7章 その2

「ちぇっ、人騒がせな連中だぜ」
 通路を歩きながら、真一がぼやいた。
「でも、これで容疑者が二人減ったよ」
 と明子は相変わらず冷静なまま言った。半ば考え込むような顔をしている。
「残るは、いよいよ本命の野々宮恭子か」
 と、真一はポケットの中から例の薬瓶を取りだした。
 分析の結果、中身はやはり青酸だったのだ。
 今日の夕方には、真一が野々宮嬢に会うことになっていた。

「あんなかわいい娘が二人も殺したなんて、考えられないよなぁ。宮島の言うように、アントニーが犯人じゃないのか」
 と真一は聞こえよがしに言って、横目で明子を見た。
 本気でそう思っているわけではない。挑発しているだけなのだ。
 見た目がかよわいからといって、中身までそうとは限らないことは、紀子の例でよく知っている。
 明子は肩をすくめると、冷ややかに言ってのけた。
「まあ、せいぜい彼女に口移しで毒を飲まされないように気を付けるんだな−−−」

 突然、明子の頭の中を閃光のようにひらめいていくものがあった。
 クレオパトラのマンションで現場を再現して以来、頭のどこかにひっかかっていたもの。
 その糸口が、いきなり見えたのだ。
 口移しの毒。
 それがキーワードだった。

 明子が急に通路の途中で立ち止まったので、真一が振り返った。
「どうした?」
 明子は真一の腕をつかむと、早口に言った。
「ルパン、クレオパトラとアントニーはどっちが先に死んだ?」
 真一は目をぱちくりさせた。
「どっちって・・・ほとんど同時だろう? 毒を飲ませ合ったんだから」
「じゃ、どっちが先に苦しみだしたか憶えてるか?」
「なんだ、そりゃ? 同時に苦しみだしたんじゃないのか?」
「そうじゃない。クレオパトラがまず顔色を変えて、それからアントニーがグラスを取り落としたんだ」

 真一は、あきれて明子を見つめた。
「不思議はないだろう。先に毒に口をつけたのはクレオパトラなんだ。当然だろ」
 だが、明子は興奮した顔つきで、真一の胸に握りしめた拳を叩き付けた。
「当然じゃないんだ−−−多分、当然じゃない! 確かめてみればすぐ分かる!」
 真一は、ちょっと首をかしげたが、すぐに、にやっと笑った。
「オーライ。探偵アップルの推理を拝聴しようか。事務所へ帰るんだな?」
 明子はうなずいて言った。
「のんのを呼びに行こう」
 そうして、二人は今にも駆け出さんばかりの勢いで、通路の外れのエレベーターへと飛び込んだのだった。

≫≫≫≫≫ ∞※∞ ≪≪≪≪≪

 「僕はあの晩、忠実に現場を再現しなかった」
 北条私立探偵事務所で、明子は紀子と真一に向かって話していた。
「だから、もう一度、事実通りにやってみたいんだ。ルパン、手伝ってくれ」
「ああ。だが、どこから再現するんだ? 口移しの場面からか?」
 真一としては半分以上冗談のつもりだったのだが、明子は、にこりともせずにうなずいた。
「そうだよ。だから、ここに来て片膝付いてくれ。のんの、コップに水を一杯頼む」
「やぁだ、もうちょっとロマンチックなものを口移ししてよ」
 紀子はこの成り行きをおもしろがって、笑いながらコップにサイダーをついできた。
 サイダーが水よりどれほどロマンチックなのかはさだかではなかったが、つぷつぷとわき上がる炭酸の泡がある分、水よりはシャンパンに近い感じがした。

「今回は足を踏まれたりしないんだろうな」
 と言いながら、真一が明子の前にひざまずいた。
 明子はコップを手に持つと、じっと中身を見つめ、一口含んで、真一と唇を合わせた。
 真一が気取ってそれを受ける。
 だが、ロマンチックなムードになる間もなく、明子は身を起こして難しい顔をした。

「案の定だ。僕はほとんど飲んでいない。この後は、アントニーがクレオパトラに返杯して、それから−−−」
「やってやるよ。待ってろ」
 この機会をのがすものか、と真一は勢い込んで立ち上がり、明子からコップを取り上げると、サイダーを口移しで明子の喉に流し込んだ。
 唇を合わせていた時間が、明子より大分長いようだった。
 それから、真一は唇をはなして、自分でも一口サイダーをあおり−−−

「ここだ!!」
 明子が出し抜けに叫んで真一の喉元に指を突きつけたので、真一は危なくサイダーで窒息しそうになった。
 明子は目をきらきらさせながら、まくしたてた。
「もしも、クレオパトラのグラスに毒が入っていたら、アントニーの方が先に苦しみだしたはずじゃないか! クレオパトラは自分の酒をほとんど飲んでないんだから! なのに、現実にはクレオパトラが先に苦しみだした! 何故? 毒はアントニーのグラスにだけ入っていたからだ!」

「でも、兄貴様、クレオパトラのグラスからも青酸が見つかったのよ−−−」
 紀子が、姉の興奮ぶりに戸惑いながら、口を挟んできた。
「後から誰かが入れたんだ! 二人が死んだ大騒ぎの間に! そして、そいつが犯人なんだ!」
 明子は興奮で顔を真っ赤にしながら、部屋の中をうろうろと歩き回った。
「青酸は一口飲めば次の瞬間には気分が悪くなるほど効き目が早い薬だ。そうだ、そこだったんだ。僕がひっかかっていたのは。クレオパトラのグラスに青酸が入っていたら、アントニーには返杯なんてする余裕はなかったはずなんだから」
「じゃ・・・犯人はアントニーだけを殺すつもりだったの?」
「おそらくな。とこらが、アントニーとクレオパトラがあんなやりとりをしたんで、クレオパトラまで死んでしまった。それで、犯人は慌てて、もっていた毒をクレオパトラのグラスに入れたんだ」
「予備の青酸を持っていたわけか」
 と真一が言うと、明子が、きらりと目を光らせた。
「いいや。おそらく犯人はアントニーを一緒に自殺するつもりだったんだ」
「じゃ−−−野々宮恭子!?」
 紀子と真一は同時に叫んだ。

 明子はソファに、どさりと腰を下ろし、すぐにまた立ち上がった。
「ルパン、今夜の野々宮嬢との約束はキャンセルしろ。彼女が犯人なら、正面からじゃ難しい。例の手で行こう」
「了・解」
 真一は、いつにも増して自信たっぷりに、にやりと笑うと、それ以上余計なことは何も言わずに、すべるように事務所から出ていった。

 それを見送ってから、明子は紀子に言った。
「明日になったら、塚口さんに報告に行ってくれ。多分、明日の夜には事件が解決できるだろうから、夕方、事務所に来るように伝えるんだ」
「いいけど・・・それぐらいなら電話でも充分なんじゃないの?」
 と紀子がけげんそうな顔をすると、明子はため息をついた。
「犯人は実はアントニーだけを殺すつもりだった。クレオパトラは誤って殺されたんだ−−−なんて言ってみろ。塚口氏は間違いなく野々宮嬢のところに飛び込んでいって、復讐しようとするぞ。犯人が分かった、と言っただけでも、野々宮嬢だと勘づくさ」
「塚口氏が暴走しないように見張ってろって言うのね。了解。じゃ、とりあえず今日はどうしましょうか。もうすぐお昼だけど」
「下の喫茶店からランチをとろう。で、六時になったら、僕に夕飯を運んでくれないか」
「あら・・・兄貴様、こもるの?」
「ああ。野々宮嬢がいつ毒を入れたのか考えてみる。なにか考え忘れてることもあるような気がするんだ」

 犯人がほぼ確定したにも関わらず、明子の頭の中には、まだ、何かがひっかかっていた。
 普通の人間なら気のせいぐらいで片づけてしまうような小さな小さなものなのだが、明子はなんとなく落ち着かなかった。
 確かめようとすると、ふいっと遠のき、無視しようとすると、またすぐ近くまで寄ってきて、明子の神経をひっかく。
 そこで、明子は仮眠室に「こもって」集中して推理してみることにしたのだった。

 紀子はそんな探偵アップルの癖を良く知っていたので、すぐにうなずいて言った。
「三時と六時にお茶と夕食を差し入れるわ。夕飯に何が食べたい? 兄貴様」
「腹に入るんなら何でもいい。どうせ味なんて分からないんだから。・・・ああ、でも、例のヤツだけは頼む」
「はいはい。果汁100%のりんごジュースね。兄貴様ったら、いくつになっても、こもる時にはこれなんだから。よく太らないと思うわ」
「みんな脳味噌の中で思考エネルギーに変わるのさ。りんごジュースは僕の灰色の脳細胞の活性剤だからな。じゃ、よろしく頼むよ」
 そう言い残すと、明子はドア続きの仮眠室へと姿を消していった。

 紀子は電話の受話器を取り上げると、一階の喫茶店に出前を頼んでから、馴染みの酒屋へ電話をかけた。
「もしもし、北条ですけど・・・いつもお世話になってます。また、例のモノを一箱届けてくださいな。ええ、三十缶入りのを−−−」
 明日の朝までには、三十缶のアップルジュースの大半が、明子の胃袋と灰色の脳細胞に消えていくのだった。 


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