森を奥へ進むにつれて、なんとも言えない不気味な感じは、ますます強くなってきました。
何も見えません。何も聞こえません。けれども、得体の知れない気配が子どもたちを押し包んでいるのです。
子どもたちは一列になって歩き続けましたが、いつの間にかチムを呼ぶ声が小さくなり、おそるおそるあたりを見回すだけになっていました。時々わけもなく、ぞおっと背筋が寒くなるような気持ちが走り抜けていきます。そのたびに子どもたちは立ち止まり、まわりの気配をうかがいながら、顔に噴き出した冷や汗をぬぐいました。
「ほんとに気味の悪いところ」
とリサが言いました。
「なんだか、ずっと誰かに見られているような感じがするのよ。何かがすぐ後ろをついてきているみたいな――」
「やめろ!」
とジャックが乱暴にさえぎりました。ふてぶてしい顔におびえるような色が浮かんでいます。けれども、さすがのリサもそれをからかうことはできませんでした。リサ自身がジャックに劣らずおびえた顔をしていたからです。
すると、真ん中を歩いていたペックが崩れるように膝をつき、地面に突っ伏してげえげえと吐き始めました。他の子どもたちは驚いて立ちすくみます。
ペックは胃の中のものを何度も何度も吐くと、よろめきながら立ち上がりました。顔は土気色(つちけいろ)でまるで死人のようです。
「呪いだ!」
とペックは叫びました。
「森の主が俺たちに呪いの魔法をかけたんだよ! 俺たちは死ぬんだ! 気が狂って死んじまうんだ──!」
「なに血迷ってやがる!」
とジャックは叱りつけました。
「怖い怖いと思ってるから、胃袋がでんぐりがえっちまったんだろうが。正気に返るように一発食らわせてやる」
ジャックが拳をかざして近寄ると、ペックはものすごい力でそれを突き飛ばしました。
「もういやだ!! 死ぬんならジャックだけにしろ!! 俺は死にたくない!!」
ペックは金切り声を上げると、今来た方向へ駆け出しました。後ろにいたリサやフルートも突き飛ばして、まっしぐらに逃げていきます。
子どもたちは地面に尻もちをついたまま、声も出せずにそれを見送りました。今まで張りつめていたものが弾けて切れて、一緒に逃げ出したい気持ちに襲われます。
フルートも体中をがたがた震わせて座りこんでいました。止めようと思っても震えは止まりません。怖くて怖くて今にも息が詰まりそうです。そのまま地面を這ってでも、森の出口を目ざしたくなります。
だけど……
フルートは唇を血がにじむほどかみしめました。
だめです。今、家に逃げ帰るわけにはいかないのです。
フルートは自分の膝をつかんで立ち上がりました。恐怖を払い飛ばすように大声で叫びます。
「チム!! チム、どこだい!?」
その声に、ジャックとリサも、はっと我に返りました。自分たちが何のためにここにいるのかを思い出したのです。
「ちくしょう!」
ジャックが悪態をつきながら立ち上がりました。祖父の剣を握り直すと、フルートをにらんでから、一緒に呼び始めます。
「チム! どこにいやがる!?」
リサも立ち上がって呼び始めました。
「チム! 返事をしなさい、チム──!」
すると。
森の奥から、かすかに声が聞こえてきました。
子どもたちは、またはっとして耳を澄ましました。男の子の泣き声だったので、リサが歓声を上げます。
「チムよ! 今度は間違いないわ! チムの声よ!」
リサは声のする方へ走り出して、低い茂みをくぐり抜けました。フルートとジャックも後を追って茂みに入ります。
とたんにリサの悲鳴が響き渡りました。
フルートとジャックは思わず顔を見合わせ、あわてて茂みから飛び出しました。
彼らの目の前で、リサが立ちすくんでいました。
その先には木がまばらになった小さな空き地があり、空き地の向こう側に見上げるような生き物がいました。長い八本の足、短い毛が生えた丸い体、体にへばりつくような小さな頭、八つの複眼……巨大な蜘蛛(くも)でした。全長三メートル以上もある大蜘蛛です。
フルートたちはリサと同じように立ちすくんでしまいました。とても子どもが戦えるような敵ではありません。
蜘蛛が子どもたちに近づいてきました。ペキペキと足下の茂みを踏み砕く音が響きますが、一緒に弱々しい声も聞こえてきました。
「助けて、姉ちゃん……助けて……」
子どもたちはぎょっと声のほうを見ました。蜘蛛の足下に、いびつな白い糸の塊が転がっていました。まるで巨大な白いイモムシのようですが、糸のまばらなところから歪んだ唇と片目がのぞいています。
「チム!!」
とリサは叫びました。チムは大蜘蛛に捕まり、糸でぐるぐる巻きにされていたのです。
蜘蛛が八つの目で子どもたちを見ました。
「危ない!」
子どもたちが反射的に飛びのくと、シーッという音と共に白い糸が飛んできました。大蜘蛛は糸を尻からではなく口から吐いたのです。粘りけのある糸の塊が地面にへばりつきます。
リサは、かっと顔を赤くしました。帯にはさんでいた鞭を抜くと、うならせながら蜘蛛に向かっていきます。
「チムを離しなさいよ、この怪物!!」
「リサ!」
「無茶だ!」
ジャックとフルートは思わず声を上げました。
その目の前で蜘蛛が白い糸を吐いてリサの体を絡め取りました。リサが悲鳴を上げます。
「きゃああ、いやぁぁ……!!」
狂ったように身をよじりますが、蜘蛛の糸は丈夫でまったく切れません。そこへ蜘蛛がさらに大量の糸を吐き出しました。リサと蜘蛛の間に糸の束がぴんと張り渡されます。
シ・シ・シ……
大蜘蛛は空気の漏れるような声をたてながら、二本の前足で糸をたぐり寄せ始めました。リサの体がぐっと蜘蛛に引き寄せられます。
「いやーっ!!!」
リサはまた悲鳴を上げるとその場に倒れました。……気を失ったのです。
「リサ!」
立ちすくんでいたフルートとジャックは我に返りました。蜘蛛はリサの体をどんどん引き寄せていきます。
フルートはナイフを手に飛び出していきました。ジャックもそれに続きます。
すると、蜘蛛は突然リサにつながった糸を切り、新しい糸の束を少年たちへ吐き出しました。フルートとジャックは左右に飛びのいてかわします。
「近づけねえ!」
とジャックがわめきましたが、フルートは前に飛び出しました。また糸が襲ってきたので飛んでかわすと、また糸の攻撃――。本当に近づけません。
フルートは唇をかむと、大きく飛び下がりました。体勢を立て直そうとしたのですが、足が小石で滑りました。バランスを崩して仰向けに倒れてしまいます。
「フルート!」
ジャックのあせった声が響きます。
フルートはとっさに両手を前に突き出しました。飛んでくる糸を防ごうとしたのです。
ところが、蜘蛛は今度は何もしてきませんでした。ただフルートたちをじっと見ています。
「……?」
フルートは目を丸くしながら体を起こしました。尻もちをついた格好で、じりじりと後ずさりますが、やはり蜘蛛は襲いかかってきません。
フルートは急にあることに気がつきました。剣を握ったまま動けないでいるジャックに言います。
「ぼくが前に出る。その間にリサを助けてやって」
「え? お、おい……?」
ジャックが言われたことを理解できずにいるうちに、フルートは立ち上がり、蜘蛛に向かってまた飛び出していきました。
蜘蛛はまた糸を吐きました。それを横にかわすと、また糸が飛んできます。ところが、フルートが後ろに下がったとたん蜘蛛は突然攻撃をやめたのです。何もせずに、ただフルートを見ています。
「やっぱりだ」
とフルートはつぶやきました。蜘蛛は前に進んでくる者だけを攻撃してくるのです。
そういえば熊もそうだった、とフルートは思い当たりました。熊は背中を向けて逃げていくものを襲う本能があるというのに、あの熊は逃げていくビリーのことは追いかけようともしなかったのです。「森の奥に行かせない番人なのか……」
とフルートはまたつぶやきました。それならば戦いようがあるかもしれない、と盾代わりの鍋の蓋を握り直します。
ちらりと後ろを振り返ると、ジャックが剣でリサの体から糸を切っていました。子分たちと違って、自分だけ逃げ出すような真似はしていません。英雄の孫と自慢するだけのことはあるようです。
フルートは蜘蛛に向かってまた飛び出していきました。飛んでくる糸をかわしながら移動して、少しずつジャックとリサから蜘蛛を引き離そうとします。
すると、空き地の外れに突き当たってしまいました。フルートは大急ぎで後ろに飛び下がりました。とたんに蜘蛛が攻撃を止めます。
フルートは肩で息をしながら体勢を整えました。後ろに下がりさえすれば蜘蛛にやられる心配はありませんが、それでは埒(らち)があきません。それに蜘蛛のすぐ近くにはチムが転がったままなのです。
ジャックがリサの体を糸の束の中から引きずり出しているのが見えました。リサはまだ気を失っています。
フルートはまた前に飛び出しました。飛んできた糸を鍋の蓋で受け止めると、糸の束が蓋にへばりつきます。蜘蛛とフルートの間に糸が張り渡されました。蜘蛛が糸をたぐったので、フルートがぐんと引っ張られます。
とたんにフルートは手を離しました。蓋は糸と一緒に勢いよく飛んで、蜘蛛の丸い頭を直撃します。
シーッ……!
蜘蛛がたじろいだ瞬間、フルートは思い切り前に飛び出してナイフで切りつけました。蜘蛛の片方の前足が、小枝を切り払うようにすっぱり切れて宙を飛びます。
シ・シ・シー……!!
蜘蛛があわてて身を引こうとしたので、フルートは足をもう一本切り払いました。緑の体液が飛び散り、蜘蛛が大きくのけぞります。
フルートも大きく後ろに下がりました。すぐにナイフをまた構えますが、この状況でも蜘蛛は退いた者には襲いかかってきませんでした。少しの間フルートとにらみ合うと、くるりと背中を向け茂みを踏みしだいて森の奥へ消えていきます。逃げていったのです。
フルートは全身の力が抜けて、へなへなと座りこんでしまいました。体中汗びっしょりになっています。
空き地の片隅には鍋の蓋が転がっていました。蜘蛛が地面に叩きつけたので、大きくひしゃげてしまっています。それを見たとたん、フルートは改めてぞっとしました。こんなふうにつぶれていたのは、フルートのほうだったのかもしれないのです。
すると、目の前にジャックが立ちました。相変わらず意地の悪い表情ですが、いつもとは違う目つきでフルートを見ています。
「おまえ、ほんとにフルートだよな?」
とジャックがうさんくさそうに言いました。
「フルートにしちゃやけに勇敢じゃねえか。どうしたんだ、いったい」
けれども、そこへ泣き声が聞こえてきました。
「助けて……早く助けてよ、ジャック……」
ぐるぐる巻きのチムでした。ジャックは我に返った顔になると、すぐに駆け寄ってチムの糸を切り始めました。フルートも急いで行って糸の束を引きむしってやります。
「助かったぁ……」
チムが泣きべそ顔で糸の中からはい出してきました。まだ体のあちこちに糸がへばりついていますが、怪我はありません。
「迷惑かけやがって」
ジャックが怒ったように言ったので、チムは泣き顔のまま小さくなりました。
リサは空き地の隅に倒れていました。まだ気を失っていますが、こちらも怪我はないようです。
フルートはほっとすると、改めて森の奥を見ました。森は薄暗く静まりかえっています。大蜘蛛はもう遠くへ逃げてしまったようですが、前進すれば、また何かが現れて行く手をふさぐことでしょう……。
フルートは大きく息を吸うと、立ち上がって歩き出しました。
「おい、どこへ行く?」
とジャックに声をかけられて、フルートは歩きながら答えました。
「森の奥の泉だよ。ぼくはどうしても金の石を取ってこなくちゃいけないんだ」
ベッドの上で苦しんでいるお父さんの姿が思い浮かびました。早くしなければ間に合わなくなってしまいます。
「おい、待てフルート! 待てったら……!」
ジャックにあきれたように呼ばれても立ち止まりません。
「あの野郎……」
ジャックは歯ぎしりをして跳ね起きました。祖父の剣を握りしめると、驚いているチムに言います。
「俺はこのまま進む。おまえはリサが目を覚ましたら一緒に家に帰れ」
「ええぇっ!?」
チムは悲鳴を上げました。魔の森の中に自分たちだけ残されるのが恐ろしかったのです。
とたんにジャックの怒声が飛びました。
「リサはおまえを捜してここまで来たんだ! おまえも男なら根性見せろ! いいか、ひとりで逃げるんじゃねえぞ。そんなことをしたら後で気を失うまでぶん殴るからな!」
チムは真っ青になって何度もうなずくと、リサのかたわらにすっ飛んでいって座りました。ぶるぶる震えていますが、自分だけで逃げ出す気配はありません。
「けっ」
ジャックは身をひるがえしました。フルートの姿は木立の間に隠れて見えなくなっています。
「あんな腰抜けに後れをとってたまるか」
ジャックは怒ったようにつぶやくと、フルートの後を追って走り出しました。