8章

 深夜。
 アパートの一室は真っ暗で、時計の秒針の音だけが規則正しく響いていた。

 と、窓際のカーテンが風にふわりと舞って、鍵の掛かっていたはずのサッシ窓が音もなく開いた。
 窓から部屋の中にすべり込んできたのは、黒い影のような男−−−。

 男は用心深く部屋の中を見回すと、ふっと息を吐いて、つぶやいた。
「なんだ、留守なのか。せっかく催眠ガスまで準備してきたのに」
 真一だった。
 黒い革のズボンとジャンパーを着込み、黒のゴム底靴を履き、黒い手袋をはめ、ご丁寧に頭には黒いターバンのようなものまで巻いて、上から下まで黒ずくめでいる。まるでアラビアあたりの義賊のような格好なのだが、真一には妙によく似合っていた。

 真一は、ジャンパーの上からはめた腕時計型ライトをともして、改めて周囲を見回した。
 薄暗い赤い光の中に、ぼんやりと部屋の中の様子が浮かび上がる。
 壁一面を埋めている大きな本棚、壁に作りつけのクロゼット、片隅には鏡台と机、窓とは反対の壁にはベットが押しつけられていて、花柄のベッドカバーがかけてある。クロゼットのわきのドアを開ければ、そこは狭いダイニングキッチンだったが、そこにも部屋の主はいなかった。
 真一は本棚の前に立つと、そっと低く口笛を鳴らした。
「ひゅう。すごい数だな」
 ずらりと並んだ本は、ざっとみただけでも4,5百冊は軽く越えており、歴史書あり、文学書あり、科学書あり、ペーパーバックの娯楽書ありと、ありとあらゆるジャンルの本が入り交じっていた。クレオパトラに関する研究所も何冊かあった。
「あの子はこれを全部読んでいるのか? アップルの本棚といい勝負じゃないか。ふふん、でも、やっぱり女の子だな」
 真一は妙に嬉しそうに、鏡台に並んだ化粧品の瓶と、一輪挿しのマーガレットの花を眺めた。
 それから、手袋のはまった手をぴしりとたたき合わせると、ごくごく低い声で呟いた。
「さて、仕事にかかるとするか」

 北条私立探偵事務所、諜報部門担当者、岡崎真一。
 彼が最も得意としている奥の手は、犯人とおぼしき人物の家に忍び込んで、証拠や手がかりを「盗んで」くることだった。
 今まで一度だって失敗したことはない。
 なにしろ、かつて美術品、宝石専門の泥棒としてヨーロッパや日本を荒らし回り、警察を手玉にとって、ついに一度も捕まらなかったという実績の持ち主なのだ。
 いろいろと経緯があって、今ではアップル探偵団のメンバーになっているが、結局の所は、盗みの対象物がちょっと変わっただけのことにすぎないのだった。
 紀子が正攻法で表から情報を集め、真一が裏から情報や証拠を盗み、明子がそれを分析して推理する−−−。これがアップル探偵団のやり方だった。

 真一は慣れた目で部屋の中の物をもう一度見回すと、まっすぐ机に近づいていった。鍵のかかった一番上の引き出しを針金一本で開けると、案の定、中に日記帳が入っていた。
「ごめんよ。これも調査のうちなんだ」
 その場にいない部屋の持ち主に謝ると、真一は日記帳を取りだして開いた。
 どのページも几帳面な女文字でぎっしりと埋まっている。
 真一は次々にページをくりながら、斜め読みしていったが、やがて、その手がピタリと止まった。
「これだ・・・見つけたぜ」

 真一は赤い光の下でそのページをくいいるように読んだ。
「やっぱりそうだったのか・・・アップルの言ったとおりだ・・・」
 妙に喉に絡んだ声でつぶやくと、真一はベルトのバックルから高感度カメラを取りだして、そのページに向かってシャッターを切った。その次の日のページも、そのまた次の日も・・・。
 シャッターの音が赤暗く染まった部屋の中に何度も響いた。

 と、真一の手の動きが、再び止まった。
 事件が起こった当日のページが、白紙になっていたのだ。
 真一はそこに限りなく深い悲しみと後悔を見たような気がした。


7章 その2へ戻る 9章 その1へ



人物関係図を見る

目次のページへ戻る

アサクラ私立図書館に戻る