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女は悲鳴を上げて逃げ続けていました。
これまで来たこともない山奥です。まだ春も早い時期なので、森の中には下生えもほとんどありません。逃げるには楽な道ですが、追ってくるものにも彼女の姿は丸見えになっています。たちまちその距離が詰まってきます。
後ろに息づかいが迫ってきました。短いうなり声も聞こえます。猛り狂う獣の声です。
女はまた金切り声を上げました。その声が獣をいっそう逆上させているのに、声を抑えることができません。
と、女は太い木の根につまずきました。前のめりに転び、胸をしたたかに打ちつけて、一瞬息が停まります。必死で身を起こしましたが、痛くて立ち上がれません。
獣が駆け寄ってきました。一声吠えて、まっしぐらに女に飛びかかってきます。大きく開いた口に牙が光り、突き出されてくる前足には太い爪があります。目にも留まらない速さで女の体をえぐろうとします。熊です――。
その時、女が上げた悲鳴に、びぃん、と震える音が重なりました。空を切り裂いて飛んできた矢が、熊の大きな背中に命中します。
吠えて振り向いた熊の前に、ひとりの男が現れました。茶色い髪、茶色いひげのまだ若い男です。毛皮の袖無しの上着を着込んだ体は、がっしりとたくましい体格をしていますが、その身長は驚くほど低く、立ち上がった熊の半分くらいしかありません。
女は目を見張りました。生まれて初めて見ましたが、この北の峰の地下に住んでいるというドワーフに違いありません。ドワーフは手にはまだ弦の震える弓を持っています。
傷を負わされた熊が、怒り狂ってドワーフの若者に向かっていきました。鋭い爪で男を殴り倒そうとします。
とたんに、また弓弦が鳴りました。新しい矢が熊の胸に突き立ちます。女は目をぱちくりさせました。あまり素早くて、いつ男が矢をつがえて放ったのかわからなかったのです。次の瞬間、男はいきなり弓を投げ捨て、今度は腰から山刀を抜いて切りかかっていきました。血しぶきが飛び、熊がまた吠えます。
山のドワーフだわ……と女はつぶやいていました。話に聞いてはいたのです。ドワーフたちは北の峰の南東にある洞窟に暮らしていて、地下から鉱物を掘り出しては細工して暮らしている。その煙や湯気が峰の谷間から噴煙のように上がって見える。けれども、ドワーフの中には、地下で暮らさずに山で猟をする変わり種もいるのだ、と。彼らは人間嫌いなので、いくら探しても山のドワーフに出会うことはない、とも言われていました。
ドワーフの山刀がまたひらめきました。毛がちぎれ、血しぶきがあたりの木々に飛び散ります。
女は思わずまた悲鳴を上げてしまいました。彼女はこれまで町で暮らしてきて、獣をしとめる様子など見たこともありません。恐ろしさに全身が震えます。
すると、その声に熊が振り向きました。熊の体は流れ出た血でべったりと濡れています。女を見据えた獣の目は、すでに正気を失っていました。
「いかん」
と山のドワーフが言いました。うなるような低い声です。
ずんぐりとした体からは想像もつかない素早さで女の前に飛び込むと、襲いかかってきた熊に山刀を突き出します。
すさまじい悲鳴を上げて、熊が、どうと倒れました。刀は熊の心臓を貫いたのです。大きな灰色の体が一、二度けいれんしたと思うと、そのまま動かなくなってしまいます……。
ドワーフの男は刀の血をぬぐって鞘に戻し、先に投げ捨てた弓も拾い上げて矢筒の中に収めました。おもむろに死んだ熊をひっくり返します。かなり大きな熊なので、いい値で売れそうです。――助けた女のほうは、ちらりとも見ませんでした。
すると、女が突然金切り声を上げました。
「ちょっと、あんた! なんであたしを無視するのさ!?」
熊に追いかけられていた女は、地面に座り込んだまま、顔を真っ赤にしていました。長いスカートをはいてコートを着込んでいます。春先の山の中は冷え込んでいたのです。こんな格好で、よく熊から逃げていられたもんだ、とドワーフは考えました。波打つ黒髪は、必死で走り続けたせいで、まるで藪のクモの巣のようにくしゃくしゃにもつれ合っています。そばかすの浮いた顔は美人ではありませんが、生き生きと輝く黒い瞳はけっこうチャーミングです……。
「おまえは人間だろう」
とドワーフはぶっきらぼうに言いました。人間はずるがしこくて身勝手なので、あらゆる種族から嫌われています。それでも悲鳴を上げて逃げているのを無視することができなくて、つい助けてしまったのですが、これ以上相手をする義務はありません。熊にまた目を戻します。この程度なら自分ひとりでも洞窟まで運べるでしょう――。
すると、女がまた叫びました。
「そうさ、人間だよ! それくらい見てわからないの!? 話ぐらいさせてよ!」
男がそっけなくあしらっても、負けずに食いついてきます。かなり気が強い女のようです。
「話すことなどないだろう」
とドワーフの男は答えました。元々女は苦手でしたが、騒々しい女はさらに苦手です。熊の死体を担いで離れていこうとします。
女がまた、わめきました。
「あんたにはなくたって、あたしにはあるんだよ! 待ってったら!!」
ドワーフは足を止めました。こんなことなら助けるんじゃなかったな、と心の中で考えながら、迷惑そうに振り向きます。
すると、その瞳をまっすぐに見つめて、女は言いました。
「助けてくれてありがとう――。あんたはあたしの命の恩人だよ」
男は目を丸くしました。自分はドワーフです。人間がドワーフにまともに礼を言ったことが信じられませんでした。思わず見つめると、女が急に、にっこりと笑いました。本当に、全然美人ではありません。それなのに笑顔は輝くように明るくて、男は思わず目を奪われてしまいました――。
女は笑いながら言いました。
「あたしはサラ。あんたの名前は? ドワーフさん」
「ビョールだ」
男は自分でも気がつかないうちにそう名乗っていました。
早春の山は、やっと木々の芽が動き出したばかりです。淡い緑色に包まれた森の中に、光がいっぱいに差し込んで、一組の男女を照らします。息絶えた熊を担いだドワーフの男と、地面に座り込んでいる人間の女です。女は日差しに負けないほど明るい笑顔を見せています。
ビョールはとまどったように女から目をそらしました。相変わらずぶっきらぼうに尋ねます。
「何故こんなところにいた。どこから来たんだ」
このあたりは北の峰でも特に奥深くて、人間などまず入り込まない場所でした。
サラと名乗った女は肩をすくめました。ちょっとしたしぐさが妙に茶目っ気にあふれて見えます。
「迷子になっちゃってね。北の峰の西にあるアニーって町から来たんだけど」
「アニーだと? ひとりで来たのか」
とビョールは驚きました。その町ならばビョールも知っています。年に二度ほど大きな市が立つので、そこへ獲物を売りに行ったことがあるのです。峰の西の麓にある町で、ここからだと歩いて二日はかかります。
「ちょっとわけがあってね。山に逃げ込んだら、下りる道がわからなくなって、こんなとこまで来ちゃったんだよ。熊にまで出くわしちゃうし、ほんとに、どうなることかと思ったわ」
けれども、そう話す女の顔は本当に屈託がありません。今度はいたずらっぽい少女のような笑顔を浮かべます。
その女の靴やスカートの裾が泥まみれになっているのに、ビョールは気がつきました。スカートやコートには何かに引っかけたようなかぎ裂きもいくつもあります。確かにこの女は長い距離、山の中を自分の足で歩いてきたのです。
女が荷物らしい荷物も持っていないので、ビョールはまた尋ねました。
「飯は? 夜はどうした?」
まだ春も早い時期です。山の中は明け方には氷点下にまで冷え込みます。
「夜中歩いて、昼間にちょっと寝たよ。寒くて夜は寝られなかったからさ。月が明るかったから、歩くのには困らなかったね。食事? 木の実、草の実、谷川の水――ってとこかな」
ビョールは今度はあきれました。それだけのことを、この女はなんでもないことのように、あっけらかんと話すのです。
少し考えてから、ビョールは言いました。
「ここで待っていろ」
そのまま自分より大きな熊を担いで森の奥へ姿を消していきます。あっという間のことでした。
後に残された女は、目を見張ったまま座り続けていました。
ビョールが戻ってきたのは、それから二時間ほど過ぎた頃でした。熊の死体はどこかへ置いてきたようで、代わりに大きな荷物を背負っていました。何故だか、ひどい仏頂面をしています。
サラは日だまりの木の根元に座っていました。いえ、木にもたれかかって眠っていたのです。周りにまだどんな危険な獣が潜んでいるかわからないというのに、無防備なほど安心しきった寝顔です。ビョールはまたあきれかえって女を眺めてしまいました。
すると、サラが目を覚ましました。ビョールがのぞき込んでいるのに気がつくと、またにっこりします。
「おかえり」
当然のことのように言われて、ビョールはとまどいました。
「本当に待っていたのか」
「だって、待ってろって言ったのはあんただろう?」
サラがおかしそうに言い返します。ドワーフの青年が適当なことを言って自分を置き去りにしたとは考えなかったのです。ビョールはまたしばらく女を見つめ、やがて、ぼそりと言いました。
「変な女だな、おまえは」
「うん、みんなから言われるよ。脳天気すぎるって、よく叱られるけどね。しょうがないじゃないか、生まれつきの性格だもん」
サラがあまり屈託なく開き直るので、ビョールは黙って肩をすくめました。担いできた荷物を下ろし、包みを取りだして差し出します。
包みの中から燻製肉をはさんだパンが出てきたので、サラは悲鳴のような歓声を上げました。次の瞬間には、大口を開けてかぶりつきます。――丸二日、ろくに食事もせずに山の中をさまよってきたので、実は死にそうなぐらい空腹だったのです。咽にパンを詰まらせかけて、ビョールが差し出した水筒の水で飲み下します。
すると、突然サラが泣き笑いを始めました。笑顔で涙を流し、むやみとそれをこすりながら、それでもパンを食べ続けます。ビョールが面食らっていると、サラは言いました。
「ありがとう。ほんとに生き返ったよ。あんたって本当に親切だね。ドワーフが冷たくて底意地悪いだなんて大嘘だ」
「どうかな」
ビョールは答えました。どんな顔をしていいのかわからなくなって、また仏頂面に戻ってしまいます――。
サラが食事を終えると、ビョールは言いました。
「来い」
森の中に向かって、さっさと歩き出します。サラはあわてて立ち上がって後を追いました。
「ま、待ってよ。どこへ行くの?」
「おまえの家はアニーにあるんだろう? 送ってやる」
サラは驚きました。そうすると黒い瞳がまん丸になって、また愛嬌のある表情になります。
と、その顔が急に困ったように眉をひそめました。
「えぇとさ……送ってくれるって言うなら、別の町にしてもらっちゃだめかなぁ。さっきも言ったろ? ちょっとわけありでね。アニーには戻りにくいんだけど……」
ビョールは何も言いませんでした。ただ黙って肩をすくめます。そのまま立ち去りそうな気配を感じて、サラはあわてて手を伸ばしました。男の毛皮の上着をつかんで引き止めます。
「待って! アニーでいいよ! アニーまで送って!」
ビョールは何も言わずに女を見つめました。本当だな、と聞かれているような気がして、サラは何度もうなずきました。
「ほんとほんと! アニーでいいよ! アニーに送って――ううん、送ってください!」
毛皮の上着をしっかりつかみ続けます。
ビョールは、ふいと顔をそらすと、森の奥を顎でしゃくりました。
「こっちだ」
と先に立ってまた歩き出します。その上着につかまったまま、サラは必死で後についていきました。
山の斜面を上り、沢に沿って下り、また次の尾根を上り、ビョールとサラは歩き続けました。
ビョールは猟師なので山歩きは慣れたものですが、人間のサラも意外なほど健脚でした。ビョールはかなりの速度で進んでいるのに、遅れることもなくついてきます。しかも、ずっとしゃべり続けているのです。サラはとてもおしゃべりな女でした。
「歩くのは得意さ。なにしろ貧乏で、馬車に乗る金なんてなかったからね。どこまででも歩いていくんだ。一日中歩き続けたって、なんでもないよ」
「あたしはずっと母さんと二人暮らしだったんだよ。母さんは長くわずらってたから、治療費稼ぐのになんでもやったなぁ。男に混じって重い荷運びもやったよ。やらなかったのは泥棒と身売りくらい」
「一番きつかったのは、真冬の洗濯だったかな。川で衣類を洗うんだけどね、洗い場になってる岸には氷が張ってるんだよ。それを割って洗濯するのさ。手があかぎれだらけになって、そこから血が出るから、洗濯物がまた汚れちまうのさ。そのままにしたらお客さんにどやされちゃうからね。必死で洗い直しさ。まあ、おかげでちょっとやそっとの寒さには負けなくなったけどね」
黙ってそれを聞きながら、ビョールは正直仰天していました。サラの話はどれも悲惨な思い出話ばかりです。なのに、この女はそれをなんでもないことのように、あっけらかんと話すのです。少しもつらそうな顔を見せません。黒い瞳は生き生きと輝き続けていて、その中を悲しみがよぎっていくこともありません。
この女は馬鹿なんだろうか? とビョールは考えました。愚かすぎて、自分がどんな境遇にあるのか理解できないんだろうか、と。
ビョールが返事をしなくても、サラは平気で話し続けていました。
「でも、母さんが去年の冬に急に具合が悪くなって死んじゃってね、あたしは、残った借金を返すのに家を売って、アニーの町で一番のお屋敷の住み込み女中になったんだ。ところが、ここのひとり息子がほんとに最低なヤツでさ! 若い女中って見ると手を出そうとするから、ぶん殴って逃げ出してきたのさ。お屋敷から追っ手がかかったから、あわてて山に逃げ込んで――気がついたら、こんな奥まで来てたってわけ」
ビョールは思わず立ち止まりました。女を振り返ってしまいます。
「それでおまえはアニーに戻りたくなかったのか。戻ったら捕まるのか?」
「さあ? たぶん大丈夫だろうとは思うけどね。あのお屋敷にはもう戻る気はないし。それに――」
珍しくサラが言いよどみました。不思議そうにビョールが見返すと、頬を染めて照れたように笑います。
「せっかくあんたが送ってくれるんだもん。こんな幸運を逃したら大変だもんね」
「なんだ。結局アニーに帰りたいのか」
とビョールは言いました。サラはそれには答えず、ふふふっと嬉しそうに笑い返しただけでした。
その夜、ビョールとサラは野宿しました。夜は冷え込むので、ビョールがたき火を起こします。そのぬくもりが届くところに、サラは毛布を絡めて横になりました。ビョールは自分の家からサラの分まで毛布を持ってきていたのです。
赤々と燃えるたき火の光が、夜の森を照らしています。揺らめく炎の輝きを眺めながら、急にサラが言いました。
「幸せだなぁ」
ビョールは炎のそばに座っていましたが、それを聞いて、思わずサラを見てしまいました。サラが続けます。
「夜にこんなにあったかく寝られるなんてさ。それに、あんたといれば、森の獣だって全然怖くない。山の中にいるのにこんなに安心して眠れるなんてさ――信じられないくらい幸せだよ」
サラは本当に嬉しそうに笑っていました。少しの陰りもない、底抜けの明るさです。
ビョールはその笑顔を見つめて言いました。
「ずいぶんと安上がりな幸せだな」
サラはまた、ふふふっと笑いました。
「幸せなんてのはどこにでもあるもんさ。みんな、大きな幸せばっかり期待するから、なかなか幸せを実感できないんだよ。実際には、どんな時にだって小さな幸せや楽しみは必ずあるもんさ。どれほど苦しく悲惨に見えるときにだってね。あたしは、そういう小さな幸せを集めて歩くのが得意なのさ」
そう言って、サラは歌うような口調で続けました。
「朝、お日様が明るく世界を照らしたら、気分がいいから幸せ。ご用聞きに行った家で珍しくその家の奥さんの機嫌がよくて、おはようってあたしに挨拶してくれたから、すごく幸せ。洗濯しながら世間話できる友だちがいるから幸せ。同じように苦労してる人が他にもいて、わかり合えるから幸せ。そんな誰かの恋がうまく実って、結婚するって話が聞けたから、嬉しくてまた幸せ。――そんなもんさ。どこにだって小さな幸せならいくらでも転がってるんだ。そして、ひとつひとつはちっぽけな幸せでも、それをたんねんに拾い集めたらさ、きっと、とびきり大きな幸せにも負けないくらい、すごい幸せになるんだと、あたしは思っているんだよ」
そして、女は炎に照らされたドワーフの若者の顔を見上げました。明るい笑顔のままで言います。
「あんたはあたしの命を助けてくれた。本当は大嫌いな人間のはずなのにさ。あんたは優しいよね。無愛想に見えるけど、本当はすごく優しいんだ。だから、あたしはすごく嬉しいんだよ。町にいる頃は、ドワーフって言うと悪い噂ばかりしか聞かなかったけど、本当のドワーフはそうじゃないんだってのもわかったしね。だから、幸せ。――あたしは、とっても幸せ」
言うだけ言って、おしゃべりな女は口を閉じました。続いてまぶたも閉じたと思うと、あっという間に眠ってしまいます。本当に、起きている間中しゃべり続けたのです。
ビョールはサラの顔を見つめ続けました。その安らかな寝顔は炎の輝きに赤く照らされていました。
次の日の夕方、ビョールとサラはアニーの町が見える麓の丘にたどり着きました。次第に暗くなっていく景色の中に町が見えています。町のあちこちに灯りがともり始め、空が暗くなると、光の集団に変わります。アニーはこの近辺でもかなり大きな町だったのです。
「さあ、あとは自分ひとりで行けるだろう」
とビョールは言いました。なんの感情も感じさせない、そっけないほどの口調です。
サラは少しの間、何も言いませんでした。ビョールの隣に立って、街の灯りを眺め続けます。そうしていると、ドワーフの若者は女の胸のあたりまでしか身長がありません。
ビョールはくるりと後ろを向きました。黙ったまま山へ戻っていこうとします。これで今度こそ本当に自分の役目は終わりだと考えていました。人間の女を同じ人間の仲間の元へ送り届けたのです。もう自分にするべきことはありませんでした。
すると、サラがふいに声を上げました。
「ビョール!」
何故だかその声がせっぱ詰まって聞こえて思わず振り返ると、サラが食い入るような目で自分を見つめていました。夜の中、女の瞳が夜より黒く深く見えています。
サラが言いました。
「ビョール……! あたしを連れていってよ!」
ドワーフの男は何も言わずに女を見つめ返しました。言われたことの意味はわかっていました。けれども、それに返事をすることがためらわれたのです。
女は必死に言い続けました。
「あたしをあんたの住んでいるところに連れてって……! どうせアニーに戻ったって、あたしを待ってる人なんて誰もいやしないんだ。あたしは、あんたのそばにいたいよ、ビョール! あんたと一緒に連れていってよ……!」
サラと北の峰を旅したのは、たった二日間のことでした。ビョールはろくに口もきかず、代わりにサラの方は取るに足らないようなことまで何でもかんでもしゃべり通しでした。屈託なくしゃべって、明るく笑って、またしゃべって、また笑って――そうして、二人はここまで来たのです。なんとなく、サラがこう言い出しそうな予感がビョールにはありました。
ビョールは重々しく答えました。
「おまえは人間だ」
おしゃべりなはずのサラが黙り込みました。深く傷ついた顔で立ちすくんだのが、夜目の利くビョールにははっきり見えました。
それでも、ビョールは言いつづけました。
「人間は人間の中でしか暮らせない。俺はドワーフだ。おまえは人間のところへ帰れ」
サラが青ざめました。屈託のない笑顔が消えて、黒い瞳に涙が浮かびます。ビョールは、どきりとしました。なんだか自分がひどく残酷なことをしているような気分になって、何も言えなくなってしまいます。
すると、女はくるりと後ろを向きました。ドワーフの青年に背中を見せたまま、まっすぐ丘を駆け下っていきます。その行く手に、町の灯りがありました。
ビョールの胸に何かが重く大きくのしかかり、それはいつまでたっても消えることがありませんでした。
サラが北の峰のドワーフの洞窟を訪ねてきたのは、それから二ヶ月後のことでした。森は若葉におおわれ、山には初夏の気配が漂っていました。
ビョールに会いたい、と言うサラに、洞窟の番人のドワーフはそっけなく対応しました。帰れ帰れ、ここは人間の女が来るようなところじゃない。
ところが、サラは帰りませんでした。洞窟の入り口近くで野宿を始めて、そこから動こうとしません。番人のドワーフたちが追い払おうとすると、一度はそこを離れるのですが、またすぐに戻ってきてしまいます。
そんなことが三日続いて、四日目の早朝、洞窟の外にビョールが出てきました。サラは入り口の扉の近くで毛布をかぶって寝ていましたが、ビョールがその枕元に立つと目を開けました。男が覚えている笑顔でほほえみます。
「やっと出てきてくれた」
嬉しそうに言う明るい声も変わりません。
ビョールはとまどいながら言いました。
「何故また来た。家に帰ったはずじゃなかったのか」
サラは起き上がり、肩をすくめて見せました。
「あたしが勤めていたお屋敷で、あたしが坊ちゃんを殴って怪我させた、って憲兵に通報してたのさ。アニーの町にぐずぐずしてると捕まって牢屋に入れられちゃうからさ、また町を逃げ出してきたんだよ」
ビョールは何も言いませんでした。ただじっとサラを見つめてしまいます。やはりこの女は、つらい状況になっても少しも苦しい顔をしません。あっけらかんと話し続けます。
「別の町に行っても良かったんだけどさぁ、やっぱりあたしはあんたに会いたかったんだよね。人に聞きながら、この洞窟まで来たんだよ。峰の麓を回ってきたし、途中で旅費を稼ぐのに日雇いの仕事をしながらだったから、二ヶ月もかかっちゃったけどさ。こうやって、ほんとにまた会えたもんね。嬉しいなぁ」
ビョールはますますとまどいました。低い声で尋ねます。
「どうしてだ――俺はドワーフだぞ」
すると、サラはにっこり笑いました。そばかすの浮いた平凡そうな顔が、ビョールの目にはまぶしく映ります。
「そんなの、あんたがいい人だってことと、全然関係ないじゃないか。ドワーフと人間でも友だちになれるんだよ。結婚だってできるに決まってる」
そう言って、サラはじっとビョールを見上げました。何も返事をしようとしない男に、笑顔のままで言います。
「あたしはあんたが大好きさ。あたしをあんたの女房にしてよ」
ビョールはやっぱり答えません。サラもそれ以上は何も言わず、ただ男を見つめ続けました。明るい笑顔の中、黒い瞳だけが切なく想いを訴えています。女は本気なのです――。
「変な女だ」
とビョールはうなるように言いました。それ以外のことばが思いつきませんでした。
すると、サラがいたずらっぽく笑って聞き返しました。
「変な女は嫌い?」
ビョールは考え込みました。とまどい、ためらい、それでもとうとう本当のことを言ってしまいます。
「いや……むしろ好きかもな」
たちまち女の明るい笑い声がはじけました。
幸せそうに手を差し伸べてくるサラを、ビョールは腕の中に強く抱きしめました――
薄暗い部屋の中で、ビョールは目を覚ましました。
ドワーフの洞窟にある岩の家の中です。夜明け前の時刻だったので、窓の外はまだ真っ暗でした。――ドワーフの洞窟に太陽の光は差し込みません。代わりに洞窟を照らす太陽の石が、昼には輝き夜には暗くなって時を知らせるのです。
ビョールは岩の床に敷いた布団の上に寝ていました。久しぶりに懐かしい夢を見たのです。名残を惜しむように暗い天井を見つめてしまいます。
やがて、ビョールは自分の隣に目を移しました。並んで敷かれた布団の上にはゼンが眠っています。毛布をほとんど跳ね飛ばしているのを見て、ビョールは起き上がりました。大の字になって眠る息子に毛布をかけ直してやります。
もうとおに父親の身長を越えて大きくなってしまったゼンですが、寝顔にはまだあどけなさが漂っています。そして、まぶたを閉じた目元や笑うような口元に、サラの面影がありました。黒に近い髪の色も母親から受け継いできたものです。ビョールは、そっとほほえみました。
洞窟のドワーフたちにビョールとサラとの結婚を認めてもらうまでに半年かかりました。それからさらに一年後に、ゼンが生まれたのです。
ゼンがまだほんの赤ん坊だった頃に、サラは病でこの世を去っていきました。決して長い結婚生活ではありませんでしたが、ビョールはそれを不幸だとは思っていませんでした。
サラならば、きっとこう言ったのです。
「あたしはあんたと結婚できたし、こうしてかわいい息子も授かったんだもの。あたしは世界一幸せな女なんだよ。大事なのは人生の長さじゃないのさ。どのくらい幸せを感じながら生きられるか――そのことの方がずっと大事なんだよ。そう思わないかい、ビョール?」
妻の屈託のない笑顔が思い浮かびます。
同じ笑顔は息子のゼンに受け継がれました。いつの間にか、母と同じ前向きな考え方をするようになったゼンです。確かにサラは幸せだったんだろうな、とビョールは考えます。
ゼンはぐっすりと眠っています。けれども、こんな寝顔を見られるのもあとわずかなのだとビョールにはわかっていました。年明けと共にゼンは旅立っていくのです。
行き先なんかわかんねえ、とゼンはあっけらかんと言いました。とにかくフルートたちと一緒に行くんだ。デビルドラゴンをぶっ倒す方法が見つかるまで帰ってこねえけど、心配すんなよ、親父――。
ビョールは今度はちょっと苦笑しました。寝顔を見つめ続けながら、心の中で妻に話しかけます。
「ゼンが世界に出て行くぞ、サラ。相変わらず無鉄砲で危なっかしい奴だがな、それでも、なんとか頑張っていくだろうよ。困難に出会ったって、きっと切り抜けていくだろう。なにしろ、おまえと俺の息子だからな――」
そうそう、あたしたちの息子だもの。
どこかでサラが答えたような気がしました。明るい笑い声はずっと耳の底で聞こえ続けています。あたしたちはとても幸せだよね、といつもビョールに語りかけているのです。
未明の静けさの中、新しい年はもうすぐそこまで近づいていました。
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