
5章 怪物
森を奥に進むに連れて、なんとも言えない不気味な感じは、ますます強くなってきました。
何も見えません。何も聞こえません。けれども、得体の知れない気配が、子どもたちを押し包んでいるのです。子どもたちは一列になって歩き続けていましたが、いつの間にかチムを呼ぶ声が小さくなり、おそるおそるあたりを見回すだけになっていました。時々、わけもなく、ぞおっと背筋が寒くなるような思いが走り抜けていきます。そのたびに子どもたちは立ち止まり、四方八方の気配をうかがいながら、顔に吹き出した冷や汗をぬぐいました。
「ホントに気味の悪いところ」
とリサが顔をしかめて言いました。
「なんだか、ずっと誰かに見られているような感じがしてるのよ。何かがすぐ後ろをついてきているみたいな――」
「やめろ!」
ジャックが乱暴にさえぎりました。その顔にはおびえるような色が浮かんでいます。けれども、さすがのリサもそれに言い返すことはしませんでした。リサ自身が、ジャックに劣らずおびえた顔をしていたからです。
すると、突然、真ん中を歩いていたペックが崩れるように地面に膝をつき、げえげえと吐き始めました。子どもたちは驚いてそれを見ました。
ペックは胃の中のものを何度も何度も吐くと、よろめきながら立ち上がりました。その顔色は土気色で、死人のようでした。
「呪いだ!」
とペックが叫びました。
「森の主が、俺たちに呪いの魔法をかけたんだよ……! 俺たちは死ぬんだ! 気が狂って、死んじまうんだ……!!」
「なに血迷ってやがる!」
とジャックが叱りつけました。
「怖い怖いと思ってるから、胃袋がでんぐりがえっちまったんだろうが。正気に返るように一発食らわせてやる」
ジャックが拳をかざしながら近寄ると、ペックは突然ものすごい力でそれを突き飛ばしました。
「もういやだ!! 死ぬんならジャックだけにしろ! 俺は死にたくない!!」
ペックはそう叫ぶと、金切り声を上げ、いきなり今来た方向へ駆け出しました。後ろにいたリサやフルートも突き飛ばして、まっしぐらに走って逃げていきます。子どもたちは地面にしりもちをついたまま、声も出せずにそれを見送りました。今まで張りつめていたものが突然切れて、一緒に逃げ出したい気持ちに駆られます。
フルートも体中をがたがた震わせて座りこんでいました。止めようと思っても震えは止まりません。怖くて怖くて、今にも息が詰まりそうです。そのまま地面を這ってでも、森の出口を目ざしたくなります。
だけど……
フルートは自分の唇を血がにじむほどかみしめました。
だめです。今、家に逃げ帰るわけにはいかないのです。
フルートは自分の膝をつかんで立ち上がりました。恐怖を払い飛ばすように、大声で叫びます。
「チム!! チム、どこだい……!?」
その声に、ジャックとリサも、はっと我に返りました。自分たちが何のためにここにいるのかを思い出したのです。
「ちくしょう!」
ジャックが悪態をつきながら立ち上がりました。祖父の形見の剣を握り直して、フルートと一緒に呼び始めます。
「チム! どこにいやがる!?」
リサも立ち上がって弟を呼びました。
「チム! 返事をしなさい、チム……!」
すると。
森の奥から、かすかに声が聞こえてきました。
子どもたちは、またはっとして、耳を澄ましました。それは男の子の泣き声でした。リサが歓声を上げました。
「チムよ! 間違いない。チムの声よ!」
そして、リサは声のする方へ走り出し、先に立って低い茂みをくぐり抜けました。フルートとジャックもそれを追います。
とたんに、リサの悲鳴が響き渡りました。
フルートとジャックは思わず顔を見合わせ、あわてて茂みを抜けました。
目の前にリサが立ちすくんでいました。
その先には木がまばらになった小さな空き地があり、空き地の向こう側に見上げるような生き物がいました。長い八本の足、短い毛が生えた丸い体、体にへばりつくような小さな頭、八つの複眼……。それは、全長三メートル以上もある大グモでした。
フルートたちはぼうぜんとしました。とても子どもが戦えるような敵ではありません。
クモが子どもたちに近づいてきました。ベキペキと足下の茂みを踏み砕く音が響きます。それと一緒に、弱々しい声が聞こえてきました。
「助けて、姉ちゃん……助けて……」
子どもたちはぎょっとして声の方を見ました。クモの足下に、いびつな白い糸の塊が転がっていました。まるで巨大な白いイモムシのように見えますが、糸のまばらなところから、ゆがんだ唇と片目がのぞいています。
「チム!!」
リサが叫びました。チムは大グモにつかまり、糸でぐるぐる巻きにされていたのでした。
クモが八つの目で子どもたちを見ました。
「危ない!」
子どもたちが飛びのくと、シーッという音と共に、その場所に白い糸が飛んできました。このクモは糸を口から吐き出すのです。粘りけのある糸の塊が地面にへばりつきます。
リサが、かっと頬に血を上らせました。帯にはさんでいた馬用の鞭を抜くと、それをうならせながら、クモに向かって飛び出していきました。
「チムを離しなさいよ! この怪物!!」
「リサ!」
「無茶だ!」
ジャックとフルートは思わず声を上げました。
その目の前でクモが白い糸を吐き、リサの体を絡め取りました。リサは金切り声を上げました。。
「きゃああ、いやぁぁ……!!!」
狂ったように身もだえしますが、クモの糸は丈夫でまったく切れません。そこへクモがさらに大量の糸を吐き出しました。リサとクモの間に糸の束がぴんと張り渡されます。
シ・シ・シ……
大グモは空気の漏れるような音をたてながら、二本の前足を使って糸をたぐり寄せ始めました。リサの体がぐっとクモに引き寄せられます。
「いやーーっ……!!!」
リサはまた悲鳴を上げると、ふいに崩れ落ちるように倒れました。……気を失ったのです。
「リサ!」
立ちすくんでいたフルートとジャックが我に返りました。クモはリサの体をどんどん引き寄せていきます。
フルートはナイフを手に飛び出していきました。ジャックもそれに続きます。
すると、クモは突然リサにつながった糸を切り、新しい糸の束を少年たちに向かって吐き出してきました。フルートとジャックは、あわてて左右に飛び退き、かろうじてそれをかわしました。
「近づけねえ!」
とジャックがわめきました。
フルートは唇をかんで、また前に飛び出しました。それを狙って、また糸が吐き出されてきます。飛んでかわすと、また糸の攻撃――。本当に近づけません。
大きく下がって体勢を立て直そうとした時、フルートの足が小石で滑りました。フルートは仰向けになり、勢いよく地面に倒れました。
「フルート!」
ジャックのあせった声が響きます。
フルートは、とっさに両手を前につきだして、飛んでくる糸を防ごうとしました。
ところが。
クモは何もしてきません。ただ、フルートたちをじっと見ているだけです。
「……?」
フルートは目を丸くしながら体を起こしました。しりもちをつきながら、じりじりと後ずさりますが、やはりクモは襲いかかってきません。フルートは、ふいに、あることに気がつきました。
「ジャック」
とフルートは言いました。
「ぼくが前に出る。その間にリサを助けてやって」
「え? お、おい……?」
ジャックが言われている意味を理解できずにいるうちに、フルートは立ち上がり、クモに向かって飛び出していきました。クモが糸を吐き出してきます。それを横にかわすと、また糸が飛んできます。ところが、フルートが後ろに下がったとたん、クモは突然攻撃をやめたのです。何もせずに、ただフルートを見ています。
「やっぱりだ……」
とフルートはつぶやきました。クモは前に進んでくる者だけを攻撃してくるのです。そういえば熊もそうでした。熊は大声を上げて逃げていく者に襲いかかると言われているのに、あの熊は逃げていくビリーのことは追いかけようともしなかったのです。
「森の奥に行かせない番人なのか……」
とフルートはまたつぶやくと、ナイフと、盾代わりの鍋のふたを握り直しました。それならば、戦いようがあるかもしれません。
ちらりと後ろを振り返ると、ジャックが剣でリサの体から糸を切っているのが見えました。さすがに英雄の孫と自慢するくらいのことはあるようです。決して逃げ出そうとはしません。
フルートはクモに向かってまた飛び出していきました。飛んでくる糸をかわしながら、少しずつジャックとリサからクモを引き離そうとします。すると、空き地の外れに突き当たってしまいました。フルートは大急ぎで後ろに飛び下がりました。とたんに、クモが攻撃を止めます。
フルートは、激しくあえぎながら体勢を整えました。後ろに下がりさえすればクモにやられる心配はありませんが、それではらちがあきません。それに、クモのすぐ近くにはチムが転がったままでいるのです。
ジャックがリサの体を糸の束の中から引きずり出しているのが見えました。リサはまだ気を失ったままです。
フルートはまた前に飛び出しました。クモの糸が飛んできます。それをフルートは鍋のふたで受け止めました。クモとフルートの間に糸が張り渡されます。
とたんに、フルートは鍋のふたを手放しました。ふたは勢いよくクモに向かって飛んでいき、小さな丸い頭を直撃しました。
シーーッ……!
クモが思わずたじろいだ瞬間、フルートは思い切り前に飛び出して、ナイフでクモの前足に切りつけました。小枝を切り払うように、前足がすっぱり切れて宙を飛びます。
シ・シ・シーー……!!
クモが悲鳴を上げました。あわてて身を引こうとした瞬間を狙って、フルートは足をもう一本切り払いました。緑の体液が飛び散り、クモが大きくのけぞります。その隙に、フルートはまた大きく後ろに下がりました。
大グモはそのままフルートとにらみ合っていましたが、やがて、くるりと後ろを向くと、茂みを踏みしだきながら、森の奥へ姿を消していきました。逃げていったのです。
フルートは、突然体中の力が抜けて、へなへなとその場に座りこんでしまいました。体中汗びっしょりになっています。
空き地の片隅には鍋のふたが転がっていました。クモが地面に叩きつけたので、大きくひしゃげてしまっています。それを見たとたん、フルートは改めて、ぞっとしました。こんなふうにつぶれていたのは、フルートの方だったのかもしれないのです。
すると、目の前にぬっとジャックが現れました。相変わらず意地の悪い表情をしていますが、いつもとは違う目の色でフルートを見ています。
「おまえ……ホントにフルートだよな」
とジャックがうさんくさそうに言いました。
「フルートにしちゃ、やけに勇敢じゃねえか。どうしたんだ、いったい」
けれども、その時、泣き声が聞こえてきました。
「助けて……早く助けてよ、ジャックー……」
ぐるぐる巻きのチムでした。ジャックは我に返った顔になると、すぐに駆け寄って、剣でチムの糸を切り始めました。フルートも急いで行って、一緒にナイフで糸を切り、糸の束を引きむしってやりました。
「た、助かったぁ……」
チムが泣きべそ顔で糸の中からはい出してきました。まだ体のあちこちに糸はへばりついていますが、怪我はありません。
「ちっ、迷惑かけやがって」
ジャックが怒ったように言ったので、チムは泣き顔のまま小さくなりました。
リサは空き地の隅に倒れていました。まだ気を失っていますが、こちらも怪我はないようです。
フルートは、ほっとすると、改めて森の奥を見ました。森は薄暗く静まりかえっています。大グモはもう遠くへ逃げてしまったようですが、前進すれば、また何かが現れて行く手をふさぐことでしょう……。
フルートは大きく息を吸うと、立ち上がって歩き出しました。
「おい、どこへ行く?」
とジャックが声をかけてきます。フルートは前を向いたまま答えました。
「森の奥の泉に。ぼくはどうしても金の石を取ってこなくちゃいけないんだ」
ベッドの上で苦しんでいるお父さんの姿が思い浮かびました。フルートはきゅっと唇をかむと、森の奥目ざして進んでいきました。
「おい、待てフルート。待てったら……!」
ジャックが半ば怒り、半ばあきれた声で呼びましたが、フルートは立ち止まりませんでした。
「あの野郎…………」
ジャックは歯ぎしりをして立ち上がりました。祖父の剣を握りしめます。目を丸くして驚いているチムに、ジャックは早口に言いました。
「俺はこのまま進む。おまえはリサが目を覚ましたら一緒に帰れ」
「ええぇっ!?」
チムが悲鳴を上げました。魔の森の中に自分たちだけ残されるのが恐ろしかったのです。とたんにジャックの怒声が飛びました。
「リサはおまえを捜してここまで来たんだ! おまえも男なら根性見せろ! いいか、ひとりで逃げるんじゃねえぞ。そんなことをしたら後で気を失うまでぶん殴るからな!」
チムは真っ青になって、こくこくと何度もうなずくと、リサのかたわらにすっ飛んでいって座りこみました。ぶるぶる震えていますが、自分だけで逃げ出す気配はありませんでした。
「けっ」
ジャックは身をひるがえしました。フルートの姿は木立の間に隠れて見えなくなってしまっています。
「あんな腰抜けに後れをとってたまるか」
とジャックはつぶやくと、フルートの後を追って走り出しました。
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