットから例の腕時計を取り出したとたん、青年の顔色が変わった。目を見張り、まさか、と叫んで飛びついてくる。
「ちょ、ちょっと、よく見せて下さい! 石はルビーですか!?」
 と言いながら、時計をひったくって文字盤の飾り石を眺める。そして、そのまま凍りついたように立ちつくしてしまった。
「やはり、ご存じでしたか」
 と明子が言うと、青年は我に返って、立て続けに尋ねてきた。
「これは由有子(ゆうこ)の時計じゃないですか! どうしてこれを!? 彼女は今、どこにいるんですか!?」
「由有子さんというのは、あなたの恋人だった方ですね」
 明子がそう確かめると、とたんに青年はいぶかしそうな表情に変わった。
「・・・結婚の約束までしていた人です。少なくとも、僕の方ではそのつもりでした。この腕時計は婚約指輪の代わりに買ったんです。ほら、これが僕の時計です」
 そう言って、明子たちが真っ先に気づいていた腕時計を、ぐいと差し出して見せる。先の時計よりひとまわり大きく、12時の位置の飾り石は水色をしていた。
「自分たちの誕生石に合わせて買ったんです。僕は3月生まれだからアクアマリン、由有子は7月生まれだからルビーがついているのを・・・。でも、由有子をご存じないのなら、どうして僕のことが分かったんですか?」
 そこで明子は、友人の鈴木和美の元へ腕時計が誤って配達されてきた話を聞かせ、時計が入っていた封筒も青年に見せた。
青年は封筒の表書きを見ると、由有子の字だ・・・とつぶやくように言ったきり、しばらく黙り込んでしまった。うつむいたまま、そっと目をしばたたかせている。
 明子たちが待っていると、青年はやがてまた口を開き、とつとつと話し始めた。
「彼女とは・・・由有子とは、3年前のクリスマスに知り合いました。友人に連れられて行ったクリスマスパーティーの会場で・・・。華やかなドレスの女性があふれてる中、彼女だけは地味なワンピース姿で、それが妙に目をひいたんです。僕自身、恰好のいい服なんて持ってなくて、普段着姿だったものだから、親近感を覚えて・・・で、話すうちに、すっかり意気投合しちゃって、つきあうようになったんです。・・・1月にはもう、結婚を決めていました。僕は安月給でダイヤの指輪なんてとても買えなかったから、時計屋でペアウォッチを買って婚約指輪の代わりにして・・・」
 青年はそこで小さなため息をついた。
「・・・ところが、10月に親父が倒れて危篤になったので、僕は急いで家に戻ることになりました。一応、僕は跡継ぎでしたし。それで、由有子に電話をかけて、一緒に来てくれるように頼んだんです。こんな田舎町のちっぽけな工場だけど、僕と一緒にやってくれる気はあるかい、って。正式なプロポーズのつもりでした。その時には彼女も承知してくれたんですが・・・次の日、約束の時間になっても、彼女は駅に現れなかったんです」
 きゅっと、青年は唇をかみしめた。きっとこの1年間、彼は何度となく唇をかんで、心の痛みに耐えてきたのだろう・・・。
「−−−その後、親父は意識が戻らないまま、11月に亡くなりました。その葬式や後かたづけがようやく済んで、やっと少し時間が出来たので、僕はまた仙台に行ってみたんですが、その時には彼女はもうアパートを引っ越した後で、どこへ行ったのか分からなかったんです。だから、僕もそのまま捜しませんでした。彼女はこんな田舎に来るのが嫌で、黙ってどこかに行ったんだろうと思ったから。・・・でも」
 青年は手の中の腕時計を見つめてから、弱々しく笑った。
「由有子はどうして今頃これを返してよこしたりしたんでしょうね・・・? 捨ててくれれば、それで良かったのに・・・」
 青年の親指が、時計の文字盤を優しくなでている。明子は少しの間、その手元を眺めていたが、おもむろに口を開くと言った。
「由有子さんは約束を破ったわけじゃないと思いますよ」
 青年は目を上げて苦笑した。
「いえ、もう過ぎたことですからね。慰めていただかなくても−−−」
 と言いかける青年を無視して、明子はさらに言う。
「待ち合わせの時間は、6時じゃありませんでしたか?」
 青年はびっくりしたように目を見張った。
「はい・・・始発の新幹線に乗るつもりだったので・・・でも、何時間待っても彼女は来なかったんですよ。・・・昼過ぎまで待っていたんですが」
 どうしてそんなことまで分かるんですか、という青年の質問も無視して、明子は話し続けた。
「原因が何だったのかは分かりません。でも、由有子さんは約束をきちんと守るつもりでいたんですよ。ところが、何かがあって駅に来られなかった。だから、その時計を6時に合わせて、あなたに送ってきたんですよ。約束は覚えていたのだと伝えるために」
 青年はまた、手の中の腕時計を見た。そんなまさか・・・と苦笑まじりにつぶやく顔が、みるみる真剣になっていった。
「本当に・・・そうだったんでしょうか・・・? 由有子が僕と一緒に来るつもりだったなんて・・・」
「彼女はどんな方でした? 約束を平気で破るような人でしたか?」
 青年は首を横に振った。
「優しくて・・・真面目な人です。でも・・・確かめようにも、僕には彼女の行き先が・・・」
「彼女の実家はどちらです?」
「たしか、白石ですが・・・」
「じゃ、そこにいる可能性が高いですね。ほら、時計を送ってよこした封筒には、白石市の郵便局の消印が押してあるんですよ」
 だが、青年はますます困った顔になった。
「で、でも、住所が分からないんですよ。白石だって広いのに・・・」 
 すると、明子はにっこり笑って、後ろに控える真一と紀子を青年に見せた。
「それなら大丈夫、僕たちに任せて下さい。きっと由有子さんを見つけだしてみせますよ。これでも僕たちはプロですからね」
「あなたのことだって、こうして探し出したんですよ」
 と紀子も笑顔で付け足す。
 青年は、戸惑ったように目の前の3人を眺めていたが、やがて、姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「どうか・・・よろしくおねがいいたします・・・」



 そして、翌日。
 明子と真一と紀子の3人は、無事に由有子嬢を見つけ出して、事務所でくつろいでいた。
 昨夜遅くにはもう一件落着して、仙台に戻ってきていたのだ。
「結局なぁに、すれ違いの原因は、午前と午後の取り違えだったわけ?」
 紀子が、アイスコーヒーをいれながら、あきれたように言っている。
 明子は苦笑しながら、片方の肩をちょっとすくめて見せた。
「そう言うなって。由有子さんは、一美氏が電話で言った『始発の新幹線に乗るから』って部分を聞き落としていたんだよ。6時に駅で、と言われたら、夕方の6時だと思うのも無理はないだろう。まして、その日は平日で、由有子さんには会社があったんだから。由有子さんの方でも、一美氏が駅に来るのを夜中まで待っていたのさ。終電が行ってしまうまで、ずっとね」
「お互い、相手に裏切られたと思ってたわけか。まるで、ふた昔前のメロドラマだな」
 と真一が皮肉っぽく笑うと、明子はまた肩をすくめ返した。
「いつの時代もそんなもんだよ、人間なんてのは・・・あ、サンキュ」
 明子は紀子からアイスコーヒーを受け取ると、氷を鳴らしながら、一気に半分近くも飲んだ。今日も外の気温は30度を越している。クーラーのかかった事務所にいても、暑さはひしひしと伝わってくるのだ。
「それにしても間一髪だったわよね」
 と言いながら、紀子がすとんとソファに腰を下ろした。
「由有子さん、明後日の日曜日には結婚式だったんですものね。お見合いで決めた相手と」
「そこに一美氏が現れて、式はご破算、と。こいつは一昔前の恋愛映画ってところだな」
 相変わらず皮肉っぽく真一が言う。しかし、その口調には、成り行きを楽しんでいるような響きがあった。
 明子は静かに微笑んだ。

 由有子の実家で話し合い、すれ違いの原因が分かって、誤解が解けたとたん、一美氏はきちんと居ずまいを正して、由有子の両親に頭を下げたのだ。
 ご無理は承知の上で、お願いいたします。どうか、明後日の結婚式をとりやめて、由有子さんと僕を結婚させて下さい−−−と。
 もちろん、由有子の両親は卒倒するほど驚き、猛烈に怒ったが、二人の固い決心の前に、最後にはとうとう匙を投げてしまった。どこへでも好きなところへ行って、2度と我々の前に姿を見せるな、と言い捨てて。
 由有子嬢は、眼鏡にロングヘアのおとなしそうな女性だったが、明子たちがこの成り行きを心配していると、穏やかに笑って見せた。
「大丈夫です。父も母も今は怒っていますけど、きっといつか分かってもらえますわ。いえ、分かってもらえるまで、一美さんと二人で努力しますから」
 だって、あなた方に結びなおしていただいた縁ですから、と由有子は、はにかんだように言った。 
 彼女があの腕時計を送ったのは、やはり別れの儀式だったのだ。
 あの日、一美氏が待ち合わせに現れなかったので、てっきり裏切られたと思いこんだ由有子嬢は、傷心のまま、故郷の白石へと帰ってきた。そして、周囲に勧められるまま見合いをして、とんとん拍子に縁談がまとまっていったのだが、彼女の心の片隅では、ずっと疑問がわだかまっていたのだ。どうして一美さんは6時に現れなかったのだろう。何かわけがあったのじゃないかしら・・・と。
 そこで、結婚式を目前にした、火曜日の夕方。彼女は思いきって腕時計を一美の元のアパートへ送りつけた。自分が約束の時間にずっと待っていたことを伝えるために、時計の針を6時にセットして・・・。
 封筒に差出人は書かずにおいた。もしも一美の転居先が分からなくても、時計が戻ってこないようにだ。一美との思い出がこもった腕時計を持って、別の男性の元へ嫁ぐつもりはなかった。
 だが、もしか、時計が一美の手元に届いたなら−−−そして、時計に込めた自分の想いが伝わったなら、それだけでも由有子の心は少しいやされる。
 ・・・あなたを待っていたのよ。愛していたのよ・・・
 時計はそう語りかけていたのだ。
 ところが、腕時計は同姓同名の女性の元へ誤って配達され、明子の事務所へ持ち込まれ・・・
 由有子自身、まったく期待していなかったのに、一美が由有子の元へ駆けつけてくる結果になった。
 これだけの幸運に恵まれたのですもの、両親の許しを得るまで努力することくらい、何でもありませんわ、と由有子は言って、また笑った。静かだが、底強いものを秘めた微笑だった−−−。

 「あの二人なら、きっとうまくやっていくわよね」
 と紀子が満足そうに言った。
 今回の一件は、依頼もないのに明子たちが勝手に動いた事件なので、謝礼や報酬はいっさい入らない。それどころか、3人がかりで調査に走り回った経費で、事務所はますます赤字になってしまった。それでも満ち足りた気分でいられるのは、あの二人の幸せそうな笑顔を見られたからだ。
「ところで」
 と口を開いたのは真一だった。
「今回、お前は一美氏や由有子嬢を見つけるのに、いやに急いでいたよな。由有子嬢の縁談に気づいていたのか?」
「確信してたわけじゃないけどね」
 と明子はまたまた肩をすくめ返して見せた。
「ただ、今度の日曜が大安だったから、結婚式か結納をその日に控えてるんじゃないかとヤマを張ったのさ」
「どんぴしゃり、か。−−−相変わらずだな」
 と真一が笑う。
 壁の時計は3時をさそうとしていた。それを見上げて、紀子が立ち上がる。
「じゃ、あたし、バイトに行くわね。−−−あ、そうそう、これ」
 と紀子がバッグから取り出したのは、例の腕時計だった。
「昨日はあの騒ぎだったから、由有子さんに返すの忘れちゃったわね。兄貴様、後で送ってあげたら?」
「そうだな」
 と明子が受け取るかたわらで、真一が面白そうに言う。
「あの一美氏のことだから、そいつを家宝にして一生大事にする、とか言い出すんじゃないのか?」
「かもね−−−」
 と明子もおかしそうに相づちをうったが、ふいに、あれ、という顔になった。
「のんの、時計の針を動かしたかい?」
「え? いいえ、何もしてないわよ」
 と紀子も目を丸くする。
 明子は腕時計に耳を押しあてると、つぶやくように言った。
「・・・動いてるよ。どうしてだろう?」
「俺が分解なんかしたから、そのショックでまた動き出したのかもな」
 と真一が言う。
 ふぅん、と紀子は笑った。
「あの二人の時間と一緒なのね。ずっと停まったままだったのが、また流れ出したんだわ−−−」
 何ともロマンチックきわまりないセリフだったが、明子も真一もそれを笑えなかった。思わず納得してしまったからだ。

 1年近くも眠り続けていた時計は、また時を刻み始めていた。
 ささやくような音をたてながら、何事もなかったかのように、ゆっくりと・・・・・・



 THE END


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