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願い石の戦いはすべて終わりました。子どもたちと皇太子は地下深い場所にある時の岩屋を出て、また地上に戻っていきました。
時の翁は岩屋の入口を魔法でふさぎました。通路をたどる子どもたちの声が、急に聞こえなくなり、岩屋にまた静寂が戻ってきます。
「さて」
と時の翁は岩屋の中を見回しました。虹色に光るオパールの壁の上に、何万枚もの大きな鏡がずらりと並んでいます。銀の縁飾りの美しい鏡ですが、どれも曇りガラスをはめ込んだように、何の景色も映してはいません。
黒大理石の床の上には、人々が戦っていった跡が残っています。割れた鏡、砕けた岩のかけら――そのなかには、堅き石と願い石を隠していた岩の柱の残骸もありました。
ふ、と時の翁は笑いました。魔法の石を持ち去った者のことを考えます。彼ならば石の魔力にも打ち勝つでしょうか。それとも、いつかやっぱり他の者たちと同じように、石の誘惑に負けて自分の願いを語り、引き替えに破滅の道をたどるのでしょうか……。時の鏡に問いかけても、鏡は何も答えません。それは誰にもわからない未来なのです。
すると、突然、すぐ近くの鏡が一つ生き返るように輝き出しました。銀色のガラスの表面に、時の翁の姿を映し出します。
「おや」
老人は思わず声を上げ、鏡の中をつくづくのぞき込みました。もじゃもじゃにもつれ絡まったひげと髪におおわれた、自分の姿を眺めます。ひげも髪も表面には汚れやふけがこびりつき、それがもう石のように固まっています。老人が思わずひげをしごくと、ひげの隙間からちらりと服の端がのぞきます。元の色が何色だったかもわからないほど色あせた、ぼろの切れ端のような服でした。ひゃひゃひゃ、と老人は風が吹き抜けるような声で笑いました。
「我ながら、みごとな格好じゃ、の。もう何年風呂に入っておらんか、のう。……よう思い出せんが」
いいながら、老人はたった今立ち去っていった子どもたちを思い出しました。長年風呂にも入らない汚れきった体は、耐えがたい悪臭を放っています。それは老人自身も承知しています。けれども、子どもたちは一言もそれに文句を言いませんでした。少女たちでさえ、顔をしかめながらも、何も言いませんでした。
「実に、行儀のいい子たちじゃった、の」
と老人はまた面白そうにつぶやきました。岩屋の中にそれに応える人は誰もいません。無数の鏡に取り囲まれた中、時の翁は一人きりなのです。
ふと、遠い遠い昔に、誰かそんな自分に盛大に文句をつけた者がいたような気がしました。けれども、あまりに時間がたちすぎて、それが誰だったのか、どんな場面だったのか、老人には思い出すことができません。風呂に入れ、と言われたような気がするのですが……。
老人はしばらく考え込むと、おもむろに、自分を映す鏡へ手を向けました。突然流暢な口調に変わって、こう唱えます。
「映せ、時の鏡よ。わしから立ち去りし時の記憶を、その銀の表に呼び戻すのだ」
鏡の中に一つの光景が映り始めました。そこは、明るい日差しが外から差し込む、浅い洞穴の中でした――
「おじいさん、何してんの?」
突然少女の声に話しかけられて、時の翁は驚いて顔を上げました。洞窟の入口に子どもが立っています。外から差し込む日の光の中、ほっそりした体が影のように浮かび上がって見えます。
時の翁は答えました。
「鏡を、作っとるんじゃ、よ。時の鏡、じゃ」
言いながら、こんな子どもが結界を越えてきたのか、とまた驚きました。願い石はこの洞窟の中にあります。翁はここに来るとすぐに洞窟のまわりに強力な結界を張り、本当に願い石を求める者以外は結界を越えてこられないようにしていたのです。
「鏡?」
と子どもが言いながら洞窟の中に入ってきました。長い髪を二つに束ねてたらした、白い服の痩せた少女です。まつげの長い、大きな黒い瞳をしていました。珍しそうに洞窟の中をきょろきょろ見回します。
「あたし、うちの裏山にこんな場所があるなんて知らなかった。おじいさん、いつからここに住んでたの?」
人見知りする様子もなく話しかけながら老人に近づいてきます。年の頃は十一、二歳というところでしょうか。幼い子ども時代を過ぎて、ほんの少し大人の自覚が芽生えてきた、この年代独特の顔つきをしています。
「ほい、ご近所さんじゃったか、ね。そりゃ、引っ越しのご挨拶もせんで、失礼した、の」
と翁は答えました。また鏡作りに戻ります。時々こういうことはあります。結界は人の心に恐れを起こし、その場所に近づきたくない気持ちにさせるのですが、どういう理由か、ごくたまに、そんな結界の影響を受けにくい者が現れるのです。
そういう者たちは願い石の存在を知りません。翁としても教える義理はありません。ただその場所に流れて住みついた浮浪者のようにふるまいます。
すると、少女が突然ぴたりと足を止めました。洞窟の壁で光る大きな鏡を、びっくりしたようにのぞき込みます。老人は最近ここにたどりついたばかりです。完成した鏡は、まだその一枚だけだったのでした。
「綺麗な鏡」
と少女は言いました。鏡に自分の姿を映しながら、くるくると体を回します。――本当に痩せて小さな少女でした。よく見ると、時の翁より背が低いくらいなのです。その年齢にしては、とても小柄だと言えるでしょう。
けれども、少女は生き生きと輝く黒い瞳で鏡をのぞき込んでいました。服の長い裾を引っ張ってしわを伸ばし、おさげの髪をなでつけ、にっこり自分に笑いかけます。痩せた顔がかわいらしい表情を浮かべます。
けれども、少女はすぐに不満そうな顔に変わりました。鏡に映る自分の顔に顔を近づけてつくづく見つめると、急に眉をひそめて、あかんべぇをします。
「いやよねぇ、こんなやせっぽち。顔色も良くないし、チビだし、スタイルも悪いし。ぜぇんぜん美人じゃないわ」
「美人になりたいのか、ね?」
と時の翁は細工仕事を続けながら尋ねました。
――世界一美しくなることや、永遠の美貌を求めて、女性が願い石の元へ来ることもあります。こんなに幼くても、やっぱり女は女、かの、と心の中でつぶやきます。
すると、少女は真剣に鏡をのぞきながら答えました。
「ううん、違うわ。ただ、こんなに子どもなのが嫌なのよ。あたしは早く大人になりたいんだ」
唇をとがらせたまま、またくるりと鏡の前で回転し、社交場で大人の女性がするように、服の裾をつまんでおじぎをします。
老人はひげと髪の奥で思わずほほえみました。それは確かに切実な願いでしょう。子どもはいつだって、早く大人になりたい、早く一人前になりたい、と心から願うのです。けれども、願い石はその願いはかなえません。時がたてば、願い石の魔力がなくても、子どもたちは大人になっていくからです。
このぶんなら心配ない、の、と時の翁はまた心でつぶやきました。
少女が鏡から離れて、また洞窟の奥へ歩いてきました。珍しそうに老人の手元をのぞこうとします。老人の枯れ枝のような手と古ぼけた道具が、信じられないほど精巧な細工を鏡の縁に刻み込んでいます。
ところが、少女がまた、ぴたりと足を止めました。今度は思い切り顔をしかめ、きょろきょろとあたりを見回してから、老人に向かって突然叫び出しました。
「くっさぁぁーーーーいっ!!! 臭うわよ、おじいさん!! ものすごく、くさいっ!!!」
と鼻をつまみながらわめき立てます。
「ほい、そうかね。……もう何十年も、風呂に入っておらんから、の。いや、百年を、越えてるかもしれん、が」
と老人は思わず頭をかきました。痩せた指が髪をかきむしると、表面にこびりついた汚れの塊が、ぼろぼろと石灰のかけらのように落ちてきます。少女は真っ青になって悲鳴を上げました。
「な、何十年!? 百年!? なにそれ、そんなにお風呂に入ってないわけ!? 信じらんない!!」
「いやその……風呂に入るのも、面倒で、の」
老人がなおも頭をかくと、少女はまた金切り声を上げました。
「やめて! 頭をかかないでよ、ふけが飛び散るでしょ! ノミやシラミもいるんじゃないの!? うちに来て! お風呂に入れてあげるから!」
「いや、わしは――」
少女がこんな老人を連れ帰ったら、少女の家人が何というか、時の翁には容易に想像がつきます。手を振って断ろうとすると、少女は言い続けました。
「ダメ! 絶対にダメよ! うちの裏山にこんな汚いおじいさんがいるなんて、ぜぇったいに我慢できない! いらっしゃいったら! お風呂に入って、髪の毛もひげも全部綺麗にするのよ! 早く!」
それでも老人が渋っていると、いきなり少女はつかつかと歩み寄ってきました。片手で鼻はつまんだままで、もう一方の手でいきなり老人の長いひげをわしづかみにします。
「あいたた! な、なにをするんじゃ!」
少女に思い切りひげを引っ張られて老人が悲鳴を上げると、少女はそれよりもっと大きな声でどなりました。
「いいから、うちに来るのっ!! 早く!! 来ないと、ひげを全部引っこ抜いちゃうから!!」
痩せて小柄なのに、少女は意外なほど力があります。死にものぐるいで引っ張っているのです。これには時の翁も降参するしかありませんでした。少女に引きずられるようにして、洞窟を出て山を下りました――。
少女の家は本当に、山のすぐ下にありました。洞窟から歩いてほんの五分ほどの距離です。入口の前で時の翁はまたためらいましたが、少女は言いました。
「大丈夫よ。今日はパパもママも町に出かけていて夕方まで帰ってこないんだから。お風呂はいつでも沸いてるの。早く、こっちよ!」
こじんまりとした家なのに、案内された風呂は大きく立派だったので、老人は驚きました。広い湯船いっぱいに、温かいお湯が満々と張られていて、浴槽の縁からあふれ出して、石の床を流れています。
「こりゃこりゃ……温泉、かね。家の中に」
と言うと、怒り続け、どなり続けていた少女が、急ににっこり笑いました。
「そうよ、すごいでしょ。このあたりには温泉が湧いてくるの。温泉は病気や虚弱体質に効くっていうから、パパたちはわざわざここに温泉付きの家を建てたのよ。お湯は使い放題。これならば、おじいさんだって、ちゃんと綺麗になれるでしょ? さあ、早く入って! 家中が臭くなっちゃうじゃないの!」
それならば、と老人は小さな家に不似合いな大きな風呂場へ入っていきました。少女は、浴室から放り出されてきたぼろ切れのような服を見て、また顔をしかめ、やがて、火ばさみをもってくると、それで服をはさんでどこかへ持ち去りました。片手ではずっと鼻をつまんだままです。
それから、どこからか新しい服を持ってきて、浴室の外に重ねて置きます。
「パパの服なんだけど、これを着てよね。大きいかもしれないけど」
「はて、いいのか、ね。勝手にわしが着たりして」
「おじいさんの前の服は、もう暖炉で燃やしちゃったわよ」
それを聞いて老人は湯の中で思わず溜息をつきました。本当に積極的というか、遠慮がないというか、まったく物怖じしない少女です。
湯船につかり、本当に久しぶりで石けんを使いながら、老人は浴室の外の少女に話しかけました。
「家族の誰がか、病気なのか、ね?」
さっきの少女のことばを耳に留めていたのです。少女が浴室の扉にもたれながら答えました。
「あたしよ。あたし、あんまり丈夫じゃないの。だから、学校にも行けなくて、こうして家にいるんだ。お医者様が温泉が体にいいって言うんで、パパたちはわざわざここに引っ越して、こんなすごいお風呂場を作ってくれたのよ」
「そうじゃったか、ね」
時の翁は相づちを打ちながら、ふっとまた考えました。病弱な少女。その病を治したい一心が、結界を破って願い石の近くまで少女を招き寄せたのでしょうか。
けれども、願い石は恐ろしい石です。かなわぬ願いをかなえる代わりに、大事なものをその人から奪い去っていきます。病を治してもらう引き替えに人が失うものはいつも決まっています。それは『慈愛の心』、つまり、他人を思いやることができる優しい気持ちなのです。
「どう? 綺麗になりそう?」
と少女が浴室の外から尋ねてきました。
「ほんとにダメよ。お風呂くらい、きちんと入らないと。体を清潔にしておかないと病気になっちゃうんだからね」
老人はまた濡れた髪とひげの奥でほほえみました。口調はきつくても、根は優しい子です。これを失わせたくはない、の、と静かにつぶやきます……。
はて、と時の翁は浴室の中で弱り果てました。自分のひげを何度もしごいて、やがて言います。
「困ったのう。汚れが全然落ちん、ぞ。何度も洗ったんじゃが、髪もひげも、さっぱり綺麗にならん、わい」
「やだもう!! おじいさん、汚れ過ぎよっ!!」
少女はまた金切り声を上げると、どこかへすっ飛んでいって、またすぐに駆け戻ってきました。大きなハサミを浴室に放りこんで叫びます。
「これで髪とひげを切っちゃって! 汚いところは全部よ!!」
有無を言わせない口調でした。
時の翁は、本当に久しぶりで――たぶん、百数十年ぶりで髪とひげを切りました。短くなったところでまた何度も洗って、ようやく汚れも落ちました。風呂場にはたまりにたまった汚れが、泥のようにそこここによどんでいましたが、浴槽からあふれ続ける温泉の湯が、やがてすべて流し去ってしまいました。
翁は浴室から出ると、少女の父親の服を着ました。かなり大きかったので袖や裾をたくし上げましたが、それでも大きくてぶかぶかでした。老人はとても小柄で痩せていたのです。
外に出てきた老人を、少女は厳しい目つきでじろじろと眺め、くんくんと匂いをかいで言いました。
「うん、匂いは取れたわね。これは合格。でも、おじいさん、ハサミの使い方下手くそね。ものすごい虎刈りになってるじゃないの。あたしが揃えてあげるわ。任せなさい、パパの髪はいつもあたしが切ってあげてるんだから」
また有無を言わせず、老人を今の椅子に座らせ、肩に布をかけて、ちょきちょきとハサミを使い始めます。老人はただ言うとおりにするしかありません。少女は本当に一方的でした。全然遠慮がなくて、押しつけがましくて――でも、それが、なんとなく嬉しく感じられている時の翁でした。
「さ、できた。これで見はらしも良くなったでしょう、おじいさん?」
ひげも髪もすっかり短く刈り揃え、やっと外に現れてきた老人の顔をのぞき込んで、少女は、あらっと目を丸くしました。つくづくと老人の顔を見つめ、やがて、ぽかんとした顔つきになります。
「な、なんじゃ、な?」
老人がとまどうと、少女がなおも顔を見つめながら言いました。
「おじいさん……どういう人なの? 名前はなんていうの?」
「はて。名前はもう覚えとらんのじゃが、の。時の翁、と呼ばれとる、よ」
「時の王?」
と少女が聞き返したので、老人は笑い出しました。
「翁、じゃよ。じいさん、という意味じゃ。わしは大昔から時のじじいと呼ばれとるんじゃ、よ」
少女はそれでも老人の顔から目を離しません。
「おじいさん、自分の顔って見たことないの? ずっとあんな格好してたの? ええと……この家に鏡はないのよね。パパたちが全部隠しちゃったから。いいわ、また洞穴に戻りましょ。おじいさんの顔、見せてあげなくちゃ」
何が何やらわからないままに、老人はまた、少女に引っ張られて裏山に戻っていきました。往きはひげを引っ張られて行きましたが、帰り道では、少女はちゃんと手をつないでくれました。
「な、なぜ、家に鏡がないのか、ね?」
息を切らしながら翁が尋ねると、少女が答えます。
「あたしのせいよ。ほら、あたし、こんなに小さくてやせっぽちでみっともないでしょ? そんな自分の姿を見たらあたしが悲しむと思って、それで家中の鏡をどこかに持って行っちゃったの。でも、そんなことしたって、夜の窓とか、水の上とか、自分の姿を見るところってたくさんあるんだけどねぇ」
ちょっと皮肉な笑い声は、何故だか年よりずっと大人びて聞こえました。
老人は自分の手を引く少女を見ました。確かに痩せて小柄です。あまり丈夫でないというのも本当でしょう。でも、生き生きとした瞳をしています。けっしてかわいくないわけではないと思うのですが……。
山の洞穴にたどりつくと、少女は壁にかかった鏡を示して言いました。
「ほら、見て、おじいさん!」
時の翁は、鏡に映った自分の姿を見ました。そして――自分自身で、目を丸くしました。
そこには、高貴な顔立ちをした老人が立っていました。痩せています。老いています。だぶだぶの服を、裾を折ってやっと身にまとっています。けれども、どんなにやつれても、どれほど年老いても、消すことのできない気高い雰囲気が漂っていました。落ちくぼんだ眼窩(がんか)からこちらを見る瞳は薄青く、深く、思慮深い光をたたえていました。
老人は思わず自分のひげをなでました。鏡の中の老人も、同じようにひげをなでます。そんなしぐささえ、自然と優雅に映ります。
とまどっている老人に、少女が言いました。
「ね? おじいさん、本当はどこかの王様か何かなんじゃないの? さっき、時の翁って言うのを聞いて、あたし、本当に『時の王』って言ったように聞こえたのよ」
「覚えとらんのじゃ、よ。あんまり昔のことなんで、の」
と老人は答えました。なんとなく自信のない口調になっていました。
時の鏡には、時々、過去の王たちの姿が映ることもあります。その中には、永遠の時を生きることを夢見る王も現れます。彼は家族を捨て、国民を捨て、自分の城も国も捨て去って、ただ願い石だけを探し求めていました。――けれども、それが自分自身の過去なのか、別の誰かの姿なのか、時の翁にはわからないのでした。もう、何一つ、昔のことは覚えていないのですから。
鏡の中の高貴そうな自分の顔を見つめても、時の鏡に映る過去の王と同じ顔なのか、違う顔なのか、判断することはできません。時の翁は、もう、あまりにも年老いてしまっています……。
少女は首をかしげました。どこか淋しげな老人の痩せた姿を見つめ続け、やがて、ふいに、明るい声を出しました。
「おじいさんが王様だったらいいなぁ! そしたら、あたしは王様に会ったことになるんだもん。ううん、王様をお風呂に入れてあげたのよね! すごく素敵じゃない?」
屈託もなくそう言って声を上げて笑うと、思わずつられて笑顔になった老人に言いました。
「あたしのね、二つめの夢だったんだ。王様とか女王様とか王子様とか、そういう身分ある人をそばで見たかったの。おじいさんが王様だったら、その夢がかなったことになるのよね!」
「はて、どうじゃろう、の」
老人は苦笑いをしながら答えました。わしがそんな者かどうかはわからん、ぞ、と少女に言います。けれども、そう話す老人の顔は、本当に、どこかの王様のように気高く立派に見えていたのでした。
少女はくすくすと笑い声を立てました。楽しそうな声が老人の耳に音楽のように快く響きます。
笑い声にまたつられて、老人はうっかり尋ねてしまいました。
「では、おまえさんの一番の夢は、どんなことなのか、の?」
少女が笑顔のままで答えます。
「大人になることなの。それも十年後とか二十年後じゃなくて、今すぐに。たとえ三十分でもいいから、大人になってみたいんだ」
老人は真顔になりました。心の中の琴線に何かが触れて警鐘を鳴らします。
子どもは大人になりたがるものです。それは子どもの本能です。切実に、大人になった自分の姿を追い求めるのですが、三十分でいいから、今すぐ大人になりたいというのは、何故だかあまり普通ではないように思えます。
老人は眉をひそめながら尋ねました。
「何故じゃね? どうして、そんな願い事を――」
その時、突然、洞穴の中が赤く染まりました。壁の上に突然強い赤い光が現れたのです。まるでしたたる血のような、燃え上がる炎のような、鮮やかに赤い光でした。
「願い石!?」
時の翁は驚きました。この魔石は、願いをかなえるべき相手が現れなければ、目覚めることはないのですが――。
「な、なに、この光?」
と少女もびっくりして光を放つ壁を見つめました。赤い光は、強く弱く脈動しながら、ますます輝きを増していきます。少女が思わず手を伸ばします。
「さわっちゃいかん!」
と時の翁は思わず叫びました。
「それは願い石じゃ! それに触れたら、おまえさんは――!」
え? と驚いたように少女が振り向きました。その瞬間、図らずも指先が赤い光の元に触れます。光は一瞬強く輝き、指先から少女の中へと吸い込まれていきました……。
「な、なに? なんなの、今の?」
光が消えて、急に暗くなったように見える洞窟を、少女はきょろきょろと見回していました。
時の翁は声が出ません。願い石は、少女を新しい主人に定めたのです。
すると、ふいに背の高い女性が少女の前に立ちました。炎のように赤い髪を結って垂らし、火花のように赤く輝くドレスをまとっています。願い石の精霊でした。燃えるような姿とは裏腹な、冷ややかなほど無感情な声で尋ねます。
「三十分間、大人の姿になること。それがそなたの真の願い事だ――。間違いはないか?」
少女は目を丸くしたまま願い石の精霊と時の翁を見比べました。
翁は必死で言いました。
「あわてるでない、願い石! それは子どものたわごとじゃ、ぞ! 子どもは大人に憧れるものじゃ。大人になったり、子どもになったり、行ったり来たりをしてみたいと願うもんじゃ。それは、その子の真の願い事などでは、ありゃせん、ぞ!」
とたんに、少女がぷっと不満そうな顔に変わりました。翁のことばに機嫌を損ねたのです。頭をそらして長身の精霊を見上げると、気の強そうな声で答えました。
「ええ、そうよ。あなた、もしかして魔法使いなの? それじゃ、今すぐあたしの願いをかなえて! あたしは大人になりたいの。それも、素敵な大人の女の人によ! 本当に三十分でいいわ。今すぐ、あたしを大人にして!」
「承知した」
願い石の精霊が答えました。とたんに、その姿がかき消えます。赤い光が広がり、少女の小さな姿を光の中に包み込みます――
やがて光が消えたとき、そこには妙齢の女性が立っていました。背はあまり高くありませんが、プロポーションの良い体を精霊のような赤いドレスで包み、髪を結い上げています。ふっくらしたバラ色の頬をしていますが、確かにあの痩せた少女がそのまま大人になった顔立ちをしていました。
「わ、あ!」
女性が鏡の中の自分を見て歓声を上げました。ドレスの裾をひるがえしながら、くるくると何度も鏡の前で回転し、満面の笑顔になり、やがて時の翁に言いました。
「ね、見て見て、おじいさん! いいでしょ!? あたし、こんな大人の女の人になりたかったんだ! うわぁ、素敵! 嬉しいっ!」
――姿形は大人になっても、心の中身は少女のままのようでした。
時の翁は何も答えませんでした。願い石に願いをかなえてもらったとき、人は必ず、なにか大切なものを奪われていきます。けれども、こんな願いがかなった様子を、翁は今まで見たことがなかったのです。何が引き替えに奪われていくのか見当がつきません。そもそも、一定時間大人になりたい、などという子どもじみた夢を願い石がかなえたこと自体、翁には信じられませんでした。
すると、赤いドレスを着た娘は、ぷうっとふくれっ面になりました。本当に、大人の姿になっても表情や感情は少女の時と少しも変わっていません。
「どうしてなんにも言ってくれないの? そんなにあたしの格好って変? あたし、そんなにみっともない?」
「いや、そんなことは。とても素敵じゃ、よ」
と老人はあわてて言いました。そう言ってやるしかありませんでした。
娘はたちまち機嫌を直すと、うふふっ、と嬉しそうに笑いました。翁の目の前でくるりと回ると、ドレスの裾が花のように開きます。それがゆっくり舞い下りたところで、娘は裾をつまんで優雅におじぎをして見せました。また、とびきり嬉しそうに笑います。
「ねえ、踊ろう、おじいさん! あたし、一度でいいから男の人とダンスしてみたかったんだ! 踊れるのよ。でも、パパたちがダンスパーティに行かせてくれなかったから。ね、ね、あたしと一緒に踊って!」
「い、いや、しかし、わしは踊ったことなぞ、今まで一度も……」
「適当でいいって! せっかくこんな素敵な格好になってるんだもの、ダンスくらいさせてったら。あ、でも音楽がなかったら踊れないかぁ――」
それまではしゃいでいた顔が急に悲しそうになります。
時の翁は思わず頭をかきました。
「音楽か、ね。踊れるなら、適当でいいんじゃ、な?」
念を押しながら、壁の鏡へ手を振ります。
「映せや、時の鏡。ここにいる娘のために、踊りの夢を華やかに映し出せ!」
とたんに、鏡が生き返り、大勢の人々の姿を映し出しました。
娘は目を丸くしてそれを眺めました。見たこともないような服を着た人々が音楽に合わせて踊っています。音楽の調べもそれを奏でる楽器も、娘がこれまで一度も聴いたことのないものです。けれども、人々はやっぱり男女一組になり、音楽に合わせて踊っています。手を取り合い、顔を見合わせて、軽やかにステップを踏みます。色とりどりの衣装が羽のようにひるがえり、まるでおとぎ話に出てくるエルフたちの舞踏会のようです。
ぼうっとそれを眺め続ける娘の前に、時の翁が手を差し出しました。
「踊らんのか、の?」
娘はとまどいました。
「だって、おじいさん、踊れないって――」
「この曲は、なんとなく、覚えがあるんじゃ、よ。たぶん、どうにか踊れるじゃ、ろう」
「で、でも、あたしが……あたしがわからないわ、この踊り……」
「なぁに、大丈夫じゃ、よ。曲に合わせれば、なんとかなる、て」
娘はそっと自分の手を老人の手に重ねました。成長した娘は、ほんの少し、時の翁より背が高くなっていました。音楽に合わせて、老人が踏み出しました。とまどう娘を上手にリードしながら、広くもない洞窟の中を、滑るように踊り始めます。娘のドレスの裾が揺れ、華やかにひるがえり始めます。
やがて、娘は驚きから喜びの顔に変わっていきました。老人の腕に身を任せ、流れる調べと一つになって踊ります。
「すごい、おじいさん! すごい、すごいわ――!」
歓声と笑顔がはじけました。
ちょうど三十分後、娘の魔法は解けました。赤いドレスは元の白い服に、バラ色の頬の娘は、またやせっぽちの小さな少女に戻ります。けれども、その顔はずっと笑顔のままでした。
「ああ、楽しかった!」
と少女は言って座りこみました。三十分間の時間ぎりぎりまで踊り続けたので、息をはずませています。さすがの時の翁も息を切らしていました。
「はてはて、年を考えずに、ちと張り切りすぎたか、の」
と顔の汗をぬぐいます。
少女はまた楽しそうに笑いました。
「おじいさん、すっごく上手だったわね! 本当に王様と踊ってるみたいだったわ! ものすごく気持ち良かった!」
「そうか、ね」
老人は目を細めてその笑顔を見つめました。心の奥で、この少女から何が奪われていくのだろう、と考えます。少女の願いは、本当にささやかなものでした。三十分間だけ大人になって、大人の男性と踊ること。ただ、それだけの願いです。これくらいのことならば、願い石も大したものは奪わないのではないか、と期待するような気持ちがよぎります。
すると、突然娘の体が崩れました。その場にうずくまり、激しく震える体を自分で抱きしめます。その顔色は真っ青でした。
「ど、どうした!?」
時の翁は仰天して駆け寄りました。少女は激しく震え続けています。青ざめた額から脂汗が流れていきます。
「発作……あたしの持病なの……」
と少女はあえぎながら言いました。老人はうろたえました。そういえば、この少女は病弱だったのです。その体で大人になって、しかも長時間踊り続けたために、か弱い体に一気に負担がかかったのに違いありません。
「馬鹿なことを。願い石に奪われたのじゃ、ぞ。大事な、あんたの体力、を」
強い後悔と共にそうつぶやくと、少女は苦しみながらも、顔を上げて老人を見ました。そこにはまだ、ほほえみが残っていました。
「いいんだ……わかってたから……。ずっと、神様にお願いしてたから……。三十分でいいから、大人の姿にしてください。そして、王子様か王様と、ダンスを踊らせてください……って。この夢がかなうなら、あたしの命を捧げてもいいです、って……」
「馬鹿な!」
老人はまた言いました。思わず強い口調になっています。
ふふっ、と少女は笑いました。その顔色は血の気が失せて、蒼白になってきています。それでも、少女の口調は楽しそうなままでした。
「あたしはね、おじいさん……大人になるまで、生きられなかったの。いつもは元気なんだけど……時々、発作が襲ってくるの。そうすると、どんどん痩せて弱っていってね……大人になるまでは生きられない、って、お医者様にも言われていたの……。だから、あたし、どうしても大人になってみたかったんだ。短い時間でいいから、ホントに三十分だけでいいから……大人になって、そして、素敵な男の人と踊りたいな、って……」
支えた翁の腕の中で、少女の痩せた体がみるみる力を失っていきます。ぐったりと腕に寄りかかりながら、少女は老人を見上げました。
「ねえ……おじいさんは魔法使いなんでしょう? だから、あたしのお願いをかなえてくれたのよね……。こんなやせっぽちな姿じゃなくて、元気な大人の女の人になりたかったの……。嬉しかったなぁ。ねえ、あたし、とても綺麗だったでしょう?」
少女が笑いかけてきます。長いまつげに囲まれた黒い瞳が、うるんだように笑みを浮かべます。老人は何も言えませんでした。
ふうっと少女は溜息をつきました。遠くへ吹いていく風の音のような声で、こうささやきます。
「ねえ、おじいさん……おじいさんはやっぱり、王様なんでしょう……? 時の王様……。だから、あたしを大人にしてくれたのよね……」
ダンス、楽しかったね、と少女はつぶやくように言いました。
老人は首を振りました。わしはそんな者じゃない、ただの時の翁じゃよ、と言おうとします。
けれども、翁は声をとぎらせました。抱き支える腕の中で、少女がもう息をしていないことに気がついたからです。
やせっぽちの小さな少女は、白くなった顔に、幸せそうな笑みを浮かべていました――。
オパールの壁と黒大理石の床に囲まれた岩屋で、時の鏡が銀色に戻りました。過去の夢を映し終えたのです。ただ老人の姿だけを映します。
「そう、か。風呂に入ったのは、あの時以来だったのじゃ、な」
と時の翁はつぶやきました。もじゃもじゃにもつれ合い、木の根のようになったひげをなでます。
あの後、老人は少女の亡骸を山のふもとの少女の家に運び、少女のベッドに横たえました。夕方になって戻った両親が、亡くなっている娘を見つけるだろう、と考えたのです。時の洞穴も閉じました。願い石が消えてしまったので、もうその場所にいる必要はありませんでした。
そして、老人はまた待ったのです。願い石がこの世に復活してくる時を。そこにまた時の岩屋を作り上げ、人が願い石を尋ねてくるまで、ずっと石の番をし続けました。時の夢を映す鏡を作りながら。
願い石がこの岩屋に生まれてから、三百年が過ぎていました。だから、あの少女に出会って、無理やり風呂に入れられてから、三百年以上がたっている、と言うことです。下手をすれば、四百年くらいの時間が過ぎているのかもしれません。
汚れきって石のようになったひげや髪と、それにおおわれて何も外から見えなくなっている自分の姿を眺めます。なるほど、それほどの時間が過ぎているならば、この格好も当然か、と考えます。
「久しぶりに、風呂に入ってみようか、の」
と老人はひとりごとを言いました。遠い遠い昔、自分のひげを引っ張って風呂に引きずっていった少女を思い出して、思わずそっと、ほほえみます。
「それとも、やめておこうか、の。人と出会えるのは楽しいことじゃが、別れるときが、つらくなるから、のう」
老人はしばらく思案するようにうつむいていましたが、やがて、顔を上げると、虹色に輝く岩屋とずらりと並んだ時の鏡を見回しました。
両手を高く掲げて呼びかけます。
「閉じよ、時の岩屋! おまえの役目はもう終わった! 鏡の中に時の夢を閉じこめ、再び願い石が目覚めるときまで、深い眠りにつくがいい」
色を失うように、時の岩屋が消えていきました。虹色の壁も、黒い床も、無数の鏡も、薄れるように消えていきます――。
その時、時の翁の耳の底に、こんな声がよみがえってきました。
「ぼくたちは、あなたのことを覚え続けます。ぼくたちが死んでしまうまでの間だけど、それでも、あなたのことは忘れません」
ついさっき、ここを立ち去っていった、優しい勇者の少年の声でした。それに、昔々の少女の声が重なります。
「ねえ、おじいさんはやっぱり、王様なんでしょう? 時の王様――」
時の翁、じゃよ。と老人は心でまたつぶやきました。時のじじい。ただ、時と共に生き続ける年寄りなんじゃ、よ、と。
老人はこれからも生きていくのです。人の生と死を見つめながら、たったひとりで、永劫の時間の中を――。
翁の小さな姿は岩屋の跡から音もなく消えて、地中は暗くなりました。
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