やがて。
沼の一本道を通るフルートたちのまわりから急に霧が消えました。沼の中に小さな島があり、崩れかけた神殿が建っています。一本道はその島で行き止まりになっていました。
「ここが闇の神殿か……」
フルートは思わず声をひそめて言いました。神殿からメデューサが自分たちの様子をうかがっているような気がしたからです。
けれども、ポチは耳と鼻を動かしながら言いました。
「ワン。この近くにメデューサはいませんよ。生き物の気配がありません。きっと、あの神殿の奥です」
「しっかし変な眺めだよな」
とゼンが腕組みをしながら言いました。神殿のまわりにはまったく霧がないので、古い石造りの建物がくっきりと見えています。建物の中央付近から空に向かって、黒い霧が煙のようにもうもうと立ち上っていました。一度空高く上ると、ゆっくり沼へ流れ落ち、沼の表面から湧き立つ霧と一緒になると、猛烈な黒い渦になって周囲へ流れていきます。どうしてそんな動きになるのか、子どもたちには理解できません。
「あの霧の柱の下に闇の卵があるんだな」
とフルートは神殿を見てつぶやくと、仲間たちに言いました。
「いよいよだよ。さあ、行こう」
「おう!」
「ワン!」
ゼンとポチが即座に答えます。
二人と一匹の子どもたちは神殿に向かって歩き出しました。
沼の中の島は丈の高い草でおおわれていましたが、神殿に向かって踏み分けられたような道がありました。道に足跡が残っていたので、ゼンがかがみ込んで首をひねりました。
「妙だな。神殿に向かう足跡しかないぞ。神殿を出て行く足跡がない」
「なんの足跡なの?」
とフルートは尋ねました。
「いろいろだ。熊、牛、猪、オオカミ……何か得体の知れない生き物の足跡もあるぞ。足のないヤツが体を引きずって通っていった痕もある」
「メデューサ……?」
「いや、こんなに小さくはないだろう。たぶん、さっき沼にいたヒルみたいなヤツじゃないのか。でなきゃ蛇だ。人間の足跡もあるぞ」
「ワン、どういうことでしょう?」
とポチが聞き返すと、ゼンは肩をすくめました。
「さあな。さっぱりわからないぜ」
フルートは草の間に見える神殿を眺めました。あそこにたくさんの動物や人間がいるというのでしょうか。いるとしたら、なんのために? 神殿はもうもうと黒い霧の柱を吐き出し続けています。
すると、突然神殿の中から大きな音が聞こえてきました。
オォーーゴォォーーオォォーー……
風が吹き抜けていくような音に、空気がびりびりと震えます。フルートたちは思わず耳をふさいだり、耳を倒したりしました。
「な、なんだ……?」
とたんに、今来た道の向こうからギャーッとものすごい声が上がりました。それも一つ二つではありません。何百という生き物がいっせいに声を上げたのです。
フルートとゼンは反射的に剣や弓矢を構えました。ポチは道の彼方をにらみます。
「ワン、鳥の群れが来ますよ。すごい数でこっちに飛んできます──」
そのことばが終わらないうちに、黒い霧の中から鳥の大群が現れました。霧より黒い羽におおわれた鳥――何千羽というカラスの群れでした。ギャアギャア鳴きながらまっすぐ向かってきます。
「やばい! あんな数、相手にしきれないぞ!」
とゼンが叫びました。射落とそうとしても、数が多すぎてあっという間に矢のほうがつきてしまいます。フルートは前に飛び出して炎の剣を構えました。カラスの群れはもう目の前です。
ところが。
カラスたちは子どもたちには目もくれずに、頭上を飛びこえていきました。ギャアギャア、ガァガァ鳴きわめく声が、羽ばたきの音と共に通りすぎていきます。
「なんだ……?」
子どもたちは目を丸くして見上げました。
とたんに、フルートは故郷のシルの町でも、これとそっくりの光景を見たことを思い出しました。おびただしい数の鳥たちが、渡りの季節でもないのに南へ飛んでいったのです──。
カラスの群れはまっすぐ神殿へ向かうと、吸い込まれるように入り口に飛び込んで姿を消してしまいました。あとには一羽も残りません。
「カラスたちが、お呼びだ、お呼びだ、って言ってましたよ」
とポチが言ったので、ゼンとフルートは顔を見合わせました。
「お呼び? じゃ、あの音はカラスを呼び集める合図だったのか?」
「前にもこんな光景を見たけど、あのときはカラスじゃなかったよ」
あのときの鳥の大群もこの島に来たんだろうか、とフルートは考えましたが、確かめることはできませんでした。
崩れかけた神殿は、またしんと静まりかえっていました。いくら様子をうかがっても、それ以上は何も起こりません。
「油断しないで行こう」
フルートは剣を握り直して、仲間たちとまた歩き出しました。
神殿は灰色の石でできていました。
太い柱が何本も立っていて、ところどころで天井が崩れて床の上に落ちています。柱が倒れて、屋根ごとつぶれている部分もありました。
「石にされたヤツがいないな」
とゼンが意外そうに言いました。メデューサの目を見ると石になると聞いたので、神殿には石にされた人や生き物が立ち並んでいるような気がしていたのです。
神殿の中はがらんとしていて、砂っぽい床が広がっているだけでした。
「ワン、カラスたちもいませんね」
とポチも言いました。神殿の中は静かで、羽ばたきの音ひとつ聞こえませんでしたが、そこをカラスが通っていった証拠に、床の上に黒い羽毛が何枚も落ちていました。
「もっと奥に行ったんだろうね。ぼくたちも進もう」
とフルートは先頭に立って歩いていきました。
すると、じきに広間の跡のような場所に出ました。大きな四角い部屋には、壁に沿って石でできた彫刻が並んでいます。壊れて形もわからなくなっているものがほとんどでしたが、かろうじてひとつだけ形を保っていた石像は、角が生えた怪物の姿をしていました。
「メデューサに石にされたのか?」
とゼンが言ったので、フルートは首をひねりました。
「それにしては、ずいぶん古い石像だよ? もう何百年もたっているみたいだ」
すると、ポチが突然、しっと言いました。
「気配が伝わってきます……。この石像、生きてますよ」
フルートとゼンは目を見張り、すぐに剣や弓を構えました。ゼンは強力な鋼の矢を弓につがえます。
ぎしぎし、と音を立てながら石像が動き出しました。ぎこちない動きで壁から離れ、ゆっくりと歩き出します。子どもたちは思わず後ずさりました。
すると、突然石像が目の前から姿を消しました。
「上だ!」
とゼンが叫びます。
怪物の石像は彼らの頭上に飛び上がっていました。フルートはとっさに剣でなぎ払い、ゼンは矢を放ちました。石像が宙で身をかわして、彼らのすぐ目の前に飛び降りてきます。それはもう石像ではなく生きた怪物でした。全身黒い皮膚でおおわれていて、頭に一本角を生やしています。
「ワン! もう一匹来ます!」
とポチが言いました。
腕がコウモリのような翼になった石像が、背後の出口付近から飛んできたのです。フルートがふりむきざまに剣を振ると、翼の怪物は炎の弾をかわして、角の怪物のわきに降り立ちました。こちらも石像から本物の怪物に変わっています。
「ワン、ガーゴイルですよ! 生きている石像の怪物で、あんな見た目でもすごく硬い体をしてるんです!」
とポチがまた言いました。
「ゼン、援護してくれ!」
とフルートは怪物へ切りかかっていきました。
すると、翼のガーゴイルが空に飛び上がりました。角のガーゴイルは牙をむいてフルートに襲いかかってきます。フルートは攻撃をかわして切り払いました。硬い手応えが伝わってきて、角の怪物の左腕が火を噴いて飛びます。
そこへ頭上から翼のガーゴイルが急降下してきました。フルートはとっさに腕を上げて防御しましたが、間に合いませんでした。ガーゴイルは右足でフルートの腕をつかみ、左足の爪でフルートの顔を握りつぶそうとします。
びぃん。
弓弦の音が響き渡って、怪物の眉間に矢が突き刺さりました。ゼンが鋼の矢を放ったのです。地面に落ちた怪物にフルートは剣を突き立てました。
「よし、一匹!」
翼の怪物が炎に包まれたのを見てゼンが歓声を上げます。
片腕になった角のガーゴイルは、仲間がやられたのを見ると、背中を向けて逃げ出しました。
「あ、待て――!」
フルートたちは後を追いかけようとしましたが、急にポチが立ち止まりました。
「ワン! 音です!」
フルートとゼンも思わず立ち止まりました。
「音?」
「ワン。何かがシュウシュウいう音です。それから、地面の上をこするような、ザラザラいう音……」
「メデューサだ!」
と子どもたちは言って、息を呑みました。
神殿の奥へ走っていた角のガーゴイルが、ヒーッと悲鳴を上げて、凍りついたように動かなくなったのです。その体がたちまち石に変わり、粉々に砕けて崩れていきます。元の石像に戻ったのではありません。明らかに外からの力で破壊されたのです。
子どもたちは青ざめました。
「メデューサが来る!」
「隠れろ!」
フルートとゼンとポチは、片隅の崩れ落ちた柱の陰に飛び込むと、体をできるだけ小さくして息を潜めました。